マリーアントワネットは夫であるルイ16世を処刑され、最愛の息子から引き離された後、
今度は自身がタンプル塔からコンシェルジュリーの牢獄に移されました。
今日はブログでコンシェルジュリー牢獄で囚人となったマリー・アントワネットの生活がどのようなものだったのか?
そして、彼女の運命を決定づける裁判での様子、そして彼女が過ごした最後の時間と遺書などについてをご紹介してみたいと思います。
よろしければお先にこちらのブログ記事もどうぞ
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マリーアントワネット⑯ タンプル塔に幽閉されたアントワネットの生活は?最後までドレスやファッション、歌、刺繍など好きな趣味を諦めなかった王妃。ブレゲの時計NO,160のエピソードも。
この記事の目次
◆マリーアントワネットが移された死の控室、コンシェルジュリーとは?
写真画像出典:hayakoo.com
パリのシテ島に現存するコンシェルジュリー牢獄
コンシェルジュリー牢獄での王妃マリーアントワネット
こちらのコンシェルジュリー監獄、
払った入居料(??)によって牢屋の部屋のランクが分かれていたらしいです。
写真画像出典:monsieurshibata.cocolog-nifty.co
一番安い部屋は石の上に藁が敷いてあるだけ・・・
写真画像出典:mummymummy.blog.fc2.com
ピストリエの牢屋
一方、少しいい部屋になるとベッドがあって大分環境がよくなっています。
お金を払って与えられる中流層の牢屋になります。
写真画像出典:monsieurshibata.cocolog-nifty.com
貴族やお金持ちの牢獄は、机や椅子、簡易ベッドも用意されている様子です。
写真画像出典:plaza.rakuten.co.jp
写真画像出典:mummymummy.blog.fc2.com
こちらは看守の部屋。
囚人を監視している看守がいます。
写真画像出典:hayakoo.com
こちらは「5月の庭」と呼ばれるコンシェルジュリー牢獄の中庭。
この中庭は女囚が散歩を許されていた場所です。
女囚たちはいつも牢屋の中にいなければいけなかったわけではなく、こちらで散歩を楽しみ、時には男性の囚人と柵越しに言葉を交わすこともあったといいます。
狭く小さな空しか見ることのできない中庭ですが、すっと牢屋に閉じ込められているよりは格段にいいですよね
ですが、ここは死の控室と言われるコンシェルジュリー。
囚人たちは一体どんなことを思ってこの最後の時を過ごしていたのでしょうか・・・?
今の私には想像も及びません。
また、この中庭(五月の庭)は処刑場へ連れて行かれる前の待合所でもありました。
マリーアントワネットも処刑の朝、この中庭から処刑場に向かったのです。
写真画像出典:plaza.rakuten.co.jp
囚人リストの中にマリーアントワネットの名前が。
中央付近『”Marie-Antoinette”』
突然にタンプル塔からコンシエルジュリーに連れてこられたマリー・アントワネット、
看守長のリシャールによって『280番目の囚人』として記録されました。
25歳のロザリー・ラモルリエールが独房に入れられた王妃の世話係となり、最期の処刑の日まで身の回りのお世話をしていました。
ロザリーは池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』にも登場しますし、作中でもコンシェルジュリーで王妃のお世話をしていましたから皆さまお馴染みですよね
実在のロザリーは靴屋の娘で、コンシエルジュリー看守長リシャール夫妻に王妃が移される一年前から雇われていました。
後の王制復古の際、ロザリーはマリーアントワネットに関する尋問を受けます。
その際に彼女が質問に細かく答えたため、現在の私たちもコンシエルジュリーにおけるマリーアントワネットの様子を知ることができたのです。
ロザリーは79歳でパリのホスピスで亡くなりました。
結婚はしていませんでしたが、娘が一人いたといいます。
1793年8月2日から10月16日までの2ヵ月半を過ごしたコンシェルジュリーの独房で過ごした王妃。
彼女の独房を再現した『アリ―・アントワネット牢』も現在コンシェルジュリーに存在します。(その一部は実際にマリーアントワネットの独房があった場所にあります。)
写真画像出典:hayakoo.com
コンシェルジュリー牢獄内のマリー・アントワネットの獄室
こちらはマリーアントワネットの独房の様子です。
狭い極室に、ベッド、椅子と机、ランプ。そしてトイレ。
先ほどもご紹介しましたが、当時の牢獄は有料だったため、独房に入れる囚人は裕福だったとのことです。
写真画像出典:honeymoon-s.jp
あまりにも優雅だった宮廷生活から一転、王妃マリーアントワネットが一人、死の運命を待つ日々を過ごした部屋は、コンシェルジュリーに今でも残り、とても哀れです・・・。
写真画像出典:dokodemo-bessou.com
アントワネットの独房の広さは約3,5平方メートル。
それを衝立で二つに区切り、片側で二人の看守が常時24時間監視していました。
衝立でしけられているとはいえ、その高さはアントワネットの背丈よりも低く小さなものでした。
ですので、王妃は24時間を通して彼女を見張る二人の男性獄吏と事実上、共同生活といえるでしょう。
着替えも就寝もトイレすらその環境しなくてはまりません・・・。
このあまりにも惨めな生活は、生まれも育ちも王室で、一際プライドの高いマリーアントワネットにとって、耐え難い日々だったにちがいありません。
他の囚人と比べるともちろん厚待遇だったとはいえ、石造りの暗く、寒く、湿っぽい監獄での生活は、華やかだったヴェルサイユでの宮廷生活を送ってきた女性にとっては地獄のようなものでしょう。
マリーアントワネットの人生について思う時、やはり、これほどまでに幸不幸が両極端な生涯を送った女性はそう多くはなく、そのことが私たちの胸に強く訴えかけてくるのではないでしょうか。
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夫であるルイ16世もすでに処刑され、この世にはいません。
最愛の子供達とも引き離され、この時点では自らの人生にもう先がないであろうことを悟っていたのでようか・・・?
