マリーアントワネットの生涯⑲ 王妃の革命裁判の詳細と最後の手紙(遺書)。死刑判決の後、処刑(ギロチン)までの残りわずかな時間を王妃はどのように過ごしたのでしょうか?

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コンシェルジュリー牢獄に入れられてからのアントワネットは、日に日に衰弱していきました。

最後の救出のチャンス『カーネーション事件』も失敗に終わり、牢獄の中で毎日毎日地獄のような日々を過ごしていました。

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マリーアントワネット⑱ コンシェルジュリー牢獄での生活 美貌は見る影もなく衰弱し、髪は白髪、ボロボロのドレス・・・陰惨な獄中で王妃は一体何を想って過ごしたのでしょう?最後の救出計画『カーネーション事件』の詳細も。

◆ついに運命のマリーアントワネットの裁判が始まります

これまで外国との交渉に必要な人質だったアントワネットでしたが、カーネーション事件をきっかけについに裁判にかけられることになりました。

10月12日午後6時、非公開での予審が始まります。
コンシエルジュリーに隣接する革命裁判所(プルミエール・シャンブル)に立たされたアントワネットの傍らに弁護士はいませんでした。

王妃はたった一人で自分の弁護をしなければならないということです。
アントワネットは言葉を一つ一つ慎重に選びながら、次々と浴びせられる尋問に完璧に答えたことに誰もが驚いたといいます。

アントワネットは擦り切れた喪服に、固く糊付けした襞付きの白いリネンのナイトキャップのようなボネには喪の垂れ布、その下にはクレープ地を喪のベールとして付けていました。

フランス国王ルイ16世の未亡人という誇りを示しているのです。

王政が廃止された後、国王はルイ・カペー(平民名)と呼ばれるようになり、彼の処刑後、王妃は「カペー寡婦」と呼ばれていました。
ですが、革命裁判所で名を述べるように言われたとき、マリーアントワネットは自分の誇りである本名を告げるのです。

「マリー・アントワネット・ド・ロレーヌ・ドートリッシュ、37歳、フランス国王未亡人」

と。

このことは明らかに革命政府への反発となります。

当然アントワネット自身も危険だという事をを充分に承知した上で、それでもなお、あえて自分の誇りを貫いたのです。

今こそフランスの王妃としての誇りを持ち、堂々と振る舞わなければいけないということをわかっていたのでしょう。

裁判の主な尋問の内容は、

●王妃の莫大な浪費について、

●チュイルリー宮殿からの国外脱出(ヴァレンヌ逃亡事件)について、

●亡命貴族や実家オーストリア王室と連絡を取り合い、革命を終わらせる目的で軍隊派遣を依頼していたことについて、

●カーネーション事件についてでした。

王妃はその一つ一つの質問に対し明確に答えたといいます。

この頃のアントワネットの名言の一つに、

「不幸になって初めて、人は本当の自分が何者であるかを知るものです」

というものがあります。

そう、アントワネットはようやく母マリア・テレジアが望んでいた立派な王妃となっていたのです

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裁判後、すり切れた喪服で牢屋に戻ったマリーアントワネット

ですがこのマリーアントワネットの裁判は彼女の頑張りも虚しく、実はあらかじめ裏で判決は決まっていたのでした。

審議といっても、有罪を決定づける証拠固めに力が注がれるのみの裁判だったのです・・・。

二日半に及ぶ弁論と審問も形だけで、死刑判決はもう用意されていたのです。

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こちらはマリーアントワネットの裁判の様子です。
もうあの華やかさは描かれません。

ですが、法廷で凜とした姿勢を崩さない誇り高い王妃の姿がみられます。

◆誇り高いフランス王妃として

いよいよマリーアントワネットの公判が10月14日朝8時に始まりました。
この前代未聞の王妃の裁判を一目でも見ようと、大勢の人が駆けつけていました。

そんな中、王妃マリー・アントワネットは毅然とした態度で革命裁判の法廷に出頭しました。

人々から矢のように向けられる憎悪の視線が全身に突き刺さります。

裁判の時のアントワネットは、まだ38才だというのに体の衰弱は痛々しいほど激しく、

まるで60歳の老婆のように見えたといいます。

心臓が弱ってしまったため強心剤を手放せず、視力が弱った目は炎症を起こしていました。

あれほど豊かで美しかった金髪も真っ白な白髪に変わり果てていました。
そして、酷い出血のために血の気を失い、蒼ざめた顔からはほとんど表情らしいものがなくなっていたといいます。

