今回のブログ記事では、マリーアントワネットの生涯⑮
『タンプル塔に捕らわれた王妃マリーアントワネットの生活』を肖像画など画像満載でご紹介してみたいと思います。
この記事の目次
◆悲劇のフランス革命の勃発により転落していく王妃マリーアントワネットの人生
まずはフランス革命が起こってからのマリーアントワネットの人生をさっとおさらいしていきましょう
1789年フランス革命が起こり、ヴェルサイユ宮殿を追われ、パリのチュイルリー宮殿での生活を始めたアントワネット。彼女は愛人のフェルセン伯爵の助言により、一家でパリからの亡命を企てるのです
詳しくはこちらのブログ記事もどうぞ
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マリーアントワネットの生涯⑮ 過激化するフランス革命~ 8月10日事件(8月10日の革命)から九月虐殺の悲劇。ランバル公妃や貴夫人たちの壮絶な最期。
このヴァレンヌ逃亡事件は結局失敗に終わるのですが、
この事件をきっかけに民衆の心は今度こそ完全に国王一家から離れてしまったのです。
パリに連れ戻された国王一家でしたが、もはやルイ16世に国王として脱帽する者は一人もいなかったといいます。
ヴァレンヌ逃亡時の王妃(1791年)
逃亡の慌ただしさの中で描かれたため、顔以外は彩色されず未完成のままとなっています。
国王一家に待っていたのは、パリの民衆の怒りと侮蔑を込めた冷ややかな視線だけでした。
ブルジョワに扮したルイ16世とその家族が逃亡先のヴァレンヌで逮捕される場面。
その後、フランスはオーストリアと戦争を始めます。
やがて、議会によりフランスの危機宣言がなされたのにもかかわらず、
国王軍が「国王に従え」
「国王一家が住む宮殿を襲撃したらパリを制圧する」
と宣言したため、民衆の怒りは頂点に達し、ついには国王一家が住むチュイルリー宮殿が民衆に襲撃され、フランス王政は崩壊することとなったのです(8月10日事件)。
その後1792年9月21日、立法議会は王政廃止を宣告します。
議会を招集して国王一家のタンプル塔への幽閉が決定したのです。
議会は『国民公会』と呼ばれるようになります。
そして、この名称を提案したのは、過激な革命家ロベスピエールでした。
彼は王の処刑を強く望み、
「ルイは死ななければならない。国のため、人類のため、ルイは処刑されなければならないのだ」
と同士たちに力説していました。
議会が王政を廃止し、共和国になった宣言を聞くルイ16世。
左は失意の王妃マリー・アノトワネットと王妹エリザベート。
泣き続けるマリーアントワネットとは対照的に、ルイ16世は動じることはなかったといいます。
◆タンプル塔へ幽閉されるマリーアントワネット及び国王一家
チュイルリー宮殿にいてはいつまた暴徒に襲われる危険がある上に、
王党派による手引きで再び逃亡する可能性もあります。
宮殿は広すぎて監視も充分に出来ないため、国王一家の幽閉先に選ばれたのが中世に建築された『タンプル塔』でした。
ルイ16世、王妃マリーアントワネット、二人の子供達、国王の妹エリザベートは、陰惨な要塞タンプル塔に監禁されることに決まりました。
タンプル塔は12世紀、聖堂騎士団の中でも名高いテンプル騎士団(英語読み)の修道院を兼ねた本拠地でした。
後に騎士団が解散後、広大な領地は分割され、フランス革命の頃には脱獄が極めて難しいため監獄として利用されていたようです。
壁が厚い上に窓が小さく、外界からの侵略にも充分に耐えられると見なされ、国王一家の幽閉に最適と考えられたのです。
古修道院を流用した脱走困難とされるタンプル塔(監獄)
この陰惨な建物が、国王一家にとって最後の住居となるのです・・・
国王一家を幽閉するにあたり、塔の周辺にあった家はすべて取り壊し、木も切り倒し、どこからでも監視をしやすくするほどの神経の使いようでした。
塔はまるで大海に浮かぶ孤島のようでした・・・
塔に行く途中も国王一家が乗る馬車は、わざと遠回りをします。
革命家たちはパリ市民に、自分たちの勝利品を見せびらかしたかったのです。
そして、アントワネットは国民軍兵士らから様々な聞くに耐えない罵倒を浴びせられ、堪え難い屈辱を味わったといいます
国王の権威は、もはやなくなっていました。
革命家が主権を握り、
国王及びその家族の運命すら左右されることになっていました。
そして国王一家がタンプル塔に連行された同夜、コンシェルジュリー牢獄からカルゼール広場に恐怖の象徴ギロチンが据え付けられました。
この恐怖の処刑具ギロチンが、今後王党派も革命派も問わず、無数の人々の命を奪っていくのです。
陰惨なタンプル塔
タンプル塔はもともとは王弟のアルトワ伯爵が所有していました。
マリーアントワネットは若き日に何度も足を運んでいたタンプル塔に幽閉されることになったというのは皮肉なものですね
◆タンプル塔でのマリーアントワネットの暮らしぶりは?
