前回ブログ記事でご紹介いたしました、
漫画『べルサイユのばら』でもお馴染みのルイ15世の愛妾デュバリー夫人。
引き続き、デュバリー夫人のヴェルサイユ宮殿を出た後の人生を追っていきましょう
よろしければお先にこちらのブログ記事もどうそ
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デュバリー夫人① 『べルサイユのばら』でお馴染みのルイ15世の愛妾。その性格や過去の人生、宮廷生活、マリーアントワネットや首飾り事件にまつわる因縁とは?
この記事の目次
◆ヴェルサイユを追われた後のデュバリー夫人の人生は?
ルイ15世の崩御後、ヴェルサイユ宮殿を追われ修道院に入ったデュバリー夫人。
最初は戸惑っていましたが、もともと人柄がよく、どんな環境にもすぐ馴染む柔軟性のある彼女は、修道女たちともすぐに仲良くなっていきます。
さすがはデュバリー夫人
前回の記事でもご紹介しました通り、その持ち前の性格のよさと明るさで、修道院でもやっぱり好かれていたなんてすごい
愛人は国王が亡くなったら宮廷から去らなければならないので、
いざというときのためにしっかりと財蓄しておくことは基本。
デュバリー夫人もしっかり現金や宝石、絵画、土地や建物を所有していました
その後ルイ16世に許され修道院を出て、ルーヴシェンヌの館で暮らし始めます。
ド・ブリサック元帥、シャボ伯爵、ヘンリー・シーモア・・・何人もの愛人を相手に悠々自適の暮らしを楽しんでいたようです
体はすっかりたるみ、美しかった面影がないほど肥満してしまったそうですが・・・
でも、ブリサック公爵とは特に仲睦まじかったり、どこでもどんな時も彼女らしく、その人間関係は良好だったようです
ルイ15世の死後のジャンヌ・デュ・バリー夫人
確かに少し太った・・・
美貌のデュ・バリー夫人でしたが、歳をかさねてその美貌にかげりが現れても、
愛される人柄という武器を持っていたことが彼女の最大の強みなのかもしれません。
どんなときも、どんな環境でも、
異性でも、同性でも、人から好かれ愛され続けるデュバリー夫人
同じ女性として本当に憧れますし、見習いたいポイントですね
ただデュバリー夫人、
このまま最後まで幸せに暮らしていきました・・というわけにはいかないのです。
美貌と人柄に恵まれ、幸せを謳歌した彼女の最後は、本当に哀れで悲劇的なものとなるのです・・・。
◆運命の転機 フランス革命の勃発
1789年、フランス革命が勃発します。
ベルサイユを離れて15年、ルーヴシェンヌの城主として華やかに暮らしていたデュバリー夫人は46歳になっていました。
彼女はロンドンへと亡命しますが、
革命軍からルーヴシェンヌ城と宝石、美術品が押収されるということを知りフランスへと戻ってきてしまうのです
そして革命軍に捕まってしまうのです。
マリー・アントワネットと同じくコンシェルジュリー監獄に捕われます
『死の控え室』と言われたコンシェルジュリー。
そこに入れたら二度とは生きて出られないと言われていましたが、デュバリー夫人はのんきにも自分の持っている宝石のありかを教えるから助けてほしいと訴えていたそう。
彼女の強みだった『お気楽な性格』が最終的にあだになってしまうとは・・・
画像はパリ、シテ島のコンシェルジュリー監獄。
フィリップ4世の宮殿だった建物は14世紀後半から牢獄として使われ始め、フランス革命の際には、多くの王族や貴族が収容されました。
私も実際に行きましたが、本っっっ当に怖いです。
巨大な石の建物の中は暗く、陰気で、冷え冷えとしていました・・・
監獄の中のマリーアントワネットを復元した人形もまた怖いです。
他にもギロチンの犠牲者の名前が一人一人記録されてあったり・・・
しつこいようですが、今行ってもかなり怖いです。
フランス革命 デュ・バリー夫人とランバル公妃
1793年、さらに恋人だったブリサック公爵も革命軍にとらえられ虐殺されてしまいます。
デュバリー夫人は50歳。
裁判所に送られ、彼女の裁判が始まります。
革命軍から見れば、国王の公式愛妾だったデュバリー夫人は王家、貴族と同類ということになります。
でも、デュバリー夫人は、
『自分は革命軍と同じ出身なのにどうして?』
という思いだったようです。
そして、彼女は性格的にこの最悪の事態をもそれほど深く考えておらず、
自分の隠した宝石のありかを教えれば許されると最後まで思っていたのだそう。
でもフランス革命の歴史を知っている方なら、そんな甘いものではないということは十分ご存知ですよね。
マリー・アントワネット同様、デュ・バリー夫人の処刑は裁判の前にもう決定されていました。
そしてその通り、あっさりギロチン台に送られてしまいます。
◆ついに運命のマリーアントワネットの裁判が始まります
画家で、デュバリー夫人やマリー・アントワネットなどの肖像画を多く遺したルブラン夫人は、回想録で断頭台で死にゆく人にこう述べています。
貴族たちは誇りを持っていたので処刑の時も取り乱すことなく、皆毅然として断首されていきましたが、デュバリー夫人だけが叫び、逃げ回り、民衆に命乞いをしたと言われています。
…あの恐ろしい時期に命を落とした女達の中で、断頭台を正視出来なかったのは、彼女1人であった…(中略)
…もしこのすさまじい時期の犠牲者たちが、あれほどまでに誇り高くなかったなら、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったなら、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろう…
