マリーアントワネットは賭博や夜遊び、ファッション、プチトリアノンの建設など度重なる贅沢三昧の生活を送り、すっかり国民の反感を買っていました。
さらに『首飾り事件』で、裁判所から無罪の判決を受けたロアン枢機卿に腹を立てたルイ16世は、結局彼を修道院に隠居させてしまいます。
そのロアン枢機卿に対するひどい仕打ちにより、アントワネット同様にルイ16世も民衆から反感を買うようになってしまうのです。
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マリーアントワネット⑦ 「首飾り事件」~評判を落とし、革命の導火線ともなった有名な事件の内容の詳細。問題のネックレスの価格や価値、デザイン性についても画像満載で検証します。
マリーアントワネット⑪ プチトリアノン宮と王妃の村里(アモー)の全貌~トリアノンでの王妃のファッション、恋愛、贅沢と浪費。母になったアントワネットの子育てやその暮らしぶりは?
また、ルイ16世が国王になってから天候不順が続き、農作物が不作となり、
民衆の暮らしはますます貧しく苦しいものになっていきます
この記事の目次
◆ロココ文化とは?
フランス革命の詳細の前に、ここで少し歴史の背景を振り返っていきましょう
ヴェルサイユ宮殿でルイ14世の治世が終わったあたりから生まれてきた文化を 、
「ロココ」 といいます。
ロココ時代の貴族文化やパリ社交界といえば、文化的に成熟し非常に華やかなものでした。
文化的に成熟しているということは、それに比例して倫理的に退廃していることを意味します。
ロココ文化と言えば、表向きは繊細で優雅、華美を特徴とする貴族文化とされていますが、
実際にその背景にあるものは、一時の快楽をむさぼるだけの退廃的精神しか見い出せないものでした。
優美、洒脱、繊細というエレガントな面と、
その一方で退廃、倦怠というアンニュイな面が交ざり合った独特の文化は、
当時の絵画や工芸品など芸術作品を見ても、
美しいけれど、何か?砂の上の楼閣のような危うさを秘めています。
「もう先がない、とどのつまりの場所」
そういった儚さが漂う文化となっているのです。
その『儚い美しさ』こそ、フランス革命という歴史的な大きな動乱を目前にした、
貴族文化の最後の残照だったともいえます。
それは、恐ろしいほどの『退屈』の中にあって、
これから到来するかもしれない大きな絶望と崩壊を、
しばしの間だけでも忘れようとする刹那的快楽のようなものであったといわれています。
ルイ15世時代のフランスは、ベルサイユの宮廷を中心とした、
ロココ主義といわれる文化の絶頂期でした
皆さま、ロココ文化といえばマリー・アントワネットのイメージが強くないでしょうか?
実際はルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の時代がロココ文化の最盛期だったということになります
ポンパドゥール夫人
18世紀のロココ美術最盛期から末期を代表するフランスの画家ジャン・オノレ・フラゴナールは、多くの風俗画を描いたことで知られています。
彼の作品は不道徳な甘美性や官能性を感じさせる若い男女の姿が印象的です。
こちらは、そんなロココの象徴ともいえる画家フラゴナールの代表作『ぶらんこ』です。
ジャン・オノレ・フラゴナール作「ぶらんこ」1767
この画はサン=ジュリアン男爵が注文したもので、
ブランコに乗った女性を、夫と目される男性が背中を押しています。
一方で、愛人と思われる若い男性がスカートの中を覗いているといった構図です
サン=ジュリアン男爵の要望では、聖職者がブランコを押しているはずだったのですが、
フラゴナールは夫に変更しています。
(さすがに聖職者にするのは気が咎めたのかもしれません・・・。)
女性の靴が脱げている(脱ぎやすい靴は尻軽の象徴)、
クピドが口に指を立てている(秘め事の象徴)など、
性愛の小道具がちりばめられていますが、当の女性自身はあっけらかんとして、まったく性の匂いがしません。
いかがわしい内容ものでも、そこにウィットを含ませ、優雅に見せるというところがフラゴナールの真骨頂です。
ニーベルシュッツも「ブーシェが描けばいやらしく、フラゴナールが描けば美しく・・・」とと語っています。
この画を見てもわかりますように、当時のフランス貴族の社交界では、かなり放埒な男女関係が日常茶飯事に行われていたようです
ちなみに「ぶらんこ」のこちらの少女があまりに天真爛漫なために、
彼女はディズニープリンセスのアナやラプンツェルなどのモデルとなっています
「逢い引き」、「追跡」、「愛の戴冠」、「友愛」の四連作からなる「愛の成り行き」 フラゴナール
フラゴナールの作品はロココの貴族文化のイメージにピッタリじゃないでしょうか?