マリーアントワネットは、ここに至るまでに既にあらゆるものを失っていました。

この時、彼女の心の中にあるものはただ一つ、

『王妃らしく名誉ある最後を迎えること』それだけだったように思われます。

痛々しいまでにやつれ切った容姿・・・

そして何ヶ月も前から同じ服を着ていたので、喪服は既にほころびていました。

ですが、こちらのブログでもアントワネットの容姿や魅力について度々ご紹介していますが、

アントワネットの最大の魅力であったのは、

『真珠のように白く美しい肌』と、そして『生まれ持った品格』でした。

王妃の肌は既に荒れてボロボロでしたが、心の中のこの品格だけは最期の時まで決して失われないものだったのです。

そして、この時の満身創痍の状態でもそれだけは健在だったのです。

王妃の品格はいかなる環境に置かれても決して揺るぐことはなく、法廷に集まった人々を圧倒するのです。

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法廷に入廷する王妃マリーアントワネット

マリー・アントワネットは毅然として法廷に向かいます。

オーストリア・ハプスブルク家の皇女、そしてフランス王妃としての威厳をもって入廷したアントワネットに、脅えや緊張は見られません。

この裁判で王妃を身近で見た人々は、

『さすがマリア・テレジアの娘でハプスブルクの血を引く皇女、そして、さすがフランスの王妃だった人だ』

と感じたに違いないでしょう。

王妃の弁護士を務めたのはショヴォー・ラガルドでした。
彼は、その実力で名を轟かせていた有能な弁護士でした。
(ちなみに、マラーを殺し「暗殺の天使」と呼ばれたシャルロット・コルデーや、マダム・ロランの弁護を務めたのも彼です。)

有能な弁護士がついてくれたとはいえ、王妃の判決は既に決まっていますし、動かしがたいことなのが悲しいですが・・・

そしてそのことをマリーアントワネット自身も既に予審で悟っていたようですが、心は落ち着いていました。

被告人席についた彼女の指は、ピアノを弾くように肘掛けの上で動いていたといいます。

続いて判事と陪審員達が入場しました。
マリーアントワネットの裁判での判事の顔ぶれは、

元事務員・元医師・元弁護士・元書生・元警視のコフィナル、

高等法院時代の弁護人でルイ15世の非嫡出子といわれるメール、元代議士のドリエージュ、

最年長のドンゼ=ヴェルトゥイユ、他に代理人として元裕福な農夫フーコー、マリ=ジョゼフ・ラーヌ。

陪審員は、ロベスピエールの友人の外科医スーベルヴィエイユと印刷工ニコラ、

元代訴人トゥーマン、競売物評価委員ベナール、元侯爵で立法議会の代議士アントネル、

鬘師ガネー、木靴工デボワッソー、コーヒー店主クレティヤン、帽子屋バロン、

音楽家リュミエール、指物師ドヴェーズ、元ブルボン連隊竜騎兵の指物師トランシャール、

職業不明のフィエヴェでした。

王妃は40人もの証人の偏見に満ちた証言の間も常に冷静さを保ち、裁判官の尋問にもテキパキと返答したといいます。

そして、その間も王妃の品格を全く失うことはなく、むしろ威厳さえ見せていました。

二人の弁護人も誠意を持ってアントワネットを弁護します。

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革命裁判の様子

偏見に満ちた矢継ぎ早の尋問にも、王妃の答えは明確で非の打ち所がありませんでした。

そして、この裁判で最も恥ずべき告発がエベールによりなされるのです。

それは『アントワネットと王妹エリザベートが、王太子ルイ・シャルルに性的虐待をしていた』というものでした。

法廷中の人々はこのエベールの告発に不快感を持ちます。

裁判長のエルマンは、法廷内の雰囲気を感じ取り質問をしませんが、陪審員に促されてアントワネットに発言を求めました。

アントワネットは『母親への冒涜』と答えます。

そのことで法廷中の女性たちに身分を越えて『女性・母』という連帯感を持たせたのです。

アントワネットの完全勝利でした。

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第一回の裁判が終了したのは23時。15時間にも及びました。

