今日はブログでマリーアントワネットのお気に入りの女友達のお話をしたいと思います。
マリーアントワネットの交友関係といえばフェルゼン伯との恋は有名な話ですが、
彼女は男性と恋愛をするというよりも、むしろ美しく可愛い女友達と、今でいう女子会をするのが好きなタイプだったように思います。
彼女のお気に入りの一人がこちらの女性、ランバル公妃。
ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン。
皆さまは彼女をご存知でしょうか
池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』には、ほとんど登場しないランバル公爵夫人ですが、彼女はアントワネットがフランスに嫁いでから、ポリニャック夫人(こちらは次の記事でご紹介いたしますね。)が寵妃の座に納まるまで、アントワネットの心優しい友人でいた人物です。
フランス革命が起こり、バスティーユが陥落した後、真っ先に外国に亡命したポリニャック夫人と対照的に、一度は亡命したものの亡命先から戻り、テュイルリー宮から国王一家がタンプル塔に捕らわれる最後の日までアントワネットと共にいました。
信頼できる優しい女性であったと思われます
以前、ふと目にとまった、こちらの物静かな魅力的な女性・・・
「ランバル公妃」とありました。
よろしければお先にこちらのブログ記事からどうぞ
↓ ↓ ↓
マリーアントワネットの生涯① 幼少時代~ウィーンの宮廷での生活とモーツアルトからのプロポーズ♪母マリアテレジアの方が美女だった!?
マリーアントワネット② 未来を暗示する結婚式にまつわる四つの不吉。また、肖像画によって違う彼女の本当の容姿(顔)は?
この記事の目次
◆早速そんなランバル公妃の人生を追っていきましょう
サルデーニャ王の家系、イタリアのトリノでカリニャーノ公の四女として誕生したマリーア・テレーザ・ルイーザ。
すごい名門の生まれなのです
早速、恒例の肖像画のお顔チェック
名門の出にふさわしいとても優雅な印象の女性ですね・・・
肖像画を見るかぎりでは、知性と教養、そして美貌も兼ね備えていらっしゃるように見えます
それもそのはず、彼女は実はポンパドゥール夫人亡き後、
ルイ15世のお相手として候補にもなったという話もあるほどの美しい女性だったと云われているのです
ランバル公妃はマリー・アントワネットより6歳年上になります。
彼女の出身のサヴォイア家は、一時、イタリア統一国家の国王にもなった名家
ランバル公妃はルイ14世の曾孫にあたるランバル公ルイ・アレクサンドル公と結婚してランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズとなったのです。
マリー・テレーズ・ルイーズを、ランバル公の父パンティエーヴル公が縁組の相手に選んだのは、息子の放蕩(性欲)を抑えるために、早々と結婚をさせるという意図があったようです。ですが、結局、彼はランバル公妃だけでは満足できずに身を持ち崩すのです
そして、結婚二年でランバル公ルイ・アレクサンドル公は亡くなってしまいます。
原因はランバル公の放蕩によるもので、性病のためにルーヴシエンヌ城で亡くなったそうです
夫の死をもって、約二年の不運な結婚生活にピリオドを打ったランバル公爵夫人。
いよいよ彼女の最期の運命を決定付けるヴェルサイユへと導かれていきます。
「パンティエーヴル公ファミリー」(1768年)
中央がランバル公妃マリー・ルイーズ。
◆ベルサイユ宮殿で暮らしはじめたランバル公妃 彼女の運命の先にある悲劇とは・・・?
