マリーアントワネット⑪ プチトリアノン宮と王妃の村里(アモー)の全貌~トリアノンでの王妃のファッション、恋愛、贅沢と浪費。母になったアントワネットの子育てやその暮らしぶりは?

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王妃になった後も自由気ままにふるまい、毎日のように賭博や仮装舞踏会などの娯楽に興じたり、宝石やドレスを買い続ける浪費生活を送っていたマリーアントワネット。

 

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儀式だらけのヴェルサイユの苦手な公務から離れると、

内殿にある私室で、好きなハープを奏でたり、細い声で優雅に歌をうたったりして過ごしていました

そして、少しでも暇が出来ると、真面目で規則正しい生活を好む夫を置いて、

お気に入りの取り巻きたちとともに馬車で夜パリへ出かけ、

賭博や劇場などで夜通しばか騒ぎを繰り返していました。

 

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そのため、アントワネットの衣装や装身具、賭博などの夜遊びに費やされる費用はおびただしい額になり、累積してとんでもない借金となって膨らんでいったのです

ついに彼女は、民衆から「赤字婦人」と呼ばれるようになってしまいます

 

 

◆赤字婦人と呼ばれたマリーアントワネットの生活にも徐々に変化が訪れてきます

 

アントワネットの母マリア・テレジアはこんな娘の結婚生活の様子を案じ、

彼女の兄であるヨーゼフ二世をルイ16世の元に送り、説得を重ね、ついに性的機能を回復させる手術を受けさせることに成功したのです。

 

そして結婚から7年、ようやくアントワネットは母になることができたのでした

王妃の出産は、多数の貴族が見守る中で行なわれるのがフランス宮廷のしきたりだったため、王妃の寝室には重なり合うように多数の貴族が駆けつけていました。

寝室は真冬であったにもかかわらず、大勢の貴族達や医師達が放つ緊迫した吐息で熱気がこもっていました

 

その中で数時間の陣痛の苦しみの後、初の子供、王女マリーテレーズが誕生しましたが、

その喜びを味わうこともなく、アントワネットは気を失ってしまいます。
あわてたルイ16世が窓に駆け寄り、背の高い重い窓を大きく開けて外の空気を入れ、王妃は我に返ったといいます。

 

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王妃の寝室で、王女誕生の瞬間

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女官に抱かれる王女マリー・テレーズ

 

その後1781年10月22日、アントワネットは世継ぎとなる王太子をついに出産し、
国民の喜びも頂点に達します

生まれた当日にヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂で洗礼を受け、

王太子はルイ=ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワと命名されました。

 

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王太子を抱く王妃と、祝福する国王。
足元では王女マリー・テレーズが愛らしく弟を歓迎しています。

 

マリーアントワネットは王太子と王女を得て、この上なく幸せな日々を過ごすのです。

それからの彼女は生活にも変化が見られ、育児に奮闘するようになります。

 

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◆大きな変化の一つとして、出産後に賭博をやめています

マリーアントワネットが賭博に熱中していたのは紛れもない事実ですが、

ルイ14世の愛妾のモンテスパン夫人やルイ14世妃もやっていたので、アントワネットに限ったことではなのです。

●以前の記事でご紹介していますのでよろしければこちらもどうぞ

↓  ↓  ↓

 

モンテスパン夫人 太陽王ルイ14世に愛された愛妾。絶世の美女の人生は、黒ミサ、毒薬、女のバトル、没落・・・興味深いエピソードがてんこ盛りです。

 

生涯賭博をする貴族女性も多い中、マリーアントワネットは出産と同時にやめているということは、そもそも他にやることがなかったためかもしれませんし、子供達にきちんと向き合おうと思ったのではないでしょうか?