デュバリー夫人は処刑の時、恐怖のため取り乱し断頭台にのぼる勇気もなく、処刑人にあと一分待ってほしいと哀願します。
処刑台に上がっても最後の最後まで命乞いをしたそうです。
処刑人のサンソンとデュバリー夫人は古い知り合いでした。
公妾になる前の美しかった夫人を知っていたサンソン。
50代になり、当時の面影がないほど太り、やつれた夫人は、死に際して歯の根も合わないほどガタガタ震え、自分は無実だと金切り声を挙げ、再会した彼に助けを求めました。
結果的に心が動いてしまったサンソンは、悲痛のあまりその姿を見ていられなくなり、デュバリー夫人の処刑を自身の息子に代わってやらせたそうです。
(2人が恋人同士だったとする説もあるようですが、真相は分かりません。)
ここからはかなり怖いです・・・
いよいよ、処刑人が彼女を押さえつけようとした時、彼女は50代の女性とは思えぬほどのバカ力で、大の男3人の手を振払って、狭い処刑場の中を悲鳴をあげて逃げ回ったといいます。
夫人は両手を縛られまいと渾身の力でギロチン台の端にしがみつきます。
処刑人は、何千という観衆の前で、彼女の指や手を一枚一枚、それこそ貝殻でも剥がすようにして引き離さねばなりませんでした。
3人がかりで組み伏せ、ようやくギロチンの台に押さえ込もうとするときでさえ、彼女は叫び続けました。
「いやー!」
「助けてー!お願い!」
「私は何もしていない」
「もらっただけなのよ!」
デュバリー夫人の顔は涙でグシャグシャになり、凄まじい形相になりました。
執行人たちは、ばたつかせる足を力いつぱい押さえ込み、泣き叫ぶ夫人の身体を横に抱きかかえると首を半円形の板に強引にねじ込もうとします。
「ギャー!」「イヤー!」
夫人の首が入るや否や首を固定する金属製の首輪が引っぱり下ろされ、
首が固定されるとすかさず執行人の一人が目配せした。
「ガーッ!」恐ろしい音を立ててすさまじい勢いでギロチンの刃が落ちて来て、
「ぎゃぁー!たすけ・・・」
「ドシン!」重い震動音がして、夫人の叫び声が途切れました。
彼女の身体を押さえつけていた執行人たちの顔に鮮血が飛び散り、「ガサ、ゴトン・・・」夫人の頭が向こう側の籠に落ちる音しました。
首を失った夫人の身体は猛烈な血しぶきを上げながらも、しばらくの間、小刻みに痙攣をくり返していたそう・・・。
こうして、やっとのことで夫人の首を落とすことが出来たものの、首と胴が離れる瞬間まで泣きわめき続けた地獄のようなその光景に、観衆の多くはその後の人生観をすっかり変えられてしまったと言われています。
ジャンヌ・デュ・バリーの50年の人生は閉じました。
泣き、叫び、懇願の果てに。
(頭はセーヌ川に捨てられたとも・・・)
1793年12月7日に処刑されたデュバリー夫人。
その2カ月も前じゃない10月16日には同じ場所で、同じようにマリーアントワネットが処刑されています。
5年間の宮廷生活で対立した二人、その後会うことはなかったそう。
でも約20年の後、同じギロチン台で処刑されてしまう・・・最後は同じ。
運命の皮肉というものを感じずにはいられません。
◆デュバリー夫人 その人生の考察
デュバリー夫人の人生は、その美貌と人柄の良さで切り開かれてきました。
でも、最後の最後でその性質が災いを招いてしてしまったように感じます。
人柄がいい分、何かを画策したり、人を疑ったるするというものがなかったのでしょう。
そのことが誰からも好かれた要素なのですが、彼女の人生が最後の最後で哀れで悲劇的なものになってしまったのはそこが原因だったのかもしれません・・・。
革命が起きてから一旦はイギリスへ逃げられたのだから、そのままそこにとどまっていればよかったのです。
当時50歳だったデュバリー夫人。
当時は寿命が短いので、多分50歳は今の70歳くらいのイメージに当たると思うのですが、それくらいの年齢になっていたらもう宝石や財産を取りに戻ろうなんて思わなければよかったと思ってしまうのです。(でも私も実際にそれくらいの年齢になってもジュエリーにこだわっていそうですが・・・)
そうすれば断頭台になんか送られずに済みましたし、もっと彼女らしく幸せな人生を送れたのかもしれない・・・。
皆、若い時代はそれほど深く物事を考えなくても、時に棚からぼたもちが落ちてきたり、楽しく人生を送れてしまったりします。
デュバリー夫人もその若さと美貌、そして人柄のよさを生かして、最下層の出身からルイ15世の公式愛妾にまでのし上がることができました。
ですが、だんだん年を重ねるごとに『物事を深く考える』ということが重要になってくるのではないでしょうか?
若さは必ず失われますし、美しさにも陰りが出てきます。
その時にデュバリー夫人には人柄の良さという更なる強みがありましたが、それだけではなく、女の人生には思慮深さや知恵などもしっかり備えていかなければならないのですね。
そうでないとデュバリー夫人のように、どこかの時点で人生がうまくいかなくなったり、おかしな方向に向かってしまったりするように思います。
王国の黄昏時に寵姫となったデュ・バリー夫人は哀れな宿命を背負った女性でした。
贅沢で、優雅で、人間らしい愛と快楽を求め、多くの人から愛された女性。
私も結構好きかもしれません。
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