タンプル塔に移送された国王一家は、質素な部屋で厳しい監視がついた生活となりました。
外から内部が見えないように全ての窓は厚い布で覆われていました。
国王一家の監視に当たったのは、革命の立役者の中でも『狂犬』と異名をとるほど性根の下劣な極左派のエベールでした。
(ルイ16世を失った後、無力となったマリーアントワネットに対して、執拗な脅迫を繰り返すのが彼です。)
塔の3階と4階が一家の住居としてあてがわれました。
各階はそれぞれ4つの部屋に仕切られ、質素な家具が置かれていました。
3階が国王の居室と王妃と子供達、4階に王妹エリザベートの部屋が与えられて、国王一家の新しい住居となります。
タンプル塔の監視は厳重だったにも関わらず、国王一家は外界の出来事を詳しく知る事が出来ました
従者に見聞きした事を教えてもらったり、王党派に雇われた新聞の売り子たちが塀の外でニュースを叫んで聞かせていたからです。
タンプル塔に移るにあたり、ルイ16世は奉公人を付けるようコミューンに申し入れ、従者2名、侍女4名だけが許されました。
そして驚くことに、タンプル塔では国王一家が快適な暮らしを送れるように、監視の存在以外は王家の人々に対しチュイルリー宮殿より優遇する措置がとられていたようです
タンプル塔での暮らしは、日々変化のない退屈なものでした。
今日は昨日の続きであり、明日も今日の続き・・・毎日がその繰り返しでした
一家は毎日規則正しい生活を送り、ルイ16世は朝6時に起床し、着替えをすると9時まで読書をしました。
アントワネットは夫よりも遅く起き、息子の着替えを手伝い、国王夫婦と子供達、エリザベート内親王と朝食を一緒に摂りました。
食事の後ルイ16世は、将来王になるであろう息子に勉強を教えるのが何よりの楽しみでした
数学やラテン語、地理、歴史・・・科学や探検にも興味を抱き、博学なルイ16世の知識は豊富でアントワネットが見直したほどだったといいます。
国王の部屋には、多数のラテン語の古典を含めた237冊の書物を収めた書庫が用意されていました。
タンプル塔に幽閉されている時の画王子に様々な学科を教える国王
タンプル塔でルイ16世が使っていたチェス カルナヴァレ博物館
タンプル塔ではある程度普通の生活ができたのでしょうね。
また、王妃の部屋には空色の絨毯が敷かれて、青と白の絹地張りのソファー、肘掛け椅子などが置かれていました
写真画像出典:bbkids.cocolog-nifty.com
タンプル塔でのマリーアントワネットの部屋(カルナヴァレ博物館)
ヴェルサイユ宮殿とは比べ物になりませんが、幽閉というからどんなにか悲惨な生活かと思いきや、想像以上に素敵なお部屋で暮らすことができていたようですね
国王が王子に勉強を教えている間、マリーアントワネットとエリザベート内親王は、マリーテレーズ王女に絵を描いたり、音楽を教えたり、おしゃべりを楽しんでいました
監視付きとはいえ時には庭園の散歩も許され、大喜びで駆け回る子供たちの姿を、王妃は飽きることなく見つめていたといいます
やはりマリー・アントワネットは母性愛の強い、良き母だったのです
昼食は王妃の部屋でとり、午後からは昼寝をしたり、編み物や刺繍、テーブルゲームなどをしていました。
夜8時には王子ルイ・シャルルが休み、その後夕食をとって、国王は自室で読書を、王妃は王女や内親王と一緒に過ごしていました。
タンプル塔では「家族」の絆が強くなった王一家。
寝ているのはルイ16世でしょうか?