 

マリーアントワネットは決して頭が良かったり、教養高い女性ではありませんでした。

ですが、子供を持つ喜びをかみしめ、母としての自覚をきちんと持っていたのです

彼女は子供たちからもとても慕われている優しい母でした

(先ほどもご紹介しましたモンテスパン夫人などは、子供を産んでも人に任せたっきりほったらかしの、いわゆる産み捨て親。そういう女性もいたのです。)

 

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賭博をやめたとはいえ、この当時で賭博の借金は50万リーブル近くになっていたのですが・・・

 

 

◆◆自分だけの自由な世界を造りたい

 

アントワネットは結婚以来ヴェルサイユ宮殿の中で、しきたりなどに縛られた生活の息苦しさを感じていました。

 

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カンパン夫人の回想録の挿絵マリー・アントワネット

「装いの儀」の場面です。

 

ベルサイユの宮廷での生活は起床の儀から、装い、謁見、そして公式晩餐会に至るまで、

宮廷礼法の義務を果たさなければならなかったのです。

 

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嫌ですよね

 

アントワネットは王妃となってから、こうした堅苦しい儀式を略式化していくのです。

こうしてルイ14世の「王権神授説」の時代を革新したマリー・アントワネット。

当然、彼女にひれ伏す臣下は一人も残りませんでした。

故郷のオーストリアではこうした儀式はなく、かしずかれることにすらうんざりしていたのです。

 

 

◆プチトリアノン(小トリアノン)の王妃

 

1774年、アントワネットは夫のルイ16世からベルサイユ宮殿の一角、

宮殿から約1㎞くらい離れた場所にあった離宮を贈られます

 

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「あなたは花がお好きです。マダム、余はあなたに差し上げるブーケがあります。プティ・トリアノンです」
そう言い、ルイ16世は、531個ものダイヤモンドがついたプティ・トリアノンの鍵を王妃に手渡したといわれています

マリーアントワネットにとっては物足りないつまらない夫だったようですが、こちらのエピソード、とっても素敵な夫じゃないですか

 

やがて、彼女はヴェルサイユ宮殿でのストレスから逃れるように、その離宮に自分だけの世界を築き上げるようになっていくのです。

その建物は、4本のコリント式列柱を持ち、繊細で精緻な技工が凝らされたロココ調の優雅な建物で、プチ・トリアノン(小トリアノン)宮殿と呼ばれていました。

 

彼女はこの離宮に改装をほどこし、毎日のように仮面舞踏会や芝居を演じさせては、

自分の気に入った取り巻きの貴族たちと自由気ままに毎日遊び暮らすようになるのです。

 

そこにはヴェルサイユとは全く違う、マリーアントワネットを中心とした一つの世界が出来上がっていて、この世界ならではの細かい規律が決まっていました。

そして、その世界の「美」に反するものは即排除されるのです。

 

プティ・トリアノンには彼女自身の許可の無い者は入ることを許されませんでした。
それはたとえ、国王であっても同じことです。

この世界ではアントワネットに全権限があるため、ルイ16世も来客として扱われていたのです。

 

夫は朝型の生活をしていたけれども、彼女は夜型の生活をする。
この夫婦の趣味・趣向はまるで正反対でした。

普通は王妃は国王に生活の慣習を合わせる傾向にありますが、この夫婦はそのようなことは全くなく、それどころか夫のルイ16世の意見などは鼻でせせら笑うほど。

 

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アントワネットの性格ですから、そのことにも全く悪意はなく、

むしろ夫を少し可愛いとすら思っていたようにも感じますが、これは一般庶民の家庭ではありかもしれませんが、王室のような人々においては見過ごすことのできないものです。

アントワネットはオーストリア皇帝である兄から直々にたしなめられたりしていますが、

全く言うことを聞くような気配はなかったようです。

 

 

マリー・アントワネットは非常に女性らしい女性でしたが、一方でまさに独立心の強い女性だったと言っても過言ではないと思います。

プティ・トリアノンは後に、愛人のスウェーデン貴族と逢瀬を重ねる場所としても使われるようになります。

 

 

◆プチトリアノン その全貌は?

