ブログでフランス王妃マリーアントワネットの生涯をご紹介しています。
マリーアントワネットにはたくさんの取り巻きがいましたが、
その中でも特に彼女のお気に入りの美女三人目は、
エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン。
ヴィジェ・ルブランは貴族ではなく女流画家です。
こちらが、ルブランの自画像になります。
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン作
「自画像」1790/フィレンツェ・ウフィツィ美術館
ビックリ~~~~~
大変な美人じゃないですか
こちらの画像の肖像画は、エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが35歳の時の自画像になりますが、まるで少女のような可憐な美しさ・・・
ものすごく可愛らしくてキュートなお顔立ちだったのですね
これまでこちらのブログでは、さんざんマリーアントワネットの容姿についてご紹介してきましたが、彼女はマリーアントワネットより明らかに美人です。
そしてマリーアントワネットが自分より美人を妬むというより、
むしろ好んで追いかけるような性分だったことがよくわかりますよね
ルブランはロココから新古典主義の時代に活躍したフランスの美貌の女流画家で、
同じ女流画家のアンゲリカ・カウフマンとともに18世紀最も成功した女性芸術家です。
自らの容姿が極めて美しかったルブランは、
描く被写体の容貌や性格を豊かな感性でとらえ、
そこで生まれる感情的反応をキャンバスに映し出す想像力の持ち主であったといいます。
(そのためか?常に実際の容貌より美しく描いていたようです)
ルブランは1755年生まれでマリーアントワネットと同い年。
マリーアントワネットをはじめ、多くの王族や貴族のポートレートを描いたため、
通常は後期ロココに分類されますが、同時に新古典主義の影響を受けた作品も多く制作しています。
そして、彼女はマリーアントワネットに大のお気に入りで、その関係は一宮廷画家の立ち位置を超えるレベルだったといいます
こちらのブログでは数々の美女の生涯を取り上げていますが、
今のところ王妃や愛妾など貴族の女性の人生が多かったと思います。
ルブランのように仕事を持ち、歴史の中のキャリアウーマン的な女性の生涯が、一体どんなものだったのか・・・?
現代を生きる私たち女性も、とても興味がわいてきませんか
この記事の目次
◆早速ルブランの人生を追っていきましょう
エリザベート・ヴィジェ=ルブランは、1755年パリで生まれました。
父親は画家のルイ・ヴィジェ、母親は美容師で、下にエティエンヌという弟がいました。
十三歳のヴィジェ・ルブランが、三つ下の弟を描いたもの(とされている)。
女流画家の技藝は、家族に題材をえると一際光彩を放つといわれています。
弟エチエンヌは、のちに劇作家として成功したそうです。
画家の娘として生まれたルブランは6歳から5年間修道院で学びます。
この頃からすでに絵が好きで、教科書は落書きだらけ。
寮の壁にまでお絵かきをしていました
11歳で修道院を卒業すると、父親のアトリエで絵を描くようになります。
そして早くから才能を発揮し、10代から肖像画家として仕事を始めていました
また、彼女の親友のAnne-Rosalie Boquetのアトリエにも通っていました。
(ちなみにBoquetは画家にはなりませんでしたが、宮廷に仕えていたため後にフランス革命時に断頭台送りとなってしまいます・・・)
1768年、ルブランは13歳の時に父親を亡くしてしまいます。
父親に懐いていた彼女はとても落ち込んでしまいました
そんな娘を見かねた母親は、ルブランをルクセンブルグ宮へと連れて行くのです。
ルクセンブルグ宮にはルーベンスをはじめとする巨匠たちの作品が展示されています。
ルブランはそれらの作品を目にした途端「ハチ」のように絵の周りを飛び回り、技術を吸収していったといいます
ルブランは15歳の頃には大変な美人に成長しました
