前回のマリーアントワネットの生涯⑯では、フランス革命によりタンプル塔に幽閉された王妃マリーアントワネット及び国王一家の生活についてご紹介しました。
タンプル塔に幽閉されてからのマリーアントワネット。
監視が厳しい窮屈な生活の中にも、好きなファッションや趣味、食事などヴェルサイユ時代とは比べ物になるませんが、多少の贅沢も許されていました。
そして、何よりも愛する家族揃って過ごす時間に心が慰められていたようです。
今回のブログも引き続きタンプル塔でのマリーアントワネットについてご紹介するのですが、
いよいよ彼女にとっての本当に地獄のような苦しみが始まります。
ここから彼女の人生は不幸の底。どん底に落ちてゆくのです・・・。
よろしければお先にこちらのブログ記事からどうぞ
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マリーアントワネット⑯ タンプル塔に幽閉されたアントワネットの生活は?最後までドレスやファッション、歌、刺繍など好きな趣味を諦めなかった王妃。ブレゲの時計NO,160のエピソードも。
この記事の目次
◆家族との別れ① 夫ルイ16世の処刑
ヴァレンヌ逃亡事件が起こるまでは、スキャンダルにまみれた王妃マリー・アントワネットとは違い、国王ルイ16世は国民の貧しく苦しい境遇に心を悩ませる『心優しい国王』として、絶大な人気を得ていました。
ヴァレンヌ逃亡事件の詳細はこちらのブログをどうぞ
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マリーアントワネット⑭ ヴァレンヌ逃亡事件の理由や詳細 革命後王妃の人生の明暗を分ける逃亡劇は本当にドラマティックです。フェルゼン伯爵との不倫の関係は?
ルイ・16世は国民のよき支配者であり、王妃であるマリーアントワネットの噂はどうであれ、国王としての威信が地に落ちるということはなかったのです。
ですが、全てはヴァレンヌ逃亡事件によって一変してしまいました
その後タンプル塔に幽閉され静かに暮らしていた国王一家でしたが、遂にその処遇を巡っての裁判にかけられることになります。
国王一家はもはや悪質な政治犯として見られ、釈放の余地はありませんでした。
1792年11月20日、国王の裁判のための調査委員会により、テュイルリー宮のルイ16世の住居から『鉄の戸棚』が発見されました。
元々メモ魔だったルイ16世は、様々な書類をこの『鉄の戸棚』の中に残していたのです
●革命当初から、国王が表と裏の顔を持っていた事。
●亡命者と連絡を取っていた事。
●外国と交渉していた事。
これらの国王と外敵との通謀を示す動かせない証拠文書が出て来たことで、政治犯として国王の有罪は決まったようなものでした。
また鉄の戸棚を作った錠前師ガマンが、王妃から葡萄酒とビスケットをもてなされた折、それを食べて猛烈な腹痛に襲われました。
ガマンは毒殺の陰謀にかけれたと思い込み、一年後に内務大臣であるロランに通報したのです
国王は裁判が始まるまで家族と引き離されタンプル塔の大塔に移されましたが、この頃は少塔の時と同じように一日を家族と過ごすことができていました。
タンプル塔でのルイ16世
1792年12月11日、パリ市長が裁判所に行くためルイ16世を迎えにきました。
国民公会の法廷が始まり、ルイ16世は『ルイ・カペー(平民名)』と呼ばれる事になりました。
そして、それから判決の判決がくだされるまで家族と会うことすら許されなくなります
裁判では情け容赦のない尋問がなされ、形だけの裁決を行います。
1793年1月20日、下された判決は『死刑』でした。