アントワネットが一体、どんな思いでこのコンシェルジュリー牢獄での日々を過ごしていたのかいつも考えますが、想像を絶します。
写真画像出典:x-rey.at.webry.info
うつむいた哀れな王妃の人形・・・
コンシェルジュリーの独房で暮らすアントワネットは、時折、壁布のほころびから糸を作り、それを使って刺繍をすることがあったといいます。
元々刺繍が好きだったアントワネット。
ヴェルサイユでもタンプル塔でも刺繍をしていたというエピソードがありますが、まさかコンシェルジュリーでも刺繍をしていたなんて・・・ちょっと驚きです。
一針一針の針仕事が彼女の絶望を一時でも和らげるのに役立ったのかもしれませんね。
出典:rumiko-paris.blogspot.com
牢屋の壁布の糸を使用してアントワネットが作ったタペストリー。
上は壁布の切れ端だそうです。
また、指輪を手の中で転がしながら長く苦痛な時間を潰すことや、与えられた本に目を通すこともあったといいます。
アントワネットは他の女囚たちと違い、中庭(五月の庭)に出ることは禁止されていました。
彼女はずっと独房内に閉じ込められて生活していたのです。
王妃の独房の窓からも女囚たちが散歩する中庭が見えました。
女囚たちがつかの間ですが外の空気を吸うことができた中庭ですが、
アントワネットは一度もそこにすら行くことを許されませんでした。
◆カーネーション事件 最後の王妃救出のチャンス
朝7時の起床から夜10時の就寝まで、狭い牢獄でひたすら長い一日がたつのを待つだけの暮らしのマリーアントワネット。
ですが、ある日突然彼女に救出のチャンスがやってくるのです。
1793年8月28日、監獄長ミショニがひとりの男性を連れて王妃の独房に入ってきました。
その小柄な男性の顔を見た王妃は、思わず声をあげそうになります。
その男性は約一年前の6月20日、チュイルリー宮殿に暮らしていた時に暴徒たちが進入した事件がありました。
その際に機敏に彼女を助けてくれたアレクサンドル・ゴンス・ド・ルージュヴィルだったのです。
彼はこの時も忠実な王党派でした。
彼に気づいた王妃に会釈したルージュヴィルは、秘かに王妃に目配せしながら二つのカーネーションを落とします。
そして、彼らが牢屋から出て行くのを見届けた後、王妃は急いでそのカーネーションを拾い上げます。
一つのカーネーションの中には、小さくたたんだ紙が入っていて
『救出に必要な資金と人の用意があります』と書かれていました。
そして、もう一つのカーネーションにはコンシエルジュリー牢獄の簡単な地図が入っていました。
カーネーション事件で王妃の救出を試みたルージュヴィル
ここへ来てから既に何もかも諦めていたマリーアントワネットでしたが、救出計画があることを知り次第に希望と勇気が湧いてくるのです。
「私は見張られています。誰にも話しません。
貴方にお任せします。参ります」
王妃は急いで紙切れに針で文字を綴り、看守のジルベールに渡します。
ルージュヴィルは立ち去る前に「明日また来ます」と、王妃の耳元で秘かにささやいていたのです。
王妃は脱出計画に同意することを彼に知らせるために、針で文字を刻み、それを翌日ルージュヴィルにジルベールから渡してもらおうと考えたのです。
当然、この時彼女はジルベールの報酬を約束したと思われます。
もちろんルージュヴィルを王妃の独房まで連れて行った監獄長のミショニもすでにルージュヴィルに買収されていました。
当時はこうした買収が頻繁に行なわれていて、何事もお金次第でどうにかなるところがあったのでしょうね。
王妃の救出は9月2日夜~翌3日朝方にかけて行なうことに決まります。
コンシエルジュリーの看守たちを買収して味方にするための資金もそろい、脱出後、王妃はリヴィリー城に向い、その後ドイツに亡命しりことになっていました。
そして、決行当日。
ルージュヴィルとミショニが予定通り王妃の独房に迎えに来ました。
そして、王妃は牢屋からこっそり脱出することに成功します。
コンシェルジュリーの薄暗い通路を通り・・・
看守たちが控えている部屋の前を通り・・・
後一歩で自由の世界に戻れる!と思った、その瞬間のことでした。
看守の一人が裏切ったのです。
買収されていたにもかかわらず・・・王妃を逃がすということに恐怖を抱いたためでしょうか?