皆、美しく、楽しく遊んでいます・・・
彼の画の世界にはこの世の悲しみや苦しみ、貧困などの要素は一切見受けられません。
ロココ芸術の本質や様式的特徴が見事に表現されていて、
当時の貴族社会の世界観がよく伝わってきますね。
貴族は働く必要などはありませんから、基本的に何もすることがありません。
なので、することといえば社交や恋愛くらい
老いも若きも男も女も、皆社交に人生を捧げるのが日常でした。
最初にサロンを開いたのは、ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌでした。
フランスの洗練された社交界の基礎は彼女によって形作られ、
社交生活のあらゆるものに影響を及ぼしました。
ランブイエ侯爵夫人 カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ(1588-1655)
美貌で知的。
芸術的才能をそなえたランブイエ侯爵夫人のサロンでは、リシュリュー枢機卿、バキンガム公爵、コルネイユなど一流の詩人、貴族たちが集い、エスプリや洗練された趣味を競い合っていました。
イタリア語とフランス語を話す夫人は、美しい物や事を愛し、
ただヴェルギリウスを読むためだけにラテン語を学ぶような女性でした。
また、デッサンの才能もあったらしく建築家、設計図もかける頭脳を持っていました。
ランブイエ侯爵夫人と娘
邸宅の寝室には、当時用いられていた赤と金色ではなく、青色を用いていました。
当時は斬新で「青い部屋 」として有名となりました。
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ラ・パイヴァ侯爵夫人 贅沢と宝石を愛し、フランス第二帝政を崩壊させた一人の高級娼婦(クルチザンヌ)の人生。
サロンは学者や作家らを招いて知的な会話を楽しむ場。
また、会話を楽しむだけでなくそこで愛人を見つけたり(複数いることも)、
結婚相手をみつけたりと、最も重視されたのは階級などではなく、機知に富み、気の利いた会話で人を惹き付ける能力でした
サロンでの貴族たちの優越は、生き方、話し方、振舞いなどによって決定されるようになり、交際や会話、文通の官能化、快楽の追及の場となっていたのです。
当時の貴族たちの生活は同じことの繰り返しでした。
朝は11時に起き、小間使いを呼びベッドで朝食をとります
軽いお化粧をして部屋着に着替え来客と会います。
仕立て屋や美容師、宝石商、本屋など・・・
午後になるときちんとお化粧をし、ドレスを着て昼食へ出かけます。
昼から夕方までの間は愛人と密会したり、お手紙を書いたり・・・
そして、夕方になると晩餐会、舞踏会、観劇に着飾って出かけます。
マリーアントワネットの名言?の一つに「私は退屈が怖いのです」とありましたよね。
当時の貴族たちは皆、あえて現実から目を背け、
何か得体の知れない不安を感じながらも破滅型の享楽に身を投じ、
日々飲み歌い踊り狂っていたのです。
何やらバブル崩壊直前の日本を彷佛とさせる様相ですね・・・
その『何か得体の知れない不安』の現実は、財政のひっ迫にありました。
当時、アメリカではイギリスの圧政に我慢しきれず、植民地が独立戦争を起こしていました。
ルイ15世は、ライバルのイギリスに打撃を与えるために、反乱軍側に20億リーブルという巨額の援助をしたのです。
結果、それが原因で国家の財政は火の車となり、フランスは恒常的な財政難に悩まされていました。
(当時のフランスの年間収入が5億リーブルですから、ルイ15世が反乱軍に援助した額の大きさに驚きますよね。)
ルイ15世は華やかさを好み、強気の国王として知られていましたが、
先のことを考える能力や決断力に欠ける人物でもあったといわれています。
財政赤字は銀行から借金を重ねても膨らんでいくばかり・・・
やがて、王は平民に重税を課すようになるのです。
ルイ15世と愛妾デュ・バリー夫人
◆フランス革命前の庶民の暮らしは?