肖像画家としてもかなり有名になり、外を歩けば人々が付いてくるようになりました。
富裕層はこぞって彼女に肖像画を依頼し、モデルをしながら色目を使ってくる男性も後を絶ちませんでした
ルブランは肖像画家としてかなりの収入がありましたが、それでも父を失い、母親と弟を養っていくには足りませんでした。
そのため母親はルブランが15歳の時、生活のために宝石商の男と再婚します。
ところが生活が楽になると思いきや、この再婚相手はものすごいケチでルブランの売り上げもすべて取り上げてしまうような男だったのです
当時、肖像画家を職業とするためには画家の組合に入る必要がありました。
ルブランは売れっ子でしたが無許可営業だったため、差し押さえにあってしまいます。
その後、組合のサロンに彼女の作品を快く展示してくれた聖ルカ組合に申し込み、1774年10月25日19歳の時に会員となることができました。
ルブラン19歳の時の絵「詩の寓話」
その後1776年、21歳のルブランはジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚します
ピエールは画商を生業とし、彼の祖祖父はルイ14世時代のフランスアカデミーの初代会長のシャルル・ルブランでした。
夫とは不和であまり恵まれた家庭生活ではなかったようですが
ルブラン夫人となってからは王妃マリー・アントワネットのお抱え画家となったり、
画家として大いに活躍していくのです
シャルル・ルブランとその作品です。
◆ついに王妃マリーアントワネットのお抱え画家に
多くの貴族の肖像画を描いていたルブランの評判は時のフランス王妃マリー・アントワネットの元にも届きます
そして1778年、マリー・アントワネットの肖像画の依頼がはじめて入るのです
ルブランはベルサイユ宮殿に招かれます。
ルブランとアントワネットは同い年だったこともあり、二人は友情を育み、親しく交流することになっていきます
その間、1888年まで、マリー・アントワネットの肖像画を30作品以上制作しました。
ヴィジェ=ルブラン 気品あふれる王妃の肖像画。
ヴィジェ=ルブランによる王妃のデッサン。
下でご紹介するマリー・アントワネットの肖像画は、ほぼ年代順になっています。
1778年の最初の作品から、徐々に年月が経つにつれアントワネットの人間味が出てきていることにも注目です
「マリー・アントワネット正装にて宮廷で」1778年
当時の流行の先端だった雪ドレスをまとった王妃の肖像画は、
マリア・テレジアを始め、ウイーンやヴェルサイユの宮廷の女性達を魅了し、
ヴィジェ・ルブランの名は一気にヨーロッパ中に轟きました
「軽い服装のマリー・アントワネット」 1783年
ルブランは、モデルが最も優雅に優しい風情を醸し出すようにゆったりした衣装をまとわせ、深みのある優雅な王妃の肖像画をに描いています
ふわりとした白いモスリンのドレスを透けるシロンデで蝶結びにしたシンプルな衣装をまとった王妃の肖像画。
普段着姿の寛いだ王妃のイメージで、灰色の大きな駱駝の羽根の付いた麦藁帽をかぶり、王妃のシンボルの薔薇を手にしています。
この肖像画は『落ちぶれたオーストリア女』などと言われ物議を醸しだしましたが、
この画の主題がオペラ座での上演作品になったりして、身体を拘束しない軽いシュミーズ・ドレスは宮挺婦人や上流階級の婦人のあいだで大流行となりました
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン作
「薔薇をもつマリー・アントワネット」1783/ヴェルサイユ・ヴェルサイユ城美術館
あまりにも有名なこちらの作品は、王妃マリー・アントワネットのお気に入りの肖像画の一つです
薔薇の王妃といわれたマリー・アントワネットの、そのままの姿が描かれています
池田理代子さんの漫画「ベルサイユのばら」は、まさにこの肖像画の主人公マリー・アントワネットを取り巻く宮廷生活や、激動フランス革命を描いていますが、
きっと作者はこの画から大きなインスピレーションを得たのでしょうね。