衰弱していたアントワネットでしたが、最期まで疲れを見せず、威厳を崩すことも無く審問を終えました。

傍聴席から「傲慢な女」という罵声が聞こえた時、アントワネットは弁護士ラガルドに答弁に威厳を込めすぎたかと尋ねます。

弁護士は『そのままで良い』と答えました。

この時点でアントワネットは有罪は免れないことを悟ってはいましたが、心中は国外追放を希望していたといいます。

彼女の運命は既に決められているのですが・・・。


◆裁判二日目 やつれきり出血に悩まされながらもまだ希望を失っていなかったという王妃

翌15日にも引き続き第二回の裁判が行なわれました。

出血が続き、体が極度に弱っていた王妃ですが10時間を超える公判の最後まで、凜とした態度を崩すことは決してありませんでした。

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写真画像出典:ma-ashiato.blogspot.com

プルミエール・シャンブル

マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷。

現在も残っているこの法廷内は、アントワネットの時代から全体的な改修工事はされていると思われますが、
壁紙の上の木彫細工の板張りや、傍聴席に置かれた木の長椅子など、
王妃の裁判当時の面影を少なからず伝える部屋となっているようです。

昨日の裁判からアントワネットを告発する証人達は、何一つ証拠を挙げることができませんでした。
唯一彼女に罪があるとすれば、対ヨーロッパ戦争においてフランスの情報を流したことです。

当然フランス王妃としては背信行為に当たります。

ですが、夫の王位と息子の王位継承権、何より自分と家族の命すらも脅かされている時に、兄に助けを求めたということは罪に当たるのでしょうか・・・・?

そして、その物的証拠はこの時点では見つかっていないのです。

アントワネットの二人の弁護士は、公判中に相次いで逮捕されてしまいます。

あまりに熱意を込めて王妃を弁護したというのが理由です。

弁護士の一人トロンソン・デュ・クードレーは、王妃に二つの小さな金の指輪と、彼女の一房の髪の毛を託されていました。

ベルギーのリニーに住む、シトワイヤンのマリーまたはマレーという女性に渡すようアントワネットが頼んだのですが、実際の渡してほしい相手はジャルジェ夫人でした。

が、トロンソン・デュ・クードレーが逮捕されてしまったために、後に没収されてしまいました。

尋問はタンプル塔にいる義妹エリザベートと娘マリー・テレーズ、息子ルイ・シャルルにも行われていました。

エリザベートとマリー・テレーズは、何を聞かれても否定を通しました。

ところが息子のルイ・シャルルは、アントワネットが何かしらの方法を使い外部の協力者と情報を交換していたこと、塔に派遣されたパリ市の役員に共犯者がいるのではないかという嫌疑を全て認めてしまうのです。

母が監視の役人達と一時間半ほど何か相談をしていたとか、

毎晩22時半になると、窓の外から行商人が情報を叫んでいたなどと証言しました。

ですが、エリザベートとマリー・テレーズの証言は一問一答が記録されているにもかかわらず、このルイ・シャルルの証言は後からまとめて書かれたものなのです。

どう考えても8歳の子供が証言したと考えるには信憑性に欠けています。

あまりにも内容が詳細で具体的すぎますよね。

このことを見ても、どんな手を使ってでもマリーアントワネットを有罪にしなければならなかったということがよくわかります。

何故なら、裁判は見せかけだけのものであり、判決は既に決まっているのですから。

こうして、証言内容を無理やりでっち上げでもしなければならないほど、裁判所は追い込まれていたということです。

◆判決が下るとき

こうして3日間にわたる見せかけだけの審議が終わりました。

最期までアントワネットは巧みに陳述し、判事らに付け入る隙を与えませんでした。

法廷の隣室で判決を待つアントワネット。

証人の中の誰一人として明確な証拠を出せなかった事に希望を持っていました。

時代は恐怖政治。

とはいえ、まだ始まったばかりの時期です。

彼女に『国外追放』以上の判決が下るとは、王妃だけではなく傍聴人や証人も考えていなかったといわれています。

陪審員は約一時間ほど協議に入ります。

が、何度も申し上げている通り初めから判決は有罪と決まっているのですから、協議などしても同じことなのです。

彼らは、アントワネットを無罪にしたならば自分達の命が危なくなるのですから。
時代は、民衆は、元フランス王妃である「カペー未亡人の首」を求めていたのです。

1793年10月16日午前4時。

一人の法廷吏がアントワネットを呼びに来ました。

そして、アントワネットは法廷内の壇上にある被告人席に戻ります。

続いて裁判中に逮捕され拘留されていた弁護士ショーヴォー=ラガルドとトロンソン・ド・クードレーも入場しました。

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写真画像出典:ma-ashiato.blogspot.com