結局、財政難のつけを回されたのは平民たちでした。
重税の怒りは各地で暴動となり、頻発するようになっていきました。
さらに、悪い時には悪いことが重なるもので、大かんばつが財政難に追い討ちをかけます。
1787年には大洪水が起こり、続いてひょうが降りったりもしました。
これらの異常気象による酷暑と乾燥で、家畜がバタバタと死に絶え、作物も壊滅状態となってしまうのです
フランスの農民は「自耕自給」がほとんどで、地主は不在地主の貴族たちになります。
ですから、田畑を耕し収穫するものが生活の糧ですが、重税に飢饉となると一体どうなるでしょう?
農民たちの暮らしは破綻します。
飢餓で野たれ死にする者が後を絶ちませんでした。
多くの農民たちが浮浪者となって都市部に流れ込んでいきますが、仕事などあるはずもなく、都市部も失業者でだらけに。
物乞いする人々がそこら中に溢れかえっているような状況でした。
『農民の少女』 ゲインズボロー
「農民の少年」 リチャード・ウェストール
都市部の治安は劣悪となり、人々は一日の糧を得ること自体が至難の業でした。
パンの値段はとてつもなく高騰し、夜中からパン屋の前で列をつくっても買えないような状態だったといいます。
この経済恐慌をつくった張本人とも言えるルイ15世は、マリーアントワネットがフランスに嫁いでから四年目、天然痘にかかりあっけなくこの世を去ってしまいます。
こうした中でルイ16世は19歳、アントワネットは18歳の若さで共に王位につくこととなったのです
そう、彼らに残されたものは、先王ルイ15世のつくった莫大な負債による経済恐慌だけだったのです。
わずか19才のルイ16世は政治のイロハも知らないような若造でした。
その上、気が弱く鈍感、不器用で何事にも優柔不断な人物でした。
道楽と言えば、狩猟をすることと、専用の鍛治場に籠り黙々と錠前をつくることぐらい。
つまり、およそ繊細とか敏感とかを持ち合わせるタイプではなく、
『でくのぼう』のような男であったといわれています
時代の状況が最悪な上に、こういった頼りない性質の夫を持つ王妃マリーアントワネット。
彼女が遊びや贅沢をしたことは紛れもない事実ですが、歴代フランス王室を見ましても、
そのことは彼女に限ったことではなく、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人やデュバリー夫人なども皆、当たり前のように贅沢だったのです。
実際は戦争や異常気象が財政危機の主な原因だったのですが、
王妃であるアントワネットの浪費が民衆の鬱憤の槍玉にあげられ、
アントワネットはフランス中で『最も憎まれる憎悪の対象』として定着することとなってしまったのです。
◆マリーアントワネットは庶民の憎悪の対象に
そういった庶民たちの状況下でも、アントワネットは民衆の貧しく惨めな生活ぶりには見向きもせず、日々贅沢の限りを尽くし遊び暮らしてました・・・。
ある時、家臣が「民主が飢えて、今日食べるパンすらありません」と王妃に訴えたところ、
王妃は「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」
という有名な台詞(名言?)を残したと言われています。
正確にはお菓子ではなく「ブリオッシュを食べればいいじゃない」です。
ブリオッシュは普通のパンよりバターや卵を多く使った「贅沢パン」ですので、当然庶民にはとうてい手の届かないものです
こんな言葉を言われた民衆たちは、当然殺したい程の憤怒だったのでしょうね・・・。
当時のフランスでは、ブリオッシュをお菓子やケーキ、クロワッサンのような扱いをしていました。
また、ブリオッシュやクロワッサン、コーヒーを飲む習慣は、マリーアントワネットがオーストリアから伝えたものと言われています。
この言葉は実のところ、アントワネットではなくルイ16世の叔母であるビクトワール王女が言ったという事が後にわかっています。
ですが、王妃の評判を落とすために、王妃が言ったと民衆が噂を流したとされています。
確かに、毎晩国費をつかって遊び暮らし、ドレスや宝石を買いあさるという王妃の振る舞を知ってしまうと民衆からの信頼を得られるわけがないですよね。
彼女が実際に言っていないとしても、どこか信憑性があるような気がしてしまうのは自業自得としか言いようがありません