 

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庭園から見たプティ・トリアノン。

 

こじんまりとしながら優雅で均整の取れたその城館がすっかり気に入った王妃

そこに優美なロココの装飾を施させ、時が経つにつれそこで過ごす時間が長くなります。

プティ・トリアノンでは、王妃の身分を捨て、一人の女性として振舞っていました。
堅苦しい儀式や礼儀は全て取り除かれ、音楽やゲームに興じたり、自由を満喫していたのです

 

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アントワネットの繊細な感性と美意識を生かしたフェミニンで気品ある家具は、後年、ルイ16世様式(「マリー・アントワネット様式」じゃないのですね)と呼ばれ、

現在でもフランス人がもっとも好きな様式となっています。

その誕生の地がプティ・トリアノンだったのです

 

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写真画像出典:parismag.jp

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プチ・トリアノンで一番の賑わいを見せるこちらのサロンは、
王妃が友人たちを招いて談笑したり、音楽を奏でたり、賭博(ゲーム)をしたりしていたのでしょうね
彼女が愛でたハープもありますので、ここで演奏していたのかもしれません

 

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写真画像出典:sidesaddle.blog136.fc2.com

プティ・トリアノンの王妃のお昼寝部屋。

こちらはアントワネットの好きな薄いブルー

 

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写真画像出典:parismag.jp

プティトリアノンの内殿。

このお部屋にあるニつの鏡。
実は、障子のような役割を果たす可動式の鏡(壁)なのです。
「2つの窓をふさぐために」というので、
窓を塞いで、さて王妃、貴方は何をしたのかしら?

自分の好きなものに囲まれて幸せな日々をマリ・アントワネットはこの家で過ごしていたのかと思うと、不思議な気分になります。

 

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写真画像出典:sidesaddle.blog136.fc2.com

プチ・トリアノンのマリー・アントワネットの寝室。
この部屋は白地に金とピンクの装飾です。

 

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写真画像出典:sidesaddle.blog136.fc2.com

プチ・トリアノンの書斎

 

どの部屋をみても、バラ、ヒマワリ、ユリなどマリー・アントワネットの好きな花々や趣味を反映した装飾で飾られています

 

牧歌的なプチ・トリアノンの庭にはバラやお気に入りのハーブを植えさせ、その芳しい香りを楽しんだそうです。

当然『ロサ・セイティフォリア』は植えられていたのでしょうか

 

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの描いた、何枚ものアントワネットの肖像画で手にしている薔薇の花。

それがロサ・セイティフォリアです

 

マリー・アントワネットがこよなく愛していた花弁が豊かなオールドローズで、その香水も愛用していたようす。

 

ベルギー出身のピエール=ジョゼフ・ルデゥーテはボタニカル・アート(=植物画)の頂点を極め「花のラファエロ」とも謳われた天才画家でした。

彼の植物に関する知識と、緻密なデッサンと絵に心を動かされた王妃は、

1789年頃、宮廷の博物蒐集室付素描画家として任命します。
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マリー・アントワネットが評価していた植物学者であり画家のルデゥーテ。

 

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ルドゥーテの描いた花や植物の絵、

皆さま一度はご覧になったことがあるのではないでしょうか?

 

彼は「バラの画家」と呼ばれていたほどで、バラ愛好家だったマリーアントワネットに少なからず影響を与え、彼女はルデゥテからバラの描き方の手ほどきも受けていたとか。

(ルドゥーテはアントワネットの死後、ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌのマルメゾン城のバラや他の植物の絵を描くことになります。)

 

薔薇は常に王妃の側にいました。

プティ・トリアノンの庭園に咲き乱れ、壁布にも、椅子にも、ベッドカバーにも華やかな薔薇が描かれていました。

花好きのマリー・アントワネットでしたが、中でも華やかな薔薇を一番愛していました。
それは楽しい子供時代を過ごした、懐かしいシェーンブルン宮殿を思い起こさせる花だったのです。

 

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広々とした庭園にバラが咲き乱れていた、懐かしいシェーンブルン。

プティ・トリアノンを手にしたとき、彼女はそれをシェーンブルンにしたかったのです。

 

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城館の後方と横には、自然を生かしたイギリス庭園を作らせます。

イギリスに多く見られる田園生活を愛していたマリー・アントワネット。

ヴェルサイユ宮殿に見られる、幾何学様式の人工美を誇る庭園は彼女の趣味ではなかったのです。

 

プティ・トリアノンの庭園には人工的に作った小川と小島、

その小島の上には大理石の「愛の神殿」が建てられます。

12本のコリント様式の柱が美しいネオクラシックの神殿

 

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当時の「愛の神殿」を描いた貴重な水彩画。

 