1770年、未亡人ランバル公妃はヴェルサイユの宮廷に仕えるようになります。
時同じくして、14歳での若さでフランスに嫁いできたマリー・アントワネットは、自分に感心のない夫と慣れない宮廷での生活でとても寂しい思いをしていました。
そんな時ランバル夫人と出会ったのです
マリー・アントワネットは、初めは「若い未亡人」ということに、非常に同情を寄せることになります。
そして、次第に公妃の優しく純真な性格に心惹かれて、最も信頼して王家一族の世話を任せる『女官長』の地位に任命するのです
女官長といえば、王妃付女官長、衣裳担当女官長などがいましたが、ランバル公妃はそれらを上回る権限を持つ地位でした。
映画マリーアントワネットでのアントワネットとランバル夫人
皆さまお気づきかと思いますが、登場人物のドレスにそれぞれの人柄が反映されていますね。
ランバル公爵夫人のドレスは、どれもやさしげな色合い
アニメや漫画のベルサイユのばらではノアイユ伯夫人が、まだ子供でお転婆で我が儘なアントワネットの教育係りとして描かれていますよね。
実際はノアイユ伯夫人以外にも、ランバル公妃が女管長として全身全霊で仕えていたのです。
ですが、女官長としての忠義心とは裏腹に、『実務』という面では彼女は決してやり手ではなかったようです・・・
贅沢が過ぎる王妃に注意をする事でもなく、
自らも宝石やドレス選びに熱中して贅沢をしていたのですから
ある意味アントワネットととても気と趣味の合う女性だったということは確かです
彼女が女官長時代にしっかりと幼い王妃を支えられていれば、もしかしたらその後の二人の運命は変わったのかもしれません。
女官長として、そして年上の心優しい真の友として、マリー・アントワネットの誹謗・中傷となるような軽率な振る舞いを諌められていれば・・・。
宮廷の人々や民衆から愛されるように、
フランス王妃として、王妃らしく立派な振舞いができるように、
環境や人脈をを整えていくというのも女官長の仕事の一つだと思います。
そういった意味で、ランバル公妃は友人としてはともかく、
女官長としては果たしてどうだったのかと疑問に思わざるえません。
例えば1775年、アントワネットの圧力でデギュイヨン公爵を辞任させたデギュイヨン事件。(デギュイヨン公爵の「三頭政治」はルイ16世の統治のなかで安定していた期間でした。)
このことを王妃は得意気に「私の仕組んだ事」と手紙にも書いています。
母マリア・テレジアと兄ヨーゼフからは、この事件に関してアントワネットを諌める手紙が残っています。
おそらく、ランバル公爵夫人はアントワネットの母や兄のように、王妃としての彼女の行く末を案じてはいなかったのだと思います。(というよりもアントワネット同様、ランバル公妃自身もわからなかったのかもしれません。)
ランバル公爵夫人は、女官長として王妃を支えるというよりも、
『心の友』としてアントワネットに仕えたいと思っていたのだと思います。
私だけが王妃の心を慰められると・・・。
◆ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ 真の人柄は?
ランバル夫人は、決してアントワネットの「好意につけ入るような事はなかった」
ですが、約15年もの間、毎年15万リーブル(現在の価値で約10億円)の御下賜金が与えられていました
俸給のほかにも衣装の支給、そしてアパルトメントも用意されています。
そしてランバル公妃は、その御下賜金を思う存分ドレスに費やすのです
ランバル公爵夫人のドレスへの執着と浪費は特別だったといわれています。
ランバル公妃もマリー・アントワネット同様、御用達のローズベルタンの店で、お金に糸目をつけずにドレスを買いあさっていました
のちにお出入り禁止となる王妃ご用達のローズ・ベルタンの店「ル・グラン・モゴール」。
アントワネットと一緒に宮廷に最高のゴシップの種を撒いている女官長。
宮廷はもちろんのこと、国民からは一体どのように思われるでしょう・・・?
マリーアントワネットと同様に、ランバル夫人も公職の私物化など、物事を深く考える性質ではなかったようです。
そんな、『無心でありながら空っぽな頭』は、王妃と女官長であるランバル公妃のスキャンダルをどんどん増長させていくのです・・・
王妃をうまく利用するわけでもなく、微塵の悪意もない。
政治的なことにも一切口出しをしません。
また、アントワネットとは違い夜遊びにも賭博にも無縁でした。
ただ、ただ優しく、控えめで、無欲で、お洒落が好きなランバル公爵夫人。
女官長の仕事に関しては『友人の延長』という感覚で、
責任感もなく管理もできず、そして他の女官の模範になるようなことも一切なかった人物だったのだと思います。
王妃の好意に感激し、ただただ忠義をもって献身的に仕えるだけ。
せめて心の友というならば、王妃の軽率な振る舞いなどに忠告してくれるような一面だけでもあったなら・・・と、どうしても思ってしまいますよね。
古くからの名家の貴族たちはヴェルサイユを後にして、
アントワネットやその取り巻きたちの誹謗・中傷を広めていきます。
そして、ランバル公妃が王妃に無心に忠誠を誓う一方で、
その王妃マリーアントワネットの寵愛は、次第にポリニャック伯夫人へと移って行くのです・・・
◆ランバル公妃とポリニャック伯夫人 不思議な運命で繋がれた二人の女性
アントワネットはその無邪気さと明け透けな性格から、ランバル公妃からポリニャック伯夫人に寵愛が移っているということがあからさまにわかるような態度をとります
そして、ランバル公妃は女官長としての地位さえも、ポリニャック伯夫人の思惑で奪われてしまうのです
奇しくも、ランバル公妃とポリニャック伯夫人は、同じ生年月日でした。
生年月日が伊那路ランバル公妃とポリニャック夫人。
しかも、1767年という同じ年に二人とも結婚をしています。
ランバル公妃が夫と死別した1768年、ポリニャック伯夫人の一族は家運の衰退が始まっています
ですが、ランバル公妃へのアントワネットの寵愛と関心が、このポリニャック伯夫人へと移り変わり、ポリニャック伯夫人の一族はここから一気に高みを目指すのです
新しい女官長ポリニャック伯夫人。
そして王妃の新しい心の友。
ランバル公妃は1780年にヴェルサイユの宮廷を退きました
彼女もポリニャック伯夫人と同様に、王妃の寵愛や権力を利用するような、
気が強く計算高い女性だったなら、大奥絵巻のような女同士の宮廷バトルも繰りひろげられたのかもしれません
ですが、名門の出身で生まれてからずっと富裕、ゆえに心優しく純粋なランバル公妃は傷心の中、静かにベルサイユを去るのです。(やはり金持ちケンカせずというのは正しいのかもしれません。)
◆ここでルブランの描いたランバル公妃の肖像画をもう一度ご覧ください。
ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ
1781年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画
笑顔ながらも、なんだかとても切ない表情に見えませんか・・・?