後にマリーアントワネットとエリザベート王女は処刑。
ルイ・シャルルは病死。そして最後まで生き延びたマリー・テレーズ。
こうした幽閉生活のなかでも、国王一家に最も配慮されたのが食事でした
正餐はポタージュスープ3皿、アントレ4皿、焼肉6皿、アントルメ5皿、デザート、新鮮な果物、砂糖漬けの果物、シャンパン、マルムジーワイン、ボルドーワインが供されていたのです
一人19皿前後
国王一家の食費は3ヶ月半で35万(約3億5千万円)リーブルに上ったといいます
王妃はヴェルサイユ近くのヴィル・ダヴレの水が好きでした。
ヴィル・ダヴレの水のお味のクオリティは格別で、王妃はその水しか口にしなかったのです。
そのため、王妃ためにわざわざその地の水を運んでくれていたともいいます。
タンプル塔でルイ16世が使っていた皿とグラス
国王一家は王権も奪われ、王室費も停止され、カペーと平民の名を与えられながらも、
パリ市の財政と思われるところからかなりの特別待遇を受けていたようで驚きです
◆タンプル塔でもの囚われの生活の中でも変わらなかったアントワネットの趣味(楽しみ)とは?
マリーアントワネットはヴェルサイユ宮殿に暮していた頃から刺繍を手がけていました
彼女は手先が器用な女性だった様なのです
細っそりとした繊細で優雅なラインを描く「ルイ16世様式」の椅子に、アントワネットは自ら繊細な刺繍を施し愛用していました。
王妃が手がけた椅子の刺繍。
彼女のイニシャルMAが二箇所に施されています。
彼女が好んだ刺繍のモチーフの多くは、もちろん王妃最愛のバラの花
小さなピンクのバラを散りばめたデザインや、深紅の大粒のバラのデザインもありました。
アントワネットはタンプル塔に捕らえられている間、その長く退屈な時間を、刺繍をすることで紛らわすこともありました。
ですが、ベルサイユの頃のように十分な素材がなかったため、壁布の糸をほどいたりして工夫していたといいます
タンプル塔で王妃と王妹が作ったタペストリーがのこされています。
彼女たちがタンプル塔で一体どんなことを考えながら一針一針縫いあげたのかなって思いますね・・・
また、小さな声で歌をうたうこともありました
歌が好きだったアントワネット。
彼女の声は細くフェミニンで、耳に心地よい響きがあったといわれています
◆幽閉されてもファッション熱は健在
また、アントワネットの宝石、服飾の熱中はタンプル塔へ幽閉されても実は止まっていなかったということをご存知でしょうか?
ローズ・ベルタンは、タンプル塔でのアントワネットのドレスを届けています
タンプル塔で厳しい監視の元に暮らしていた王妃のために、ベルタンが作ったのは4つのボンネットと数枚の肩掛け、そして何足かの靴下。
やがてルイ16世が処刑され、未亡人となったマリーアントワネットは以後、喪服だけを着るようになります。
革命家から依頼されベルタンが作ったのは二枚の喪服。
それがベルタンがマリー・アントワネットのために作った最後の服となったのです・・・
後に王家に関わった仕立て屋、宝飾店などの商人たちが断頭台(ギロチン)の露と消えることになりますが、ローズベルタンは処刑を免れることが出来ました。
それは、多くのお針子を抱え、当時の雇用促進の要だったからといわれています。
王妃マリー・アントワネット 1792年
アントワネットはパリ市に衣装一式を依頼します。
アンドレ・カストロはそのため30人のお針子が働いていたと述べています。
もちろん支払いは苦しいパリ市の財政からです
藤本ひとみさんの著作本によれば、
「黒いビーバーの毛皮の乗馬服、フィレンツェのタフタ織の長上衣等、上質の衣類が各数点以上注文し、肩掛にいたっては、数百枚。もちろん化粧品、そして莫大な香水の支出。」
また、マリー・テレーズの回想録によれば、
「母はパリ市へ父の死を悼むため、大喪用の喪服、下着から蝋塗りの履物、黒のタフタ織の扇にいたるまでを注文した。」(後のルイ16世の処刑後のことですね)
とあるようです。
ルイ16世処刑直後の肖像画のこの喪服でしょうか?
確かにこの頃のマリーアントワネットの肖像画には、まだどこか?お洒落が好きだった彼女らしさがみとめられますね。
彼女が本当に悲惨なことになるのはこの後なのですが・・・
また、タンプル塔から時計の注文もしていたようです。
ブレゲの熱心な顧客だったというマリー・アントワネットは、彼にさまざまな時計を注文し、なんとタンプル塔に幽閉された後も、シンプルウォッチを発注したほど生涯にわたり贔屓にし続けたといわれています。
ちなみにこちらはブレゲNo.160 「マリー・アントワネット」
現在の価格にして50億!