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それが、プティ・トリアノンの窓から見える位置にというのが王妃の希望でした。

そして、実際に彼女は窓辺に佇み「愛の神殿」とその周囲の光景を眺めるのが好きでした

 

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プティ・トリアノンの庭園でくつろぐ王妃。
右後が「愛の神殿」。

 

夕刻になると、無数の松明を灯し幻想的な雰囲気を作ります

そしてそこで祭典を楽しむのでした。
1781年の夏、アントワネットの兄ヨーゼフ2世がにヴェルサイユ宮殿を訪問した時も、

「愛の神殿」を光の中に浮かび上がらせ歓迎したといいます。

 

 

また、プチトリアノンにはメリーゴーランドの馬を龍にした遊具なども造られたそうです

子供達のためでしょうか?

ちょっとした遊園地みたいなものまで造るとはさすがですね

龍にするところがマリーアントワネットのオリエント趣味が反映されていると思います。

 

格別な美意識と審美眼を持つアントワネット、

こうした『楽しむこと』に関するアイディアと才知は非常に長けた女性だったようですね。

 

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松明でライトアップされた夕刻の幻想的な祭典

 

「愛の神殿」の他に、彼女が頻繁に足を運んでいたのは、

人工的に作った小高い岩の上に立つ「見晴台(ベルヴェデーレ)」。

(そう、プティ・トリアノンの自然は全てが『人工的』に作られていることに注目です。)

 

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八角形のネオクラシックの「見晴台(ベルヴェデーレ)」は、床に大理石をモザイクのように貼り、

建物の足元にはスフィンクス像が置かれ、音楽サロンとして使用していました。

「見晴台」の左には、同じように人工的に作った岩があり、

そこから滝が流れ、泉に落ちる情緒あふれる風景を遠方から眺めるのが好きでした

 

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イルミネーションでひときわの美しさを見せる「見晴台」

 

●秘密の洞窟

プチトリアノンにはアントワネットがフェルセン伯と密会した岩穴も作られています。

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写真画像出典:blogs.yahoo.co.jp

ここは本当に秘密めいています・・・。

ちなみにマリー・アントワネットはここで『十月事件』の知らせを聞いたとされています。

 

また裏手の庭園の中には「フランス館」もありました。

この館はプティ・トリアノンと同じく、ルイ15世が愛妾ポンパドゥール夫人のために建築したもので、アントワネットは一切手を加えずそのまま使用していました。

 

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写真画像出典:4travel.jp

ルイ15世様式の優雅な建物『フランス館』。

 

そこでコンサートを開いたり、トランプ遊びをしたり、舞踏会を催したり・・・

そうした時にはテントを張って館を広げる工夫もしていました。

(現代のイベント会場のようですね)

 

マリーアントワネットが開催したというコンサートは、一体どんなコンサートだったのでしょうか・・・

想像力がかき立てられますね
きっと彼女の好きな音楽が演奏されていたのでしょうね

 

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プティ・トリアノンの庭園子供達と散策する王妃。

突き当たりは「フランス館」その右手には「王妃の劇場」があります。

 

 

◆『王妃の劇場』 女優マリーアントワネット

 

マリー・アントワネットはウィーン宮廷で暮らしていた12歳の頃から、

舞台の上でお芝居を演じたりしていたといわれています。
彼女はお芝居と音楽が大好きで、それはフランス嫁ぎ王妃の地位を得た後も、ずっと変わることはありませんでした。

 

ヴェルサイユ宮殿内の豪華なオペラ座で音楽会や劇が上演されていましたが、

それはあくまでの宮廷生活の一部。

もっと気楽に、自分好みに楽しみたいと思った彼女は、

プティ・トリアノンの庭園の中に「王妃の劇場」の建築を思い立ちます。

更に、その自分の劇場で女優のように演じることを始めるのです

 

リシャール・ミックが建築家として選ばれ、

1778年6月に工事が開始。約2年の歳月をかけて完成しました。

 

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プティ・トリアノンの庭園内の宝石のような「王妃の劇場」 の断面図。

 

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王妃の希望に従った淡いブルーと金箔を基調として完成した優美な小劇場。