もちろん画家のルブランも劇中に登場しています
池田理代子さんの「ベルサイユのばら」のルブラン。
実際よりマダムっぽい雰囲気・・・
誤って絵の具を床に落としてしまったルブラン夫人。
妊娠中で大きなお腹をしていたので
その散らばった絵の具を、マリーアントワネットがかがんで拾たというエピソードが描かれています。
これ、実話なのだそうですよ
ですが、作品中では妊娠しているルブラン夫人を見て、子供を持つことが出来ないアントワネットが寂しそうな顔をしていますが、
実際はルブランがアントワネットの宮廷画家となったのは1778年ですので、
アントワネットは長女のマリーテレーズを出産し、既に母になっているのです
ですので、妊婦のルブランを見て寂しそうにしたのはフィクションですが、
妊娠しているルブラン夫人を気遣ってに床に落ちた絵の具を拾ったのは事実となっているのです。
史実のエピソードとしては、
王妃と会うことになっていたルブランは妊娠中で、つわりが酷かったためにその約束を間違えてしまいます。
翌日、宮廷を訪れると、侍女は冷たく、
『王妃様はあなたを待っていたのですよ』
『王妃様はお散歩に行かれるので貴女とはお会いになれません』
と言うのです
ですが、ルブランは王妃様が次回会って下さるお日にちを聞こうと、王妃の部屋に向かいます。
王妃は娘のマリーテレーズに絵本を読み聞かせていました。
王妃は夫人に、
『昨日はずっと貴女を待っていたのですよ』
と言います。
『つわりが重く、昨日は動くことが出来ませんでした。次回会って頂ける日をお伺いしたいのです。そうしたらすぐに帰ります』
と、ルブランが言うと、王妃は、
『いいえ、貴女に2度足を踏ませたくないのです』
と、ルブラン夫人の近くに座るのです。
アントワネットは、せっかくやって来たルブラン夫人を日程だけ決めて帰すことが嫌だったのです
ルブラン夫人は感動し、絵筆入れをキュッと握り締めます
その時誤って絵筆が床に散らばってしまうのです。
ここからはベルばらにあるとおりです
彼女が妊婦だから、という理由で王妃自ら床にかがんで画家の落とした筆を拾うだなんて、
マリーアントワネットがいかにルブランを気に入っていたのかがわかるエピソードですね
このエピソードとっても素敵じゃないでしょうか?
マリーアントワネットは思慮深い女性じゃありませんでした。
ですが、一般的に言われているような『悪い王妃』だったとはこのエピソードを見てもやっぱり思えませんよね
当時の流行の天蓋のようなボンネットが印象的に描かれた作品です。
ルブランの描く肖像画は伝統的な肖像画様式を踏襲しつつ、その眼や口、表情は、観るものに語りかけるかのように生き生きとしています
また襟や手首のレース、頭部の巻き毛、帽子やボンネット、宝石などの繊細な描写、
ドレスや腰帯のしっとりとした生地の質感の描写にも目をうばわれます・・・
円熟したルブランの構想姿勢と技術を見ることができますね。
「マリー・アントワネットと4人の子供たち」
空のベッドには亡くなった4人目の子供を描いています。
首飾り事件で評判を落としたアントワネット。
王妃として国に4人の子供を授けたことを国民にアピールするために、子供たちと一緒の姿をルブランに依頼していました。
またこの肖像画は国民に与えるイメージのために大好きなジュエリーもつけずあえて派手さを抑えたとうい意図もありました。
ひたすら『良き母』の姿を描いてもらっていたその最中、生後間もないソフィー王女を失った王妃の嘆きは大きかったといいます。
本来は、ゆりかごの中に眠っているソフィー王女を、右端の王太子が起こさないようにと示しているはずの絵。
けれども王女の死によって、誰もいない空っぽのゆりかごにしたのです。
ちなみにマリーアントワネットのライバル?だったデュバリー夫人のこちらの肖像画もルブランの作品です。
よろしければこちらの記事もどうぞ
↓ ↓ ↓
デュバリー夫人① 『べルサイユのばら』でお馴染みのルイ15世の愛妾。その性格や過去の人生、宮廷生活、マリーアントワネットや首飾り事件にまつわる因縁とは?