プルミエール・シャンブルの入口の扉

いよいよマリーアントワネットの判決が言い渡されるのです。

プルミエールシャンブルの法廷内は水を打ったような静けさに包まれ、これから裁判長の口から告げられるであろう王妃の判決を待っていました。

法廷内の空気は重く、沈黙は息苦しいほどでした・・・。

「アントワネット、これから陪審員の答申を言いわたす。」

裁判長エルマンの声が響きました。

そして、『被告人は死刑に処せられる。』と叫んだのです。

陪審員の表決は有罪。

検事フーキエ・タンヴィルが死刑を求刑し、全員一致で死刑が賛成されました。

罪状は『国家予算を浪費した罪』 。

そのことによって王妃マリーアントワネットは死刑(ギロチン)の判決を受けたのです。

続けて、フランス国内のアントワネットの財産の没収、刑の執行と告示についてなどが述べられました。

その間、アントワネットは終始落ち着いた様子で一切の感情も見せなかったといいます。

裁判長は『何か申し立てがあるか?』と尋ねますが、彼女は無言で首を振りました。

弁護士にも同じ質問をしますが、彼らも答申を肯定し、今回の職務の終了を申し述べました。

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池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』での死刑判決を受けたシーン。

アントワネットは『死刑』という判決を受けても、顔色を変えることも、ましてや叫び声をあげることもなく、微動だにしなかったといわれています。

沈黙の中、誰にも誰何にも目を向けず、静かに法廷を出て行く『マリー・アントワネット・ロレーヌ・ドートリッシュ、ルイ・カペー未亡人』。

身じろぎ一つせずに死刑判決を聞いたアントワネットでしたが、法廷を後にするこの時、

『もう何も見えなくて歩くこともできません』と言い、憲兵の手を借りたといわれています。

視力の弱ったアントワネットが階段で躓き、憲兵の腕を借りながら階段を下りていきます。

こうして見せ掛けだけの王妃の裁判が幕を閉じたのでした。

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『もう何も見えなくて歩くこともできません』

◆死刑判決 処刑の朝までの残された時間を王妃はどうすごしたのでしょうか?

その時コンシェルジュリーの気温は5度、明け方の澄み渡る空の下、憔悴しきったアントワネットはタンプル塔の彼女の独房に向かいました。

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コンシェルジュリー牢獄の暗く、寒い小さな独房・・・

そこでマリーアントワネットは、人生に残された最後の数時間を送るのです。

処刑(ギロチン)はその朝に執行されることになっていました。

刑の執行までは約7時間。

牢屋に帰ったアントワネットは床に跪き神に祈り、そして、そのままベットに横たわりました。

彼女は裁判中、ただでさえ衰弱しているというのに、さらに風邪をひき最悪の体調だったのです。

牢屋では冷えに苦しみますが毛布の使用すら認められず、痔の出血にも悩まされていたといいます。

そんな状態の中、彼女は貧血で倒れそうになる体に鞭打って遺書を書くのです。

看守に蝋燭2本、紙とペン、インクを求め、力を振り絞って最後の手紙をしたためます。

その手紙(遺書)には、これから死にゆく者が残される愛しき者にあてた心からの別れの言葉と願いが書き連ねられていました。

そこには、以前の軽率でわがままで遊び好きの王妃の姿はなく、苦しみや悩みににもがき、過酷な運命によって、内的な成長を遂げた誇り高き王妃の姿がありました。

宛先はタンプル塔に囚われている義妹のエリザベート内親王です。

心優しいエリザベート内親王は、革命後亡命する機会があったにもかかわらず、最後まで兄の家族と運命を共にしたのです。

そして今、両親を失う姪と甥のただ一人の保護者となってしまうのです。

フランス革命が起きてから本当に多くの苦しみや悲しみを味わった王妃マリーアントワネット。
あの序の最後の直筆の手紙(遺書)には、何が書かれているのでしょうか・・・?