外観はいたってシンプル。
その代わり劇場内は、ブルーの布地と金の木彫装飾をふんだんに施した華麗なデザインになっています。

舞台中央上部には、王妃の頭文字であるMとAの飾り文字の装飾、
美しい天井画はラグルネが描いたものです。
二階のバルコニー席を支える柱の装飾はフランス国王の紋章であるライオンの『皮』。

なんで『皮』なんでしょうね

 

アントワネットはお芝居以外にも、得意のハープやクラヴサンの演奏なども、この劇場で披露していたそうです。

 

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アントワネットは作曲の才能があり、C’est mon ami (それは私の恋人)など、フロリアンの詩に12曲程、現存しているそうです。

 

また、彼女がいつもこのステージに立っていたわけではなく、
コメディ・フランセーズや、とりわけ彼女が気に入っていたコメディ・イタリエンヌなど
劇団員を呼び寄せて、プライベートな芝居の上演をさせたり、
当時活躍していたヴァイオリニストのリサイタルを催したりもしていました。

 

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池田理代子さん原作の漫画『ベルサイユのばら』でのプチトリアノンでのワンシーン。

 

王妃は10作品以上の芝居に女優として出演しています。
この劇場で最後に演じられた作品は、

1785年9月15日に上演されたボーマルシェの「セビリアの理髪師」です。
アントワネットはロジーナ役で出演しました。

 

セビリアの理髪師やフィガロの結婚 は、

「アンシャン・レジーム」に対する痛烈な批判。

つまり王制社会と貴族たちの告発をしている戯曲です。

 

アントワネットは、王太子ルイ・オーギュストとの結婚式までの道中、

「フィガロの結婚」と「セビリアの理髪師」を観劇し、大公女らしくない大笑いに、

側近はあきれたというほど。

 

とにかくアントワネットはセビリアの理髪師が大好きで、

貴族を痛烈に批判したこの作品の上演を強行におこなったのです。

その後「首飾り事件」が起き、国民の反感をかった王妃は劇どころではなくなったのです。

 

 

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写真画像出典:s.webry.info

この王妃の劇場は、革命の時には外観が地味で目立たなかったため、

破壊されることもなかった貴重な建造物です。

 

ロジーナを演じたマリー・アントワネット。

失笑と怒りの観客たち。

 

それは思想や政治的な配慮を常に考えていたポンパドゥール夫人とは違い、

『ただ面白ければいい』という考えで、こうした啓蒙思想や権力への告発になるようなオペラも平気で上演していました。

王妃でありながら政治的なことに全く無頓着なアントワネット、

『空っぽな頭』とアントワネットを呼んだのは、他でもない兄のヨーゼフ2世だったのです。

 

皆さまももうご存知のとおり、彼女は遊びにのめりこむタイプ

こうなったらもう誰も彼女の暴走を止めることはできません

 

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『自分の思い通りの世界をもっともっと楽しみたい』

そう思ったマリー・アントワネットは、今度はプティ・トリアノンの庭園の一番奥まった地に大規模な村落を造らせるのです。

 

 

 

 

◆フランスの田舎家 王妃の村里(アモー)

 

『ノルマンディー地方にいるような田園を』というのが彼女の希望で、

それを実現したのはやはり「愛の神殿」や「王妃の劇場」も手がけたお気に入りの建築家リシャール・ミック。

 

王妃の希望に従い村落に人口の大きな湖を作り、

その周囲に「王妃の家」「水車小屋」「マルバラ塔」「鳩小屋」「守衛の家」「ビリヤードの家」「小居室」「乳製品加工場」などを建築します。

 

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「鳩小屋」( シャラントンの水車小屋)1750-51

 

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「水車小屋」 フランソワ・ブーシェ 1750-51

 

ブーシェの描いた鳩小屋や水車小屋は1750年代のルイ15世時代のフランスで、

こんなイメージで作られています。

 

●釣り人の搭(マルバラ塔)
1783年、マリーアントワネットの村落で一番最初に建てられたようです。
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このマルバラ塔から小舟に乗ったり、

長い時間をかけて釣りをし、とれた魚を料理することもありました。

 