死刑に賛成が387票、反対が334票でしたが、賛成票のうち執行猶予を望む票が26票あり、これらをを反対票に加えると361対360となり、わずか1票の差で死刑が確定されたことになります。
同日午後14時、王妃マリーアントワネットはタンプル塔の外で叫ぶ声を聞いて驚愕します。
『国民公会はルイ・カペーが死刑に処せらるべき事を決定す。
処刑は囚人に通知した後、24時間内に行わるべし』
死刑判決を受けたルイ16世は処刑前日に国民公会に宛てて一通の手紙を書きます。
その手紙には神の元にいく準備のために三日間の猶予がほしいこと、
家族との最後の別れの際には、誰も見張りに立たないでほしいこと、
自分亡き後、家族の面倒をきちんとみてほしいこと・・・
タンプル塔に判決を伝えにきた代表団にその手紙を託しました。
ルイ16世が処刑前日に書いた手紙
手紙の返事を携えて、彼らが再び戻ってきたのは夕刻になってからでした。
国民公会は王が希望した三日間の猶予を拒否し、処刑を予定通り翌日に行なうと決定したのです
それを無言で受けたルイ16世を後に残し、代表団が引き払ったのは18時でした。
夜20時、泣き続ける王妃の部屋に市の役人が現われます。
『本日は例外として、ルイ・カペーに会う事が許された』
王妃と家族に国王との面会の許可が下ると、階下の食堂に王妃とルイ・シャルル、マリーテレーズ、エリザベート王妹が訪れました。
四人の役人達は最後の時間を家族だけで過ごせるようにと配慮し、部屋の外から監視をします。
そして介添えの司祭エジウォル・ド・フィルモン神父が部屋に残りました。
ようやく顔を合わせることができた愛する家族・・・
ですが、それは永遠のお別れの時でもあったのです。
王の口から家族に判決が告げられると、叫び声が響きました。
『一国の王ともあろう人物が、国民によって裁かれ、処刑される。』
予想を絶するこの決定に、誰の口からも言葉は発せられませんでした。
ルイ16世の処刑前夜
アントワネットと家族たちは国王に縋り付いて泣き叫び、タンプル塔の外まで聞こえる程の悲痛な泣き声が約15分間止む事がなかったといわれています。
身の置き場がないほどの悲しみや怒りが、言葉を奪っていたのです。
家族に別れを告げるルイ16世
皆の声にならない嗚咽が長い間続いていました・・・
その嗚咽はタンプル塔の厚い壁にぶつかり、行き場がないように彷徨っていました。
家族は二時間の間、泣き、嘆き悲しんでいたと言われています。
あまりにも悲痛な光景に、隣室にいた看守もいたたまれないほどでした。
国王は落ち着いた威厳ある態度で、幼い王太子ルイ・シャルルを膝に抱き上げると、
『決して、国民たちに復讐しょうなどと考えてはいけない』と彼の手を上げて誓わせます。
家族の永遠の別れを前に、ときは無残にも過ぎ去っていきます。
皆、いつまでもいつまでも王から離れたくありませんでした。
この最後の夜を、王と共に過ごしたいと切望したに違いないでしょう。
一向に部屋から動こうとしない家族一人一人の顔を、国王は心に刻むかのようにしっかりと目にやきつけます。
午後22時15分。
国王が立ち上がるのを合図に家族は去らなくてはならなりませんでした。
ルイ・シャルルの
『お父様が死なないで済む様にお願いですから、パリの委員に会わせて下さい!』
と役人達に懇願する叫び声が塔内に響き渡りました。
王妹のエリザベートは悲しみの余り失神しました。
ルイ16世の妹エリザベート
愛する家族との永遠の別れのときは刻一刻と迫っています・・・
この夜を最後に、国王は翌日朝処刑場へと向うのです。
王は『明日の朝に再び会いましょう』と言葉をかけます。