この手紙は今でも残っているのです。

●こちらが王妃マリー・アントワネットの遺書。

本物です。
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涙のあとなのでしょうか・・・?

ところどころ染み見られます。

パッと見ただけでも胸が苦しくなるようです。

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写真画像出店:milky0503.blog72.fc2.com

こちらは手紙の裏面。
「どうかあなたの手に届きますように。」とありますが、結局エリザベート内親王にこの遺書が届くことはありませんでした。

そして、エリザベート内親王も翌年、革命裁判で処刑されていまうのです。

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字も筆圧もしっかりしていて、心の乱れがないようです。

※マリーアントワネットの遺書は、夫であるルイ16世の遺書と共に、現在はフランス歴史博物館に展示されています。

アントワネットの最後の手紙は、誇り高く毅然として、そして慈愛に満ちた感動的なものです。

こちらでその全文をご紹介してみたいと思います。

◆マリーアントワネット『遺書全文』

妹よ、これが貴女への最後の手紙です。

私は恥ずべき死刑の判決を受けた訳ではありません。
死刑は犯罪人にとってのみ、恥ずべきものであるでしょう。
貴女の兄上に会いに行くようにとの判決なのです。

無実の私は最後の時に際してもあの方と同じく、しっかりとした態度でいられると思います。

良心の咎めがないので私は平静な気持ちです。

哀れな子供達を残して行く事だけが心残りです。
この気持ちを解って頂けるでしょうか。

私が生きて来られたのは、あの子達と優しく親切な貴女がいらっしゃったからです。

友情からとはいえ、私達と一緒にいる為に何もかも犠牲にして下さった貴女を、私は何と言う状態の中に残して行かなければならないのでしょう。

裁判の口頭弁論の時に判ったのですが、娘は貴女から引き離されてしまったのですね。
あぁ、何と言う可哀相な子供なのでしょう!
あの子に手紙を書く気力もありません。
書いても届かないでしょうし、この手紙でさえ、貴女に届くかどうか判らないのです。

どうか、子供二人に代わって私の祝福を受けて下さい。
子供達がもっと成長した時、貴女と一緒に成れるよう、そして貴女の優しいお世話を受けられる様にと思います。

2人共、私がいつも言い聞かせていた事、生まれ持った義務をわきまえ、それを実行するのが人生で一番大切な事であるのを良く考えて欲しいと思います。

互いに友情と信頼を持つなら、幸せに成れるという事を。
娘はある年齢になっているのですから、弟に優る経験や彼に対する友情から生まれ出る助言によって、常に弟を助けて行かねばならない事を感じて欲しいと思います。

弟の方も友情から出てくる、気遣いや手助けによって、それに答えて欲しいのです。

どんな環境に置かれようとも結局のところ、2人が力を合わせなければ本当の幸福はないと解って貰いたいのです。

私たちの例に倣って欲しい!
不幸の最中にあって、私たちが互いの友情によって、どれだけ慰めを得た事か。
幸せな時は、それを友人と分かち合える事で喜びが二倍になります。

そして自分の家族以外の何処で、より優しい、より親しい友人を見つける事が出来るでしょうか。

息子は私が何度も繰り返した父の最後の言葉を決して忘れないように。
つまり、私たちの死の復讐を決して思わないように。

それから、これは申し上げるのも辛いのですが、あの子がどんなに貴女に苦労を掛けたのか判っております。
でも、どうか赦してやって下さいませ。
まだ幼い子供です。
それに大人は子供に望み通りの事、自分が判っていない事さえ、容易く言わせる事が出来るのをお考え下さい。

あの子達に対する貴女の優しい、お気持ちを息子が理解できる日がいつかは来るものと思いますし、そう願っています。

さて、私の最後の気持ちをお伝えしなければなりません。
裁判が始まった時から、お伝えしたかったのですが、手紙を書かせて貰えなかった事は別にしても裁判が早く進み過ぎたのです。
それで本当のところ時間も無かったのです。

私は先祖代々の、その中で育てられ常に信じて来た神聖なるローマ・カトリックの宗教を奉じて死んで行きます。

どんな精神的な慰めもなく、この地上にまだ、この宗教の司祭が居るのかどうか。
又、居たとしても彼らが私のいる場所に一歩足を踏み入れれば、危険に晒されるかどうかも判らぬまま死んで行きます。