デュバリー夫人② ヴェルサイユ宮殿を追放された後の人生は?元フランス王の愛妾がフランス革命に翻弄され、断頭台(ギロチン)で処刑されてしまう悲劇の最期。
1780年、ルブランには娘のジュリーが誕生しました。
その後娘をモデルに母と子の絵を描いています
「ヴィジェ=ルブラン夫人とその娘」 1786年
「ヴィジェ=ルブラン夫人とその娘」 1789年
こちらの自画像はラファエロの聖母子に倣っているということです。
こちらがお手本になったラファエロ・サンティの「椅子の聖母」
「鏡の中の自分を見るルイーズ=ルブラン」1787年
1782年、26歳のルブランは夫の仕事で、フランドル(現ベルギー)のブリュッセルとオランダを旅しています。
この旅でルブランはオランダ王ヴィレム1世をはじめ、多くの貴族たちの肖像画を手がけています。
また、ルブランはルーベンスの「麦わら帽子」を見て触発され、2枚の肖像画を描きました。
この肖像画は大変評判になり(2枚目の1787年の作品は歯が見えているということで若干問題になったようですが)、
翌年ジョセフ・ヴェルネがルブランを王立アカデミーの会員に推挙する運びとなりました。
『ポリニャック公爵夫人、ガブリエル・ヨランド・クロード・マルティヌ・ポラストロン』(1782年)
軽い生地の優雅なガリア服を着て、花飾りのついた帽子をかぶり、とっても寛いだ雰囲気
こちらは前回ブログでご紹介しましたポリニャック伯夫人の肖像画です
美女と名高く、マリーアントワネットのお気に入りだった彼女の人生はこちらの記事をご覧ください
↓ ↓ ↓
マリーアントワネット⑨ ポリニャック伯夫人 アントワネットを操り一族を繁栄させたしたたかな悪女。その美貌とランバル夫人との関係、運命の最期、「ベルばら」でもおなじみの娘の生涯は?
ルブランが描いたこの二枚目の肖像画も「chapeau de paille (麦わら帽子)」を被っていますね。
羽飾りはダチョウだそうです。
3枚目のこちらはルーベンスの「麦わら帽子」になります。
ルーベンスのシュザンヌ・フールマンの肖像画ではフェルト帽子を被っていますが、18世紀になって「麦藁帽子」とよばれたそうです。
互いの肖像画を見比べるとどちらも肩掛けを印象的に付けて、ルーベンスは胸元を、ルブランはコルセットでしめた細いウェストをいつでも隠せるよう身につけている様子に見えます。
ルーベンスの背景の光彩と陰影は、ルブラン夫人にも自然に取り入れられ、空にかかるうっすらとした雲で表現されています。
また、当時のルーベンスが描く洗練された女性のファッションは、ルブランによって受け継がれているようにも思われます。
宮廷や貴族のファッションやヘアスタイルなどの流行をうまく取り入れていますよね
ところが、保守的なアカデミーは女性を受け入れようとしません
さらに、ルブランの夫が画商だということも災いしました。
芸術をお金に変えているということに反感を持つ画家達がいたようです。
自分たちだって絵を描いてお金を稼いでいるのに・・・
まあ、他人の絵を売って利益を得ているということが嫌だったのかもしれませんね
結局、マリー・アントワネットの口利きでルイ16世がアカデミーに圧力をかけ、ルブランは女性初のアカデミー会員となることができるのです
これはやはりアントワネットらしいと言いますか、彼女がルブラン夫人の才能を見抜き、それを開花させるために便宜をはかったというよりは、同い年の可愛いお友達の頼みを聞いてしまった感じのエピソードのようです
この年、もう一人の女性画家アデライード・ラビーユ=ギアールもアカデミーに加わっています。
アデライードは、キャンパスに向かい二人の弟子が後ろで見ている作品を仕上げました。
その後ルブランとアデライードは女流画家同士、比較されがちになりました。
(ギアールも貴族の肖像画を描いていましたが、フランス革命時にはルブランと異なり革命擁護の立場をとることになります。)
1788年、ルブランはトリアノンでマリー・アントワネットの最後の肖像画を描いています。
この肖像画はサロンに展示されましたが、すでに革命の機運が高まり、サロンでは肖像画に対する批判が続出しました。
王妃がヴィジェ=ルブランのためにポーズした最後の肖像画になります。
ルイ16世はこの肖像画を大変気に入ったようでした。
◆悲劇の勃発フランス革命 マリーアントワネットとの別れ
1789年、ついにフランス革命が勃発。
革命政府によって王族が拘束されてしまいます。
一緒に絵を学んでいた幼馴染のBoquetは逃げる必要はないとルブランを説得しましたが、