平穏な日々を過ごしていた33歳のマリー・アントワネット。
革命の足音が刻一刻と近づいてきているにもかかわらず、
それを感知する感受性そのものを持たないマリーアントワネットは言います。
「私は、退屈することが一番恐ろしいのです」
この名言?でもわかりますように、全てが満たされた人間にとって「退屈すること」こそが最大の恐怖なのです。
先ほども述べましたが18世紀の宮廷社会を生きていた貴族たちは、
この恐ろしい退屈に直面しないために、朝から晩まで舞踏会で踊り続けるしかなかったのです。
そこには華やかさはありますが、もうときめきや高揚すらなく、
華麗な衣装や生活には、それを支える何の精神も持っていません。
優雅で洗練されたロココ文化が退廃と倦怠を秘めているのは、
その裏側で「退屈」 という虚無が大きな口を開けていたからなのでしょう。
『革命』という巨大な波に飲み込まれてしまう直前まで、優雅な舞踏をやめなかったフランス貴族社会。
それはまさに、氷山に向かって突き進んで行く豪華客船タイタニック号のようなもの。
そしてこのロココ文化や貴族社会は、革命という大嵐によって一瞬のうちに吹き飛ばされてしまうのです。
巨木が切り倒されるようにではなく、シャボン玉が消えるようにあっさり儚く。
その軽さが、また何とも言えない気持ちになります・・・
◆三部会の招集
当時のフランスはアンシャン・レジームで、国民は三つの身分に大別されていました。
第一身分は聖職者、第二身分は貴族、第三身分は市民や農民となっています。
そして、第一身分と第二身分(聖職者と貴族)は特権階級とされ、
一切の課税から免除されていたのです。
つまり、5億リーブルという国の収入は、平民からのみ絞りとられていたということになります。
アンシャン・レジームの風刺画
第三身分者が聖職者と貴族を背負っています。
第三身分の平民は通常国政に関与する事はできませんが、身分別議会である三部会に代表を送り込む権利を持っていたのです。
ですが、アンシャン・レジーム下でそれまで三部会はほとんど行われていなかったのです。
王政側はこの危険な経済危機を何とかするべく「三部会」を召集することにしました。
三部会が1789年5月5日、実に170年ぶりに開かれることとなったのです。
1789年に開かれた三部会
ですが、せっかく開かれたこの三部会、
特権身分への課税を巡って最初から立ち往生してしまいます。
当時、第一身分の聖職者が約14万人、第二身分の貴族が40万人、
それに対し、第三身分の平民が2600万人ほどいました。
聖職者と貴族を合わせても54万人で、全国民の2パーセントほどしかいないにもかかわらず、平民の代表者に匹敵するほどの人数を議会に送り込んでいたのです
この三部会は多数決方式を唱える平民側と、
一身分一票を唱える聖職者・貴族側の対立に終始しました。
つまり、多数決ならば若干人数の多い平民側の主張が通ることになり、
一身分一票方式ならば、聖職者・貴族の主張が認められ、結局、特権階級への課税は否決されてしまうのです。
業を煮やした平民側は三部会を飛び出し『国民議会』に名を代え、
これを認めることを王に要求し出します。
王政側は抵抗を試み国王が会議場を閉鎖すると、
国民議会は近くにある球戯場に移って議論を行い、憲法を制定するまで解散しないことに同意します(球戯場の誓い 6月20日)
程なく聖職者の代表の大多数と47人の貴族がこれに参加します。
国王により議場を閉鎖された第三身分の議員
結果6月27日、王はこれに屈し平民の要求を認め第一身分と第二身分へ第三身分への合流を指示しました。
ですが、形だけでした。
認めはしたものの、平民の力が増大することを恐れ、密かに5万5千の軍隊をパリとヴェルサイユ周辺に集結させます。
王側は、力づくで平民主導の議会を解散させようとしていたのです。
革命前年の王妃の肖像画
エラトーに扮するマリー・アントワネット 1788年
◆ついに運命のフランス革命が勃発します
1789年7月、政治に対する民衆の不満が頂点に達し、ついにフランス革命が起こります。
一部の聖職者や貴族たちも、王政ではなく民主政治を行うべく立ち上がります。