ルブランが傷心のランバル公妃の肖像画を描いている頃、
マリー・アントワネットは、香水師ファージョンに、プチ・トリアノンの香りを注文するなど、相変わらずの生活
そして、ついに待望の王大子ルイ・ジョセフを誕生させます。
ですこの頃、待望のフランスの世継ぎの誕生を祝えないほど国民の生活は困窮していました。
すでに王妃の凋落への予兆が表れ始めていたのです・・・。
◆なぜ王妃はランバル公妃をどうして疎ましく思ったのでしょう
レズビアンといわれたほど親密だったランバル公妃とポリニャック伯夫人ですが、捏造というのは「レズビアン」という定義に対してです。
同性愛を描いた当時の版画
ランバル公妃は、実は王太子妃アントワネットの満たされない快楽への奉仕を行っていたと云われているのです
申し上げにくい話ですが、王妃マリー・アントワネットは非常に早熟。
性的放埓な振る舞いがあったとも伝えられているのです。
アントワネットは夫に対する失望や、新しい家族となった王室の人々への不満を解消するために、自分が愛することのできる人物を必死で探そうとしていたのかもしれません。
フェルゼン伯爵や、1779年のド・コワニー公爵との逢引など、ランバル公妃の奉仕が必要なくなってきたのも理由の一つです。
また、おとなしいランバル公妃を平凡で面白みに欠けると感じた王妃が、やがて退屈するようになっていったということもあったようです。
こうした王妃の経緯が、取り巻きたちとの同性愛や後のルイ・シャルルとの近親相姦疑惑、愛人との乱交などと捏造されていくのです。
◆王妃アントワネットとの友情再び そして悲劇のフランス革命の勃発
ポリニャック伯夫人は一族でアントワネットを利用し、地位と名誉を得て莫大な金品までも巻き上げるような女性でした
彼女を寵愛し片時でも離れて過ごすことができない程寵愛していたアントワネットでしたが、次第にその本性に気付き始め、再びランバル公妃に寵愛を戻していくのです。
そして、宮廷を退いていたランバル公妃を再び宮廷に呼び戻します。
1789年、フランス革命が勃発。
ポリニャック伯夫人は真っ先に王妃を見捨ててオーストリアへ亡命します
一方のランバル公妃は、この年、アントワネットの元で再び献身的に尽くしているのです
ランバル公妃は革命勃発後の1791年、王室一家への救援を求めて一時期英国に渡りました。
ですが、アントワネットの苦難を知り、彼女の身を案ずるあまり、安全なはずの英国から帰国して来るのです。
ランバル公妃は一人でテュイルリ-宮殿に舞い戻り、王妃を励まし、
自分の部屋を王党派と国王一家との連絡場所や隠れ家として提供したりしながら、
テュイルリー宮襲撃事件まで常に王妃の傍らにいたのです
1792年、ランバル公妃は王党派として国王一家と共にタンプル塔へ投獄。
後に王室支持者としてラフォルス牢獄へと移送投獄されてしまいます
ですが、その時も王妃への忠誠心から誹謗を頑なに拒みました。
ランバル公妃はフランス革命の正当性を決して認めませんでした。
王妃を守るためでしょうか?高貴な生まれから革命を野蛮な民衆による暴力行為としか捉えられなかったためでしょうか?
どちらにしても、革命を誘ったヴェルサイユ時代のことは頭にはなかったように思います。
そのために、ランバル公妃は無残にもフランスの国民の手で八つ裂きにされるのです。
『9月虐殺』といわれる事件の被害者となってしまいます・・・。
◆ランバル夫人の凄惨な最期 9月虐殺とは?