けれど、そのとき彼は決意していたのです。
このつらい思いを繰り返したくないために、明日は誰にも会わず、最後の祈りを捧げて処刑場に向おうと。
翌1月21日の朝、タンプル塔を出て行く王を見送ったのは、侍従のクレリーただ一人でした。
悲痛な家族の永遠の別れ
◆ルイ16世の処刑の日の全様 そして悲劇の王ルイ17世の誕生
1793年1月21日、処刑当日。
国王は朝5時頃に目覚めました。
よく眠れたようで、いつもと同じように穏やかな顔で侍従クレリーに声をかけます。
慈悲深い国王と呼ばれていたルイ16世
6時、いよいよルイ16世が神に最後の祈りを捧げる時が来ました。
フェルモン神父が王の部屋に入ってきて、静かで寂しい祈りが始まります。
王のために、従者クレリーは祭壇のかわりになるタンスの埃をていねいに払い、その前にひざまずくためのクッションを置きました。
白いシャツに白いチョッキ、グレーの半ズボンとはいたルイ・16世。
その王にふさわしくない簡素な祈りの場を見つめながら、クレリーは胸が張り裂ける思いだったといいます。
目からは涙がとめどなく流れてきます。
重い祈りの声は、部屋をさまよった後、タンプル塔の厚く暗い壁の中に吸い込まれていきました。
「神の元に行く準備が出来た」そう言いながら王は指輪をはずし、それを王妃に渡してほしいとクレリーに頼みます。
王は何度も何度も涙を拭いていたといいます・・・
そして、『別れがつらい』という悲痛な言葉をクレリーは耳にします。
突然、ドアが荒々しく開き役人たち入って来ました。
ついに処刑場に行く時間がきたのです。
王は落ち着いた態度を崩さず、役人に囲まれながらドアの外に向って行きました。
これほどまでに温厚で慈悲深い国王が、何故処刑されなければならないのか?
クレリーは最後の最後まで理解できませんでした。
国王はクレリ―に『家族にさよならを伝えて欲しい』と頼むと、タンプル塔の庭園から家族の住まう天守閣を二度見上げ、馬車に乗ったといいます。
国王を救出するという噂が飛び交う中、その周囲をおびただしい数の兵が囲んでいました。
馬車は革命広場(現コンコルド広場)へと向かって行きます。
ルイ16世は途切れることなく、臨終の詩篇を唱え続けていました。
革命広場で処刑を一貫して指揮する人物は『ムッシュ・ド・パリ』と呼ばれたアンリ・サンソンでした。
サンソン自身は実は王党派で国王を熱心に崇拝していたのです。
しかし、罪人処刑の執行人というのがサンソン家の職務でした。
四代目の当主サンソンは、一睡も出来ないまま朝を迎え、息子アンリと二人の弟と共に家を出ました。
午前8時には革命広場で待機する予定でしたが、群集に阻まれ、1時間遅れの午前9時に到着しました。
王党派のサンソンと二人の弟達、息子のアンリは、国王救出の噂を願っていました。
そして、国王救出の際には逃げ道を作る決意までしていたといいます。
国民衛兵として警護に加わる息子アンリも父の意志に従おうと処刑台の近くで警備に就いていました。
ガタガタと音を立てながら進んでいく国王を乗せた馬車が、現在のメトロの駅ボンヌ・ヌーヴェル近くにさしかかったとき、
「国王を救おう!」
という大きな声が群集の間から上がりました。
破格の資本家であり、王の相談役だったジャン・ピエール・バッツ男爵でした。
剣を振りかざしながら叫び続けるバッツ男爵は、群集が大挙して自分に続いてくることを願っていたのです。
バッツ男爵は王を土壇場で救出し、しばらくの間かくまい、その後国外亡命を企てていました。
ですが彼の声は虚しく群衆にかき消され、自身の危険をも感じたバッツ男爵は、そのまま群集に紛れ込みロンドンへ向かったといわれています。