1783年にマリーアントワネットが発注したあらゆる複雑機構と最新技術を組み込んだ懐中時計です
製作期間も費用も限度を設けず注文されたこのNo.160を彼女が楽しむことはありませんでした
この時計が完成したのは注文を受けてから44年が経過した1827年。
王妃が亡くなってから34年後のことで、ブレゲ自身も4年前にこの世を去ってから完成した前代未聞の傑作となっています。
幽閉されてもドレスや時計など大好きなお洒落を諦めなかったアントワネット。
実はチュイルリー宮殿からタンプル塔に幽閉されましたが、アントワネットは長くいるとは考えていなかったようなのです。
必ず救出されると確信していたからです。
幽閉生活となればどんなにか悲惨な生活を送っていたと思いきや、マリーアントワネットは意外にもまだ多少の贅沢ができていたようですね
そして、変化のない退屈な毎日でしたが、家族揃って暮せるのは彼女にとってはまだ幸せなことでした。
けれど、それすらも奪われる日は、すぐそこに迫っていたのです・・・。
◆タンプル塔で知った友、ランバル公妃の死 九月虐殺により次々と処刑される貴族たち 失意のアントワネット
この頃革命は『ジャコバン党』という一派が革命の主導をするようになっていました。
そしてそれからは、本当に、身の毛のよだつ恐ろしいものに変質していたのです。
ジャコバン修道院を拠点にしていたことからジャコバン派と名がついたこの一派は、下層民衆に支持され、急激な改革を目的としていました。
後にロペスピエールらによって率いられ、単独独裁を行うようになってからは、反対勢力を次々と断頭台に送り込み、約2年の間に4千人以上の首を落し、フランスに『恐怖政治』を現出するのです。
この頃の民衆の怒りは貴族にまで向けられていました。
そして貴族が外国勢力と裏で結託していると思うようになり、民衆は理性を失っていました。
そうして、革命前より、民衆に憎まれていた貴族には、憎悪と怒りの鉾先が向けられ、その多くは、実に凄惨な扱いをうける運命にあるのです。
パリでは民衆の怒りが収まらず、王党派の貴族が襲われたりと血の雨が降ります。
パリの牢獄は、王党派とみられる貴族や、新憲法に宣誓をしなかった司祭ら、反革命主義と看做された囚人で既に満員になっていました。
そんな中で民衆による牢獄襲撃『9月虐殺』が始まったのです。
次々と牢獄が襲われ、囚人は手当たり次第に引きずり出されました。
そして、問答無用の殺害や略式裁判のマネ事の後に虐殺するという見るも無残な蛮行に至るのです。
パリの至る所で犠牲者の叫び声が上がり、水路という水路は泥に混じって血が流れました・・・
マリーアントワネットが14歳でフランスに嫁いで以降、彼女の良き友人であったランバル公妃も、彼女が王妃の友人で王党派であるという事から、憎悪した暴民によって虐殺されてしまいます。
ランバル公妃の詳細はこちらのブログ記事もどうぞ
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マリーアントワネット⑧ ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ 革命後もアントワネットと共に生きた悲劇の美女。9月虐殺による凄惨な最期とは?
ランバル公妃の死
その殺され方も、胸元から下腹部まで、切り裂かれて、心臓をえぐり取られるという無残なものでした。
屍体は裸にされたうえ町中引き回され、その血まみれの首は切り離され、槍に串刺しにされて行進の先頭に晒されました。
長いブロンドの髪の毛は血に染まっていました・・・
その髪を風にたなびかせた公爵夫人の首は、槍の先に刺されてマリー・アントワネットの住むタンプル塔の窓に掲げられたのです。
左手前がタンプル塔。建物内にはマリーアントワネットが...
気絶しかけるマリー・アントワネット グレヴァンろう人形館
気丈な王妃も親友のランバル公妃が虐殺されたという事を番兵から聞くと、叫び声と共に気を失って倒れたといいます・・・。
次回のマリーアントワネットの生涯⑰では、夫ルイ16世の処刑、愛する子供たちと家族との別れ・・・マリーアントワネットの生涯で最も辛く悲しかったであろう出来事をご紹介してみたいと思います。
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