しかし、国費は王家のために使うものだという考えのマリーアントワネットや王弟アルトワ伯は、この動きに腹を立て、独断で当時の財政改革を進める財務総監ネッケルをクビにしてしまします。
そしてルイ16世の命で、パリに国王軍隊が集結することとなります。
この動きが民衆の怒りを買い、パリでは反乱が起こりました。
そして、このことがきっかけで、王政にとって不利な状態へと一気傾いていくのです。
7月12日、王側の軍隊が動員されてこちらに向かっていることを察知した平民側は、
軍隊に対抗するために市民軍を急遽編成します。
武器がないため、武器弾薬が大量に保管されているアンヴァリッド(廃兵院)で武器を奪いましたが、弾薬と火薬が不足していました。
そして、バスティーユ牢獄に弾薬と火薬があるという噂を聞きつけバスティーユを襲撃する予定を立てます。
この老朽化したバスチーユ牢獄は、囚人はわずか7人しかおらず、
守備隊は100人程度の忘れ去られた牢獄といっていいようなものでした。
バスティーユ牢獄に群集が押し掛け、代表が受け渡しを交渉しますが、要塞司令官ロネーは拒否します。
何度かの交渉の後、午後一時半ごろ守備隊(退役兵とスイス兵)が発砲。
五時、守備隊降伏、囚人は開放され、弾薬・火薬が奪われ、司令官は首をはねられます。
フランス革命の始まり(1789年7月14日 バスティーユ襲撃)
バスティーユ襲撃は戦闘そのものはわずか一時間足らずであっけなく終わってしまいましたが、この事件を皮切りに全国の農民が領主の館を襲撃し始めます。
旧体制に対する不満が一斉に噴き出し、大恐怖が全国に拡がり、
ついにフランス革命の序曲は始まったのです。
池田理代子さんの「ベルサイユのばら」
オスカルは近衛連隊長としてマリー・アントワネットの護衛を務めていましたが、
フランス衛兵隊に異動し、フランス革命に際し民衆側に就いて闘いました。
フランス革命の勃発で、爵位を捨て一市民としてバスティーユ襲撃に参加。
その際アンドレと共に被弾し、要塞の陥落を見届けて亡くなってしまいました・・・
あぁベルばら
一旦波打った革命の嵐はもう止めることは出来ず、ものすごい勢いで情勢を刻々と変化させていき、やがてはおぞましいものとなっていくのです・・・。
ですがまだこのバスティーユ襲撃の時点では、ルイ16世もアントワネットも事の重大性を認識してはいなかったようです。
バスティーユ監獄襲撃の前日、ルイ1789年7月13日のルイ16世の日記。
ただ一言『“Rien”(何もなし)』
つまり、狩りに出かけて獲物が何もなかったことだけを記しています
7月14日当日も狩りで一日を過ごし、夕方の4時ごろ疲れて早寝していました
リアンクール公爵からバスティーユ牢獄主激の報せを受けた時、彼は目をこすりながら「それじゃ暴動じゃないか」と言ったそう。
臣下はあわてて「陛下、革命でございます」と答えたといいます。
このエピソードからも、ルイ16世には現実的な政治感覚が欠けていたことが伺えます。
◆過激化していくフランス革命
バスチーユ陥落の知らせを聞くが早いか、民衆に憎まれていると自覚している多くの貴族たちは、亡命するために国境を目指し殺到しました
それまでマリー・アントワネットの寵愛を受けていた多くの取り巻き貴族は、命こそ大事とばかりに王妃一家を見捨てて他国へと亡命してしまうのです
市民による王家への攻撃が激しさを増すにつれ、マリー・アントワネットの生活環境は、急速に崩落の一途を辿るのですが、
彼女にとって、何よりも口惜しかったのは、彼女が寵愛した女性貴族の多くが彼女を見捨て、我先にと宮殿から遁走、他国などへ亡命してしまったことだったのではないかと思います。
特にマリーアントワネットから、公私に渡って最大の恩恵を受けていたポリニャック伯爵夫人にいたっては、バスティーユ襲撃事件が勃発するやいなや、
王妃から巻上げた多額の下賜金を懐にして、真っ先にオーストリアへ亡命してしまいます
王妃が最も寵愛した女性貴族のポリニャック伯爵夫人
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マリーアントワネット⑨ ポリニャック伯夫人 アントワネットを操り一族を繁栄させたしたたかな悪女。その美貌とランバル夫人との関係、運命の最期、「ベルばら」でもおなじみの娘の生涯は?