処刑当日に国王救出を試みたバッツ男爵
何事もなかったかのように馬車は進み、10時を少しまわったころに広場に到着しました。
ルイ16世は馬車を降り、自ら上着を脱ぎます。
午前10時20分
神父の足元にひざまずき最後の祈りを捧げた後、自分の髪の毛と結婚指輪を王妃に渡すように頼み『別れるのが辛いと伝えて欲しい』と言い残します。
そして、しっかりとした足取りで処刑台の階段をのぼっていきます。
ルイ16世はこれまで王妃マリーアントワネットの愛がフェルセン伯爵に向いているのを知っていましたが、この時、人生の最後の最後でやっと妻に愛されていると実感することができたといいます。
革命広場には二万人もの群集が溢れていましたが、誰一人として声を発する者はいませんでした。
両手を後ろに縛られ、シャツの衿を切って広げられると国王の処刑の準備が整えられました。
フェルモン神父に支えられ処刑台への階段を一段ずつ上っていくと、20ばかりの太鼓の音が鳴り響きました。
国王が壇上に辿り着いて群集の方を振り返ると、太鼓の音が鳴り止みました。
『人民よ!私は無実のうちに死ぬ!』
楽隊の指揮官の号令で再び太鼓が打ち鳴らされました。
その音が国王の声を閉ざしたため、国王は傍らの人々に言ったといいます。
『私は、私の死を作り出した者を許す。
私の血が二度とフランスに落ちる事のないように神に祈りたい』
この処刑直前に国民に向けて語った言葉、
刑実行を告げる太鼓の音にかき消され、王の最後の言葉を聞いた人は誰もいなかったといわれています・・・
午前10時22分。
国王の体は、かつてルイ15世の騎馬像があった広場東方面に向いて横たえられた後、サンソンの執行によって、ギロチンの刃が鈍い鈍い音と共に落下して断首されました。
1793年1月21日、10時22分。38歳の生涯を閉じたルイ16世。
国王の首が断首されると、民衆はハンカチ、紙、その他なんであろうと王の血を浸しました。
そして、国王の血しぶきが群集に降り掛かると、国王の血で染まった髪を買い求める者もいたといいます。
かつて、革命前にルイ・16世は『人道的な処刑具』としてギロチンの導入を検討させていました。
『苦痛を与えないように刃の角度を斜めにするように』とギロチン改良の助言を行っていたといいますが、自分自身がギロチンにかけられることになるとは思ってもみなかったことでしょうね。
王は苦痛なく神に召されることができたのでしょうか・・・?
10時半に大砲が一斉に撃たれ、タンプル塔の衛兵隊が太鼓を打ちながら『共和制万歳!』と叫びました。
王妃はその太鼓と大砲の音で国王の刑が執行された事を知ります。
啜り泣きながら寝台に倒れ、マリーテレーズは悲鳴を上げ、ルイシャルルは泣き出しました。
アントワネットは悲しみと絶望にさいなまれながらも、次の瞬間、息子ルイ・シャルルの前に膝まづき『ルイ17世』としての即位を讃えたのです
マリー・アントワネットは、こうした窮地に立たされてはじめて自分がどういう立場の人間だったのかを自覚したのです。
そしてこれから最期の時まで、王妃として相応しい態度で臨んで行く決意をするのです
国王ルイ16世が処刑され、その跡継ぎである王太子ルイ・シャルルは、このようにして捕われていたタンプル塔で非公式にフランス国王ルイ17世となりました。
マリー・アントワネットはいつの日にか救出され、この我が子が正式に戴冠式を行なうことを夢見ていたのかも知れません。
以降、王党派からルイ・シャルルは『ルイ17世』と称されて、ルイ16世の弟プロヴァンス伯(後のルイ18世)は亡命先で摂政を名乗ることになります。
◆王党派による王妃の救出は?