湖の周りには12軒の家が散在し、

そのうちの5軒は王妃の家・ビリヤード場・ブードワール・水車小屋・乳製品試食所になっていて、、王妃とその招待客達の為に使われました。

 

他の4軒は農夫が住みました。

ファーム(酪農家)・納屋・鳩小屋・乳製品加工所。
残りの1軒は管理人の為に、そしてもう1軒は王妃達に食事を用意する為の台所として使われたそうです。

現在ヴェルサイユのプティ・トリアノンには10軒が残っています。

 

●水車小屋

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ソフィアゴッポラ監督の映画『マリーアントワネット』

実際にヴェルサイユで撮影されているので現存の建物も興味深いです。

 

●王妃の家

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写真画像出典:blog.livedoor.jp

 

外観はわらぶき屋根でノルマンディ風の質素な造りですが、
内部は豪華な家具や調度品が置かれ非常に洗練されているそうです。

 

村落に植えられた木は48000本。
このようにして緑豊かなノルマンディー地方の田園が、

ヴェルサイユの敷地内に実現したのです。

 

更に、納屋や風車、牧場も作り、

農夫婦を住み込みで雇い、農業、ヤギや羊などの放牧、牛を飼育して酪農などをさせるようになりました。

農園には人工の川が流れ、水車が回り、スイス産の雌牛がのんきに群れていました。

 

そして、農村の風景にように曲がりくねった道、

道端には草が生い茂るようなイギリス風の庭へと人工的に変えられます。

 

もちろん全てが人工で造られたそれらは、本当の農家に見えるようにわざと一部を壊したり、

塗料を使って古さを出したりと本当に手が込んでいました。

野菜畑もあり、そこで育てた栄養豊な野菜や果物を食べていたし、

牛乳もブルーのリボンをつけた清潔で発育のいい牛から絞って作り、

自家製を楽しんでいました。

 

現実のフランスの農村地帯とはかけ離れた、まさにそれは、童話に出てくるような世界。

 

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こうして出来上がった離宮の庭は小さな村里は「アモー」と呼ばれるようになります。

アントワネットは農夫が農作業をする姿を見るのがとても好きで、王妃のアモーは彼女にとって心から安らげる場所であったと言えます。

 

宮殿では王妃だったマリー・アントワネット、

この村落では「ひとりの自由な女性なの」と語っていました。

そして、煌びやかなドレスでなくシンプルな服のみを着用し、農婦の服装も楽しんでいました。

 

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時には農家の女性のような服装もしていたマリー・アントワネット。

 

国王はほとんど顔を出すことはなく、

マリー・アントワネットはクラヴサンを奏でたり、歌ったり踊ったり・・・

フェルセン伯が訪れたこともあります。
この村落はマリー・アントワネットにとってまさにユートピアだったのです。

 

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時には村落(アモー)で祭典も行いました。

 

 

◆プチトリアノンでの王妃のファッション トリアノンスタイル

 

アントワネットはアモーを訪れる時は、普段の豪華なドレスや装飾品を脱ぎ捨て、

簡素な服装に着替えて田舎の村人気分を味わっていました

華やかな流行を生み出し、過剰気味な装飾を施したファッションやヘアスタイルを好んだイメージが強い彼女ですが、

白・緑・うす紫・青というブルー系、そして矢車菊の食器などを好んだアントワネットはむしろシンプルでナチュラルな趣味を持っていたように思います

即位後最初の数年間を過ぎてからは、簡素なデザインのドレスや装飾品を好むようになっっていました。
イギリス趣味の流入で、ナチュラル傾向のファッションやライフスタイルへの関心が高まった

この頃、ローズ・ベルタンはアントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしています

 

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麦藁帽子にモスリンの「田舎風の装い」の王妃(1783年)

ローズ・ベルタン嬢につくらせたエンパイア・ドレス風のシュミーズ・ドレス。
髪形もふんわりとダウンスタイルにして、

かしこまっていないトリアノン・スタイルが描かれています。

 

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マリーアントワネット物語展での復元されたアントワネットのシュミーズドレス。

 

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こちらも2012年に開催された展示会『マリーアントワネット物語展』で復元されたアントワネットの農婦風ドレス。

 