ルブラン(34歳)は幼い娘と二人で農民の扮装をしてイタリアのトスカーナ大公国へと逃れました。
それは宮廷に革命派(ジャコバン党)が押し入る一日前のことでした。
結局、Boquetはギロチンにかけられ命を落としてしまいます・・・
ルブランも逃亡していなければ、間違いなく断頭台送りになっていたことでしょう。
芸術家のデリケートな感性が、彼女に身の危険を悟らせたのかもしれません。
アントワネットを見捨てて逃げたという点では前途のポリニャック伯夫人と一緒ですが、
ルブランは王妃のお気に入りとはいえあくまでお抱えの宮廷画家ですから、
貴族で宮廷の女官長だったポリニャック夫人とは立場がちがいます。
狂気のフランス革命、ギロチン犠牲者になるのを恐れて逃げるのは当たり前のことですよね・・・。
◆フランス亡命後、各国を亡命しながら画家として精力的に活動
亡命したトスカーナ大公国は、マリー・アントワネットの兄ピエトロ・レオポルト1世が統治していました
ルブランは歓迎を受け、画家の自画像をコレクションしていたレオポルトは、ルブランに自画像を依頼しています。
この時、35歳のルブランが描いた自画像が評判の下の作品です。
妹の肖像画をよく描く画家の美貌が、異例な依頼の理由かもしれません。
大公の依頼に応えて、ルブランは自身を、エレガントな正統なロココ風の美女に仕上げています
作品のルブランの筆先の肖像は娘ジュリーで、母性愛を演出しているといわれています
でもこの自画像は画布の中に何があろうと、見る者の視線はルブランの美貌に釘づけになりますよね
生涯660点もの肖像画をのこしたヴィジェ・ルブランですが、
誰よりも自分自身を美しく描いたといっても過言ではないように思います。
ラファエロが描いた女性だって、これほどまでに可憐でしょうか?
つねに実際より美しく描いていたといわれる彼女は、肖像画家としてさほど誠実ではないのかもしれません。
ですがこの自画像を見ていると、
……そうね、そうかもしれないわね。でも美しければなんでもよいでしょう?
そう言いたげな微笑みは私たち見るものを魅了してやみません・・・。
こちらはエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの弟子のマリー=ヴィクトリア・ルモワンヌの作品。「画家のアトリエ」
『自画像』(1800年)
4年後、ルブランは自画像として、弟子の作品「画家のアトリエ」から、弟子が書き写しをしているキャンパスの課題を描いているルブラン自身を描いています。
なんだかおもしろいですね
◆寓意画
亡命先ではナティエやドゥルーエ(ドルーエ)のように、神話の女神に扮した擬人化を好んで描いています。
貴婦人たちの肖像画は寓意画ばかりです。
ナクソス島のアリアドネに扮したマリア・ヨーゼファー
最愛のテーセウスをクレーテーの迷宮から脱出する手助けをしたことで知られる女神を、
マリア・ヨーゼファーへのオマージュとして描かれています。
1792年 へーベーに扮するアンナ・ピット
フローラに扮するエウドキア・イヴァノヴナ・ガリツィン 1799
◆ルブランは、ナポリではハミルトン婦人の肖像画を多く残しています。
アリアドネに扮するハミルトン夫人
エマ(ハミルトン夫人)は英国の肖像画家ジョージ・ロムニーのモデルでしたが、絶世の美女だったので、在ナポリ英国大使ハミルトン氏と結婚しました
「バッカスの巫女に扮したエマ・ハミルトン」1792年
その後ネルソン提督とのダブル不倫が世間を騒がせ、
そのエピソードが映画「美女ありき」になった美女です。
(映画ではヴィヴィアン・リーが扮しました。)
◆風俗画としてルブラン夫人の作品
「ペゼ侯爵夫人とルジェ侯爵夫人の二人の娘」
当時の流行のボンネットが印象的に描かれています。
天蓋のようなボンネットは後ろでとめているかたちになっています。
また、ルジェ侯爵夫人と思われる人物はヘアに長い幅広のリボンを編み込んでいます
「エリザヴェータ・アレクセエヴナ大公妃の肖像」
エリザベート・ヴィジェ=ルブラン筆
ルブラン作「クリュソル男爵夫人」
ルブラン夫人と娘の肖像画も風俗画に当たりますが、
宮廷や貴族のファッションやヘアスタイルなど、当時の流行を巧く取り入れていますね
ルブランが旅したそれぞれの国で、女性の顔つきやファッションが異なることも見ていて興味深いです
フランスでは面長の女性が多かったのに対し、イタリアではどんぐり眼で彫りが深い顔。
ウィーンの女性の服装は地味めで、ロシアではドレスに赤が多く使われ独特のファッションの世界観になっています。
◆各国歓迎され画家として最後まで精力的に活動したルブランの生涯とは?