ルイ16世が処刑されると、王妃と子供たちをタンプル塔から救出しようという動きが王党派の間で強まります。
1793年3月10日、
王妃に傾倒していたジャルジェイ将軍が王妃脱出計画を立てますが、
王妃のみの救出ということだったため王妃は頭からそれを断ります。
アントワネットは夫亡き後、家族を残して自分一人が助かる事を望んではいませんでした。
救出計画はどれも実現しないまま、タンプル塔での日々は流れていきます・・・
王亡き後、暗い塔の中での暮らしはますます暗くなっていきました。
喪服姿の王妃。
喪服はアントワネットが国民公会に頼んで手にしたものでした。
未亡人となった王妃マリーアントワネットは急激に老けていったといいます。
そして一日として祈りを欠かしたことはありませんでした。
14歳でフランスに嫁ぎ、心の底から愛したことはなかったとはいえ、
4人の子供の父であり、真面目で善良な夫を失った悲しみは大きかったのです。
彼女の慰みは二人の子供と夫の妹エリザベートだけになりました。
唯一の救いはタンプル塔で四人揃って暮すことが許されていたことです。
アントワネットはルイ16世が処刑されてからは、ずっと喪服を着ていたといわれています。
肖像画の左側に見える白い胸像は、ルイ16世の在りし日の姿に違いありません。
国王が処刑されてからは民衆の怒りは一旦は収まり、アントワネットと子供たちは平穏な暮らしへと戻りました。
王政廃止、国王の処刑、共和国の実現。
これで国民の希望が叶ったかのように思えました。
ですが、その後も革命は坂を転がるように悪化していき、アントワネットにはさらなる悲劇が待ちかまえているのです・・・
◆家族との別れ② 最愛の息子シャルル(ルイ17世)との別れ
ルイ16世の処刑後、王が息子と住んでいたタンプル塔の三階部は閉ざされ、王子は四階で母、姉、叔母とともに暮らすようになっていました。
しかし、まもなくしてマリーアントワネットはこの最愛の7才の息子とも引き離される運命にあります
父の死の悲しみを、母や姉、叔母の優しいぬくもりで慰めていた幼い王子の不幸は突然に訪れます。
『王党派がルイ・シャルルを強奪して、新国王ルイ17世として即位させようとしている』
という噂が立ったことで、王処刑から約半年後の7月1日、ルイ17世が家族から離される決定がなされたのです
彼は『共和国にふさわしい一人の少年』として育てられるべきで、王子の身分などすでにないと判断されたからです。
7月3日夜。
ついに王子と母アントワネットの悲しい別れの日がやってきました。
突然ドアを激しく叩く音がし、6人の役人が足音高く部屋に入ってきました。
『いったい何事か?』と立ちすくんでいたマリーアントワネットに向って、役人の一人が荒々しい声で伝えます。
「カペーの子はひとりで暮すことになった。それは国民公会の決定なのだ。」
アントワネットは叫び声をあげます。
ベッドでぐっすり眠っていた王子はそのただ事でない母の声で目覚め、ベッドから飛び降り、その異様な様子におののき、アントワネットの体にすがりつきます。
アントワネットは、悲鳴をあげて幼いルイ・シャルルを腕の中に抱きかかえて抵抗を続けたといいます。
王子を連れて行くという命令文を読み上げる役人たち。
ルイ・シャルルの華奢な体をしっかりと胸に抱いた王妃は、息子を渡すわけにはいかないと叫びます。
毅然とした態度で、彼女は何度も何度も繰り返します。
『絶対に、絶対に息子を渡しません。』
一時間あまりの虚しい抵抗が続きますが、国民公会の決定であるからには、目の前にいる役人たちの力ではどうしようもないことなのです。
彼らは単に決定を告げ、ルイ・シャルルを連れて行く命令に従っているだけなのですから・・・
次第にそのことを理解すると、観念したアントワネットは息子の着替えを手伝い、優しい言葉をかけたといいます。
それが永遠の別れになるとは思っていませんでした。
アントワネットが『あなた方も人の親でしょう』と役人たちに理解を求めると、
『自分たちの子供が飢えに苦しんで死んでいく中、あんたは贅沢して遊んでいた』と云われたともいわれています。
◆国王となるはずだったアントワネットの息子ルイ・シャルル(ルイ17世) その後の生涯は・・・?