私は生まれてから、今までに犯した罪の全ての罪の赦しを神に願います。
これは今までにもお祈りして来ましたし、私の最後の願いにもなります。

皆様、特に貴女にはそのつもりはなくとも心配をお掛けした事をお詫びしたいと思います。

また私に危害を与えた敵をみな赦します。
叔母様、兄弟、姉妹の皆様に最後のお別れを申し上げます。

私にも友達がありました。
二度とお目に掛かれないと思い、その方達のお気持ちを察すると、それが死に際して最も心残りな事です。
この方々の事を最後の瞬間まで考えていたと、お知り置き願いたいと思います。

さようなら!懐かしい妹。
この手紙がそちらに届きますように!
私の事を永遠に忘れないでいて下さいね。

貴女とあの可哀相な子供達を心から抱擁します。

神よ!この人達と永遠に別れるのは、なんと辛い事なのでしょう!

さようなら!さようなら!

もう後は神に一切をお任せするだけです。

私は自分の願い通りに出来ない境遇なので、恐らく宣誓司祭が連れて来られるでしょう。
でも私はきっぱり拒否します。
そして何も言わないし、全く関係のない人間として対応するつもりです。

異常がマリーアントワネットの手紙(遺書)の全文です。

いかがでしょうか・・・?

王妃マリーアントワネットが最期に遺書に書き遺したのは、

恥ずべき死刑ではなく夫に会いに行くという判決が下り、良心に咎めがない者として心が平静であるということ。

可哀そうな子供達を残していく心残り。

復讐をしないようにという父ルイ16世の言葉、主義を護り義務を実行し友情と信頼をはぐくむ事こそ幸福への道だという母の言葉を忘れないでほしいということ。

そして、義妹エリザベートへの心からの感謝と、幼い息子ルイ・シャルルが彼女の名誉と心を傷つけた事への詫び。

ローマ・カトリックの信仰に従い神の下へ行くということ。

気付かぬうちに苦痛を与えていたかもしれない人々に求める赦し、敵に与える赦し。

友人達と永遠に別れなくてはならないことの悲しみ。

(この友人達とは、ただ一人フェルゼン伯を指しているという説もあります。)

そして、何度も何度も繰り返されるエリザベートへの感謝・・・。

この最後に力を振り絞って書いた手紙をアントワネットは看守長ボーに預けます。

ですが、ボーは検事フーキエ・タンヴィルに提出し、その後、この手紙は行方不明となってしまうのです・・・。


ようやく見つけられたのはロベスピエールの処刑後、彼の書類の中からでした。

手紙を発見したクールトワという男は、ロベスピエールの書類を盗み出し、それを売ってお金にしていました。

ですが、マリーアントワネットの手紙だけは21年もの間隠し続けます。

後に王政復古でルイ・16世の弟プロヴァンス伯爵がルイ18世となった時、クルートワは国王に取り入ろうと、ルイ18世に手紙を渡します。

ですが期待は外れ、彼は追放されます。

ルイ18世によって手紙が公開されたとき、既にエリザベート、ルイ・シャルルはこの世に無く、フェルゼンも暴徒に襲われて亡くなっていました。

唯一、娘のマリー・テレーズだけが残されていたのです。

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マリー・アントワネットのサイン。

遺書を書き上げたアントワネットに、刻一刻と迫りくる処刑の時・・・

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写真画像出典:dokodemo-bessou.com

コンシェルジュリー牢獄で王妃が最期の日まで使用していた水差し。

処刑の日にもこの水差しで水を飲み、断頭台へ向かったといます。
彼女が好きだった花々が描かれています。

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写真画像出典:dokodemo-bessou.com

アントワネットが愛用していた十字架。

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写真画像出店:roseangela.blog11.fc2.com

高橋真琴さん挿絵のマーガレット文庫『悲しみの王妃』

絵が美しくアントワネット書籍の中でも本当に貴重な一冊。

次回のマリーアントワネットの生涯⑳では、悲劇の王妃マリーアントワネットの最期。

王妃の処刑についてご紹介したいと思います。

↓  ↓  ↓

マリーアントワネット⑳ 革命に散った悲劇の王妃の最期~断頭台(ギロチン)で首をはねれれ処刑されたマリー・アントワネット。その最期は『誇り高いフランス王妃』そのものでした。

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