ルブランはづランスを亡命以降イタリア(3年)ウィーン(1年)
ロシア帝国の首都サンクト・ペテルスブルグ(6年)
ベルリン(1年)に滞在。
(行程のほとんど馬車での移動で、夜間は宿泊の旅でした。)
貴族の顧客との付き合った経験が役立ち、訪問先の各地で多大な歓迎を受け、
王侯貴族から肖像画の依頼が絶ちませんでした。
ローマでは作品が大絶賛され、ローマの聖ルカ・アカデミーの会員に選ばれています。
◆1793年、亡命先のウィーンではにテレサの肖像画を描きました。
こちらの美しい姫君がテレサ、彼女の人生にも興味がわいてきませんか?
肖像画「テレサ・キンスキー伯爵夫人」の伯爵夫人は政略結婚で、
教会の結婚式直後に、夫となった人が愛人のもとに去ったという不運な女性です。
こんなに美しいのに・・・
また、ロシアでは特に権勢を極めたロシア帝国エカテリーナ2世女帝の愛顧を受けました
(ベテルスブルグ到着の翌日に面会が許されるほどでした。)
女帝エカテリーナ2世は、誰よりもフランスで起きた革命におののき、亡命貴族を優遇していたのです。(彼女は反革命運動を起こすフランス貴族たちに、莫大な資金を調達していたほどでした。)
女帝エカテリーナ2世の庇護のもと肖像画を描き、サンクトペテルスブルグ芸術アカデミー会員にも選ばれています。
マリーアントワネットといい、エカテリーナ2世といい、
いつの時代も女性は誰もが自分を美しく描いてくれる画家が好きなのですね・・・
こちらはエカテリーナ2世の孫(パーヴェル1世の娘)のアレクサンドラとエレナ・パヴロヴナの肖像画です。
最初ルブランは腕などを露出したポートレートを描きましたが、祖母のエカテリーナが不満を呈したため、肌の露出を少なくしています。
また、長じてから素行が悪かった娘ジュリーは、レニングラードでロシア貴族と恋に落ちます
ルブランの反対を押し切って結婚し、感情的なすれ違いから、後年パリに戻るまで親子の繋がりは切れてしまったかのような状態でした
また、遊び人(賭博好き)であった画商の夫ジャン=バティスト=ピエール・ルブランとは婚姻生活18年で離婚しています
家庭に恵まれなかったルブラン、表面的には華やかな生活も、一歩一人になれば寂しく厳しい毎日だったようですね・・・
ですが、彼女は肖像画を描く事で生きていく力を得ていたようです。
「アレキサンドラ・ゴリシャーナ姫と息子の肖像」1794年
ラファエロの「小椅子の聖母」と似た構図で、赤と青が服に使われている点も似ています。
1800年、王妃の死から7年後に、ルブランはマリー・アントワネットの娘マリー・テレーズのために「亡き後の王妃」を描いています。
質素な衣装に身を包み、穏やかな表情を浮かべるこの一人の女性は、
ルブラン夫人だけが知っていた素顔の王妃マリーアントワネットでした。
この肖像画を受け取ったマリーテレーズは、
『貴女の才能のお陰で、私は愛しい母に再び会う事が出来ました。
貴女の絵は、決して忘れる事のない、私の心の中にある母、そのものでした。』
とルブラン夫人に手紙を書いたそうです。
死を目前にしているにもかかわらず穏やかな表情の王妃、優美で優しさに溢れているこの姿こそ、マリーテレーズ同様、ルブラン夫人の心の中にあった王妃マリーアントワネットの本当の姿だったのかもしれません・・・。
1802年、革命政府の転覆後、47歳のルブランはフランスに戻りました。
13年に及ぶ国外での生活でした。
ルブランの市民権はフランスを見捨てた罪で無効となり、夫とも離婚状態になっていました。その後ルブランはフランス市民権を得て、二人は再度夫婦になります。
1802年のフランスはナポレオン・ボナパルトの天下です。
ルブランはナポレオンの妹の肖像画も手がけていますが、王族に思い入れがあるため、決して新政府と折り合いが良くはありませんでした。
1803年からはイギリスを訪れ、バイロン卿を含む多くのイギリス貴族の肖像画を描いています。
ナポレオンとの折り合いが悪くなり、1807年に再び出国、スイスに赴いて、ジュネーヴ芸術促進協会(現在のジュネーブ芸術協会)の名誉会員になりました