生まれ持った気品が全身からほとばしっていた王子ルイ・シャルル。
こうして王子が家族と引き離され、タンプル塔の三階で元靴屋のシモン夫婦と暮すようになった時、彼はまだ8歳の美しい少年でした。
ブルーの大きな瞳と細いブロンドの髪は母譲り、本当に容姿も性格も愛らしい王子で、そうした息子をマリーアントワネットは「愛のキャベツ」と愛称をつけて寵愛していました。
好奇心旺盛でお喋り、人懐っこいルイ・シャルルはすぐにシモン夫婦になつきます。
当初は母を求めて泣いていた王子でしたが、間もなくして監視員たちとも打ち解けてきます。
監視員たちがふざけて革命家の帽子を被せると、それを被ったままおどけたり、
意味もわからないまま革命の歌を歌うこともありました。
これまでのような礼儀作法もなければ、勉強もない・・・
毎日毎日遊びながら日々が過ぎていきます。
このように『王子の身分を一刻も早く忘れさせるように』という革命政府の目論見は着実に実を結んでいったのでした。
王子とシモン
将来はフランス国王ルイ17世になるはずだったこの少年は、その後、歴史の闇に葬られその存在自体も謎のままかき消されてしまうのです・・・。
実は王子の養育係だったシモン夫妻に市民としての教育を受けながら凄まじい虐待を受けていたという説もあるのです。
教養も知識もなく、粗暴で野蛮な男が王子を立派な革命家になるように教育していくのですから・・・
事実は定かではありません。
ですが、このルイ・シャルルのその後の人生は本当に悲惨としか言いようがないほど凄絶だったことは事実なのです・・・。
マリー・アントワネットは悲劇の王妃といわれますが、この息子のルイ・シャルルは悲劇の王子と言えるでしょう。
むしろ、革命が起こってから波乱に満ちた国王一家ですが、中でも一番悲劇的な最期を迎えたのが王太子ルイ・シャルルだと私は思います。
王子という身分に生まれ、この上ないほど幸せだった幼い少年に与えられた運命は本当に残酷なものでした。
私の知る範囲ではこのマリーアントワネットの息子のルイ・シャルルほどひどい目に合って亡くなった人物はいないんじゃないかしら?っていうレベル。
史実を調べていても、もう、あまりにも可哀想で可哀想で・・・
もう目も当てられないほどの最期なのです。
マリーアントワネットと四人の子供たち
マリーアントワネットは生涯に四人の子供を産んでいますが、その子供たちの運命はそれぞれ皆悲劇的でした。
ルイ・シャルルをはじめ、王家に生まれたのにとても幸せなんて言える生涯じゃない・・・
マリーアントワネットの子供達、また王と王妃亡き後に残された子供たちのことについては、今後こちらのブログで詳しくご紹介してみたいと思います。
◆家族との別れ③ マリー・テレーズ(娘)とエリザベート(義妹)とも引き離され、死の牢獄コンシェルジュリーへ
マリーアントワネットは息子と離れ離れにさせられてから精神的に不安定に陥ります。
タンプル塔にはマリーアントワネットの他、14才の長女マリー・テレーズ、国王の妹エリザベートの三人が残されることになりました。
夫を処刑され、最愛の息子とも引き離されたマリーアントワネットに残された唯一の楽しみは、小さな明かり取り窓から庭を見ることだけでした。
その庭にはシモンに連れられて王子が時々散歩に来ていたのです。
会うことすらできなくなってしまった愛おしい我が子の姿を一瞬でもいいから見たい。
そのために王妃は、いつ現れるか分からない王子を見逃したくないという一心で、朝からじっと窓辺に佇んでいたのです。
明り取り窓から身動きすらしない王妃は、一人の哀れな母でした。
王子と引き離された日から口も聞かなくなり、部屋中を亡霊の様にさ迷うようになったといいます。
けれども、もうそんなことすらもできなくなる日がすぐにやってくるのです・・・
今度はアントワネット自身が連れていかれる番となるからです。
フランスの新しい指導者にとって王妃は、諸外国との取引の為の人質のようなもので重要な存在でした。
そして、厳重保護する為にアントワネットをタンプル塔からコンシエルジュリー牢獄に移す決まったのです。