一方で、革命後も王妃に対して最も誠実だったランバル公爵夫人
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マリーアントワネット⑧ ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ 革命後もアントワネットと共に生きた悲劇の美女。9月虐殺による凄惨な最期とは?
アントワネットも、ルイ16世に自分の祖国に近い地に旅立つことを強く訴えかけたようですが、結局それは聞き入られませんでした。
このことは、彼女がこの時点で未だに『フランスの王妃』であるということの自覚を持っていなかったという表れのようです・・・
◆ヴェルサイユ行進(10月事件・10月行進)~マリーアントワネット及び国一家ヴェルサイユからパリへ捉えられる
革命運動の中心地パレ・ロワイヤルの庭園で、ヴェルサイユ宮殿に押しかけようという女性たちの声が高まっていました。
そしてついに10月4日、パンを求めて民衆がヴェルサイユ宮殿目指して行進を始めました(ヴェルサイユ行進・10月事件・10月行進)。
翌日10月5日、プチ・トリアノンを散策していたアントワネットは、
パリから民衆が武器を持ってこちらに向っていることを知らされ、慌ててヴェルサイユ宮殿に戻ります。
これを最期に、彼女がプチ・トリアノンに戻ることはありませんでした。
そしてここからアントワネットの人生はかなり悲惨なことになっていくのです・・・
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マリーアントワネット⑪ プチトリアノン宮と王妃の村里(アモー)の全貌~トリアノンでの王妃のファッション、恋愛、贅沢と浪費。母になったアントワネットの子育てやその暮らしぶりは?
身の危険を感じ、ヴェルサイユを離れようとする国王の馬車に群集が襲いかかり、馬具をはずして馬を連れ去ります。
国王夫妻はこの時初めて、自分達が囚われの身になったことを実感させられるのです。
国民衛兵司令官ラ・ファイエット将軍が到着し、国王夫婦は一旦は安心して寝室に引き上げることができましたが、明け方6時、宮殿の寝室に民衆が侵入し、王妃の住居を目指して殺到しました。
アントワネットは叫び声を聞き、隠し通路を通ってルイ16世の部屋に間一髪で逃げ込むことができました。
側近のスイス傭兵の近衛兵5人の首を槍の先に突き刺した民衆は、激しい罵声を浴びせながら、国王一家に対してパリに行くように叫びました。
ベルサイユに押しかけた平民の女達を怖がっている様子です。
子供たちを抱いているのがマリーアントワネットでしょうか?
意を決してルイ16世がバルコニーに立つと、
『王妃をバルコニーに出せ』という声があがります。
そのバルコニーがここです。
ソフィアゴッポラ 映画 『マリー ・ アントワネット』 (2006年)
髪は乱れ、真っ青な顔をしていたマリーアントワネットですが、
子供二人を連れ、冷静に威厳を保ってバルコニーに姿を現しました。
そして、胸の前で手を組み合わせながら、ゆっくりと頭を下げました。
マリーアントワネットはバルコニーで深々とお辞儀をしたといわれています。
この時、王妃は夫であるルイ16世とかつてないほど心を一つにし、家族と自分の命を守るために不屈の精神で挑んだのです。
母として、王妃として凛とした姿を見せた王妃の美しさと気高さに、
集まった群衆は魅了され「王妃ばんざい!!」と叫んだそうです・・・。
写真画像出典:4travel.jp
ヴェルサイユ宮殿のバルコニー正面
漫画&アニメの「ベルサイユのばら」のワンシーン
毅然とした王妃の態度に民衆は心打たれ、騒ぎは一旦は治まりますが、
結局、国王は群衆の「王よ、パリへと帰れ」という要求に屈し、議会もまた王と共にパリに移ることを決めました。
10月5日午後一時、100名の議員が王を取り巻き、すべての軍隊すべての民衆がパリに向かって行進を始めました(ヴェルサイユ行進・十月事件)。
女たちは叫んだ。「わたしたちは、パン屋とパン屋の女房と小僧をつれてきたよ!」
河野健二『フランス革命小史』
この十月事件によってフランス王室は、ルイ14世がヴェルサイユに宮廷を移してから100年ぶりにパリに帰り、テュイルリー宮殿で暮らすことになります。
それに伴い、国民議会もパリに移り、革命の舞台はパリ市民の眼前に移ることになります。
次回のブログではチュイルリー宮にとらわれたアントワネットの生活をご紹介したいと思います。
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