ナポレオンが失脚し、フランスが王政復古するとルイ18世に手厚く迎えられ、
ついにフランスを安住の地とします。
1809年、54歳のルブランはフランスのルーブシエンヌに家を購入し、その後も旺盛な創作活動を続けていきました。
1813年、夫が死亡。
1814年、戦争でプロイセン軍にルーブジェンヌの家を差し押さえられパリへと引っ越しました。
1819年、娘ジュリーが亡くなります。
1835年と1837年に回想録を出版しました。
◆こんな本もあります
この本はルブラン自らが79歳の時に出版した回想録を参考にして書かれており、アントワネットの生の声や生活が伝わってきます。
それらのエピソードは極めて新鮮です。
彼女が子供のころ母とマルリー・ル・ロア公園を散歩中に、
侍女を伴い散策中のアントワネット王妃と遭遇、
お辞儀をして道を譲った際、
『道をお譲りくださる必要はありません。散歩を続けてください』と。
一行はまるで妖精の女王の行列であった・・・。
『アントワネット王妃さまに会ったことのない人に、
優雅さと高貴さが完璧な調和をなしているその美貌をつたえることは難しい』
1842年3月30日、ルブランは87歳でパリにて没しました。
ヴィジェ=ルブランの遺骸はルーヴシエンヌへ引取られ、住み慣れた家の近くの墓地に埋葬されます。
墓碑銘は(“Ici, enfin, je repose…”ここで、ついに、私は休みます…)でした。
ルブランは生涯で660点の肖像画と200 点の風景画を残しています。
その作品はベルサイユ宮殿やルーブル美術館を始め、ウィーン美術史美術館、エルミタージュ
美術館(ロシア)、ワシントン・ナショナル・ギャラリなどに展示され、日本では東京富士美術館が3点所有しています。
若い頃からいくつもの自画像を描き、それらの美貌の自画像が評判よび、
貴婦人たちからの注文が殺到していたルブラン。
それまで女性をこれほど美化、理想化できる画家はいなかったのかもしれません。
とくにあの王妃マリー・アントワネットに重用され、
マリー・アントワネットの肖像画が代表作として多く残っています。
美人で才能を持った女流画家は周りの妬みや恨みを沢山かったといいますが、彼女の人生はマリー・アントワネットの宮廷画家として活躍している時期が最も幸せだったのではないかと思います。
また、マリー・アントワネットの短い数奇な人生とは対照的な人生を送ったといってよいでしょう。
◆最期にもう一度こちらの肖像画をご覧ください。
今回、ブログで2つの自画像を紹介しているのですが、これが同じ絵ではないことにお気づきでしょうか
下の画の中にある描きかけのキャンバスに描かれているのはルブランの娘ジュリーです。
一方上の画の中にあるキャンバスには・・・
マリーアントワネットの姿が描かれているのです。
なんとも言えない感情がこみあげてきます。
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン、
ヨーロッパを旅(亡命ですが)しながら、多くの「女性の一生」を描いてきた貴重な画家なのだと改めて痛感します。
私も描いてもらいたい。
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マリーアントワネット⑰ 夫ルイ16世の処刑と最愛の子供達との別れ~王妃から女囚280号へ。ルイ17世となった王太子ルイ・シャルルの悲劇的な最期。
マリーアントワネットの生涯⑲ 王妃の革命裁判の詳細と最後の手紙(遺書)。死刑判決の後、処刑(ギロチン)までの残りわずかな時間を王妃はどのように過ごしたのでしょうか?
マリーアントワネット⑳ 革命に散った悲劇の王妃の最期~断頭台(ギロチン)で首をはねれれ処刑されたマリー・アントワネット。その最期は『誇り高いフランス王妃』そのものでした。
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