コンシェルジュリーは元々パリ発祥地であるシテ島に10世紀に建築された宮殿でした。
14世紀に宮廷の移動に伴い、最高法院が置かれることになります。
その一部が監獄となり、主に重要な政治犯が捕らえられていました。
「死の控え室」と恐れられていたコンシェルジュリー。
革命時には多くの人がここに収容され、処刑場へと連行されていったのです。
8月2日夜中、
マリー・アントワネットは突然起こされ、コンシエルジュリーに連行されることを告げられます。
これまでに既に多くの悲劇を経験してきた王妃は、自分の身に何が起きようとももうびくともしない女性となっていました。
マリーアントワネットはしっかりとした足取りで迎えの馬車に乗り、コンシエルジュリーへと向かいました。
そして、その時点ですでに自分の運命を悟っていたのかもしれません・・・。
タンプル塔からコンシエルジュリーに移される王妃マリーアントワネット。
残された娘マリー・テレーズ
タンプル塔でのマリーテレーズとルイシャルル
弟に続き母のアントワネットが連れていかれて、叔母のエリザベートもその後、まもなくどこかに移送されました。
ただ一人残された長女のマリー・テレーズは、17才になるまでの三年間を、このタンプル塔に幽閉されて過ごすことになります。
後のブログ記事で詳しくご紹介しますが、後に彼女には皮肉にも革命政府と母の祖国であるオーストリアとの捕虜交換の切り札として利用される運命が待っているのです。
◆コンシェルジュリー牢獄 王妃様から女囚第280号へ
コンシェルジュリーに移されてからのマリーアントワネットは、囚人としての生活を余儀なくされ、独房から出ることはできませんでした。
また簡単に髪を整え、二着しかない服を着替えにするような生活についになってしまいました
美容とファッションが大好きだったアントワネット。
髪を高く結い上げて飾り、豪華なドレスや宝石で着飾っていたころがまるで嘘のようです。
アントワネットの一番の美点とも言える真珠のように美しかった肌はすっかり荒れ、髪は白髪に。
美女だった頃の面影は跡形もなく消え去ってしまい、すっかりやつれてしまったといいます。
こちらのブログ記事には過去の王妃のドレスや髪形、美容法などをご紹介していますので、よろしければこちらもどうぞ
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マリーアントワネット⑥ 美容法~歯を抜いて小顔に?肋骨を折ってウェストを細く!?流行の「マリーアントワネットダイエット」にプラセンタ、つけぼくろなどお化粧品も一挙公開。
●久々のお顔チェック
ルイ16世が処刑された当初は、喪服姿ですが、喪服自体も心なしかファッショナブルな印象が・・・。
お顔の様子もまだアントワネットの面影を感じることができますよね。
こちらはもうアントワネットの肖像画であることすらわからなくなってしまいました・・・
そして、王妃様という敬称から女囚280号に・・・
それが彼女に与えられた最後の称号でした。
次回のマリーアントワネットの生涯⑱では、コンシェルジュリー牢獄に捕えられたマリーアントワネットの生活の様子や最後の王妃の救計画『カーネーション事件』についてご紹介してみたいと思います。
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マリーアントワネット展が六本木で開催☆ ドレスや肖像画、私室のバーチャルリアリティなどヴェルサイユ宮殿監修の本展示会は見逃がせない!ラデュレのコラボグッズやチケット情報も♪
デュバリー夫人① 『べルサイユのばら』でお馴染みのルイ15世の愛妾。その性格や過去の人生、宮廷生活、マリーアントワネットや首飾り事件にまつわる因縁とは?
デュバリー夫人② ヴェルサイユ宮殿を追放された後の人生は?元フランス王の愛妾がフランス革命に翻弄され、断頭台(ギロチン)で処刑されてしまう悲劇の最期。
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