ちなみに今年2016年の10月~2017年2月まで、六本木で『マリーアントワネット展』が開催されます

ドレスの展示もあるようで私もとても楽しみにしているのですが、

シュミーズドレスなどのトリアノンスタイルのドレスも展示されるのでしょうか

◆『マリーアントワネット展2016』の詳細内容はこちらのブログ記事もどうぞ

↓  ↓  ↓

 

マリーアントワネット展が六本木で開催☆ ドレスや肖像画、私室のバーチャルリアリティなどヴェルサイユ宮殿監修の本展示会は見逃がせない!ラデュレのコラボグッズやチケット情報も♪

 

『田園にふさわしい服装を』
貴族夫人たちも競って模倣しました。

 

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ポリニャック伯夫人のトリアノン・スタイル

 

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マダム・エリザベト(ルイ16世の妹)のトリアノン・スタイル

 

退屈で堅苦しい宮廷生活から逃れ、

コルセットや高く結い上げられた髪から解放されたくつろぎと安らぎの空間

 

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自然風の庭園に、ゆったりとした木綿のドレスに麦わら帽子というスタイル。

草花や動物の世話をしながら過ごすプティ・トリアノンでの生活をマリーはこよなく愛したといいます。

 

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子供達ももちろんトリアノン・スタイル

 

マリーにとってプチ・トリアノンは本当の自分、

自然体の自分でいられるかけがえのない憩いの場所だったに違いありません。

 

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牧歌的な自然の中で子育てを楽しむマリー

 

 

◆プチトリアノンがもたらしたもの

 

結果的には、離宮と庭園の完成にはかなりの国費が費やされたことになり、

アントワネットの国費を私的に流用する浪費は、ますます民衆の反感を買うようになっていきます。

ルイ16世には愛人がいなかったため民衆の中傷の矛先は、

自分勝手な振る舞いが目立つアントワネット一人に集中していきます。

次第に民衆の前にアントワネットが姿を見せても歓喜の声は聞こえなくなり、

中傷文書や風刺画はどんどん激しくなっていきます。

 

 

しかし、当の本人は人々の中傷など全く気にしない様子で、変わらす自分勝手な生活を続けていったのです。

そうした彼女は生き生きしていました。

 

だってそうですよね?

このプティ・トリアノン遊び、

私たちだって現実にできるなら、

どう考えても、かなり面白いと思いませんか

 

マリーアントワネットはわずか14歳でフランスに輿入れし、18歳の若さで王妃になっているのです。

それまではルイ15世がいましたが、亡くなってからは彼女の上に立つ者は夫の国王ルイ16のみということになります。

彼女の贅沢や浪費、遊びがここまでエスカレートしていくのも、

『止めてくれる人』

の存在がないのですから、妙に納得できるような気がします・・・。

 

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写真画像出典:4travel.jp

 

王妃のお供を許されていたのは、限られた貴族夫人のみ、

その誰もがシンプルな服で、田園風景に溶け込んでいました

王妃の子供たちも自由に飛び回り、鶏が生む卵を驚喜しながら集めていました

 

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革命前に子供たちを連れ立って庭園を散歩する王妃。

 

この頃は、子育ての楽しい時期だったことも重なり、マリー・アントワネットにとって
人生で一番充実した幸せの時だったのかもしれません。

 

ちなみにこのプティ・トリアノン、

アントワネットの死後、彼女の幽霊に出会ったという目撃談が相次いでいます(トリアノンの幽霊)

アントワネットが生前、宮殿で最も愛した場所であり、一人静かに田園生活の風情を楽しんだ場所・・・・

トリアノンの幽霊(別名: ヴェルサイユの幽霊もしくはモーバリー・ジュールダン事件)は、オカルト史上でも最も有名かつ最も物議を醸した事件の一つです

 

次回のブログ記事ではいよいよ運命のフランス革命が勃発します。

華々しいのはここまで。

マリーアントワネットの人生はこの後はどんどん悲惨なことになっていくのです・・・。

↓  ↓  ↓

 

マリーアントワネット⑫ フランス革命の勃発~王妃の生涯はここから悲劇が始まり一気に転落します。ロココの貴族文化の終焉とバスティーユ襲撃から十月事件の歴史的エピソードも。

 

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