王妃たちの行く手を遮ったのです。
そして、ジルベールも恐れを抱いたのか?または最初から裏切るつもりだったのか?
王妃が針で綴った手紙を脱出計画の証拠として上司に提出してしまうのです。
このようにして、アントワネットの最後の脱出のチャンスは無残にも失敗に終わってしまうのです。
その後、ルージュヴィルは、最期まで王党派を貫き、ナポレオンの時代には敵の連合軍側につきました。
そして1814年、フランス軍に捕われ52歳で銃殺されたといいます。
コンシェルジュリーに拘置されていた当時のマリー・アントワネット。
38歳。なんともいえない悲しげな表情ですね・・・。
◆王妃の牢獄での待遇は悪化の一途を辿ります
そして、このカーネーション事件の後、王妃の待遇は目に見えて悪化していくのです。
当初は入り口付近の独房に入れられていたのですが、脱出の危険が大きいために一番奥まった牢屋に移されます。
そして、憲兵が昼夜を問わずに予告なしに入ってきて身体検査までされるのです。
看守と言葉を交わすことすらも禁じられました。
王妃は魅力がありましたから、看守が親しくなったり同情するのを恐れ、看守の交代も頻繁に繰り返されました。
そして庭に面した窓の外からも、看守が四六時中監視されていました。
王妃に与えられた家具は粗末なベッドとマットレス、枕、毛布、籐椅子、テーブルのみでした。
起床後、王妃はロザリーが持ってきた小さな鏡を見ながら髪をとかします。
かつての輝くばかりブロンドの髪は、すっかり白髪となってしまっていました・・・。
それでも王妃は丁寧に時間をかけてとかしていたといいます。
二着しかない喪服は既にボロボロに擦り切れていました・・・。
ココアとパンのみの簡素な朝食をとり、昼食と夕食にはわずかながら肉が出ることもありました。
たった一人暗い牢獄の中で与えられた本を開いたり、鉄格子がはめられた小さな窓から外を見たり、もの思いにふけったり・・・
ただひたすら時が経っていくのを待ち、夜、祈りを捧げてベッドに入るのみという毎日の繰り返しでした。
牢屋に閉じ込められたまま一歩も外出できず、中庭の散歩すら許されないアントワネットの身体は日に日に体力が落ちていきます。
食欲もなくなり、ついにスープしか口にできない状態にまで弱っていってしまいます。
石造りのコンシェルジュリー監獄はとても寒く、一日中陽の光が入らず、セーヌ川に近いために湿気が異様に多いためカビが悪臭を放っているような環境でした。
かつて、ヴェルサイユ宮殿での華麗で幸せだった日々を思い出したでしょうか・・・。
贅を尽くし、煌びやかなドレスに身を包んでいた王妃マリー・アントワネットの終の棲家はこの陰惨なコンシェルジュリー牢獄となってしまうとは、人の一生とは皮肉なものだと思わざるをえません。
こちらが王妃の終の棲家となった最後の牢獄です。
コンシエルジュリ―牢獄でクシャルスキーにより描かれた、王妃マリー・アントワネットの最後の肖像画になります。
ついに運命の裁判が始まります
これまで外国との交渉に必要な人質だったアントワネットでしたが、カーネーション事件をきっかけについに裁判にかけられることになりました。
次回のマリーアントワネットの生涯⑲では、王妃の裁判と処刑前の最期の夜の様子。そしてアントワネットの遺書を全文を含めてご紹介してみたいと思います。
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マリーアントワネットの生涯⑲ 王妃の革命裁判の詳細と最後の手紙(遺書)。死刑判決の後、処刑(ギロチン)までの残りわずかな時間を王妃はどのように過ごしたのでしょうか?
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