1792年9月25日、大勢の市民が数か所の監獄を襲撃しました。
犠牲になったのは王党派の貴族と貴婦人、または疑いをかけられて投獄された人々で、
フランス全土でこの期間におよそ16,000人が虐殺されたのです。
虐殺の犠牲者の中には、テュイルリー宮殿でも王室に忠実であり続け、タンプル塔に移送される時に引き離された家臣や侍女も多くいました。
その中でもアントワネットに最も衝撃を与えたのは、ランバル候爵夫人の死です。
ラ・フォルス監獄に繋がれていたランバル夫人は、9月3日に裁判と称して牢から出され、その場で死刑判決を受けます。
そして、市民の手によって殴る蹴る等の暴行を受けた後、ドレスを剥ぎ取られ、首を切り落とされ、お腹を裂かれ、身体を切断された挙句、その遺骸はタンプル塔の真下まで引きずられました。
暴徒の一人は夫人の陰毛をむしり取って鼻髭のように顔に貼り付けていたといいます。
「ランバル公妃の死 1792年9月3日」
1908年 レオン=マクシム・フェーヴル
この版画は1908年のパリのサロンの出展された作品です。
そこに描かれている人々の顔は、夫人が死に至るまでの好奇心や、憎しみ。
悪意の眼差し。
生きるか死ぬかの貧しい生活の人々の狂気。
タンプル塔に幽閉されていたアントワネットは、2階の自室で国王とトランプでゲームをしており、マリー・テレーズとルイ・シャルルは両親の側でゲームを眺めていました。
その時一階から鋭い悲鳴が聞こえます。
外の騒ぎを窓から見た使用人が、ランバル公妃の生首を見て悲鳴をあげたのです。
民衆はアントワネットに窓まで出て来いと騒ぎ、ランバル公妃の首を持った男は、タンプル塔の王妃に首を見せてやると喚きます。
何が起こっているのかわからない国王は、兵の一人に理由を尋ねました。
すると、彼は下卑た言い方で、
『ランバルの首を見せたがっているんだよ』と王妃に言いました。
最後まで聞かずに、アントワネット気を失いました。
娘のマリーテレーズの回想録に
『母が気を失ったのはその時、1度きりだ。』
とあります。
窓の下には美しかった長い巻き毛を風に揺らし、槍に突き刺されたランバル夫人の首と、
引きずられてボロ布のようになり内臓がはみ出した彼女の身体が見えました。
ランバル公妃の遺体には、ヴァレンヌ逃亡事件の後に切り取られたアントワネットの髪を納めた青い宝石の指輪がはめられたままだったといいます。
※マリー・テレーズ『回想記録』より
母は部屋の中の出来事など、1つも目に入らず、じっと立ったままだった。
叔母と私は一晩中、非常呼集の太鼓の音を聞いていた。
母のすすり泣く声。
私たちは虐殺がまだ続いているとは思っていなかった。
三日間続いたと知ったのは暫く経ってからだった。
ランバル公妃。
1749年9月8日~1792年9月3日、享年42歳。
この同じ年、亡命先でポリニャック伯夫人も亡くなっています。
生まれたのも、結婚も、死ぬ日までも同じ年だったとは、この王妃に寵愛を受けた二人の女性の皮肉な運命を感じずにはいられません。
一方の女性はフランス革命勃発後さらりと亡命。
現在でもモナコ公国にその血筋を残しています。
そしてもう一方の女性は対照的に、国王一家の為に尽力。
そして民衆の手により虐殺。
ランバル公妃が革命期に執筆されたマルキ・ド・サド『美徳の不幸』なら、
ポリニャック伯夫人は『悪徳の栄え』といいましょうか・・・。
実際のところ、国王、王妃をはじめとする王族が浪費したといわれる金額は、国庫の10%ほどだったといいます。
戦争の費用が国庫を空にしていったのです。
ところが、ランバル公爵夫人をはじめ、王妃の取り巻きの私的な人事や法外な御下賜金。
それによる華美さが、王妃に『赤字夫人』とレッテルを貼る正当な理由づけになったのです。
王妃の心の友人として寵愛を受け、危険も顧みずに王妃のためにフランスに戻ってきたランバル公爵夫人。
慎ましやかで純粋、色々な思惑の交錯する宮廷の中で、本当の意味でマリー・アントワネットに友情を感じていた人物だったように思います。
ですが、王妃の好意が宮廷や国民の反感を買わないかどうかという分別があり、
女官長として他の女官たちが、王妃を尊敬し心から仕える教育をすることこそ一番大切で、それができてこそ真の友といえるのではないでしょうか?
そうしていたら、王妃もランバル公爵夫人も残酷な運命に終わらなかったかもしれないってどうしても思ってしまいます・・・。
人の生き方に、正しいとか正しくないとかはないと思います。
ランバル夫人は時代のあだ花の一輪であろうと、
むごたらしい最期に至ろうと、
自分の人生を最期に振り返った時に、やましい所がなかった女性だったように思います。
彼女の名を冠したオールドローズは、
この先もずっと変わらずに多くの人に愛され続けることでしょう。
次回のブログ記事では、もう一人のアントワネットのお気に入り、ポリニャック伯夫人をご紹介してみたいと思います。
↓ ↓ ↓
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