今回はダイアナ妃の生涯⑬として、ダイアナ妃の子育てや母としての素顔についてこちらのブログでご紹介してみたいと思います。
そこには、生まれながらに特別な存在、英国王室の二人の「王子」たちを、「普通の男の子」として育てたダイアナ妃の子育方針に見る愛と信念が見て取れます。
1989年、長男のウィリアム王子が通う学校の「お母さん競争」に出場した時のダイアナ妃の姿は、日本のニュースでも放映されました。
裸足で、なりふり構わずダッシュするダイアナ妃を見て「イギリスの王室は日本より開かれているのだな」と、当時驚いた方は多いはずです。
しかし、それは決して「開かれていた」のではなく、ダイアナ妃が「開いた」新しいイギリス王室の姿だったのです。
その生涯を通して、イギリス王室に革命を起こし続けたダイアナは、やはり「子育て」に関しても、何百年も閉じられていた重い扉をその手で開いたのです。
この記事の目次
◆幼少期のチャールズ皇太子に見るイギリス王室の子育てとは?
出産後、ダイアナ妃が頑として受け入れなかった「英国王室の伝統的な子育て」とは、一体どのようなものだったのでしょう。
ダイアナ妃の夫、チャールズ皇太子の例から見てみましょう。
1948年11月14日、英国中の祝福を浴びながら誕生した皇太子チャールズは、これまでの王室の慣例に従い、しつけの厳しいヘレン・ライトボディと、一方、天使のように優しいメイベル・アンダーソンという2人の乳母の手で育てられました。
チャールズは、両親の部屋から離れた乳母たちの隣の部屋で眠り、毎朝7時に起こされ、身体を洗い、着替えをして、ミルクを飲み、1日に2度、階下の母親であるエリザベス女王の許に連れて行かれます。
そこで30分間だけ母と過ごすと、また上へ連れて行かれて眠る、これが幼少時代のチャールズの生活でした。
1952年に女王に即位した母エリザベス女王は多忙を極め、海軍に所属していた父、フィリップ殿下とは会えない時間が長く、クリスマスは祖父母のジョージ6世と、エリザベス皇太后と過ごしていました。
そして、家庭教師のキャサリン・ピープルズに読み書きと礼儀作法を習いながら、チャールズ皇太子は内気で繊細な少年へと成長して行ったのです。
エドワード朝時代さながらのこの王室の子育てのシステムは、幼稚園勤務の経験もある今どきのママ、ダイアナ妃に大きな衝撃を与えました。
◆王室の新しい家族の形
1981年にウィリアムを妊娠した時から、ダイアナ妃はたとえ王位継承者といえど、我が子を出来る限り「普通に」育てようと心に決めます。
その理由には、前に述べたような時代遅れの英国王室の子育てや、母親が離婚し、家を出て寂しい思いをした自分自身の幼少期の経験、そして、王子の父であるチャールズのような人間になってほしくないという思いもありました。
ダイアナは、チャールズが感情を上手く表現できない原因は、幼少期に両親の愛を感じられずに育ったからだと考えていたのです。
「スキンシップ」こそ、親子の絆を深めるためには最も重要だと考えていたダイアナは、これまでの慣例を破り息子を母乳で育てます。
そして自らおしめを交換し、公務よりもウィリアムと共に過ごす時間を優先しました。
ダイアナは他の英国王室メンバーとは違い、人前でも我が子にハグで愛情を表現していました。
一方、チャールズも、育児書を熟読しておしめ交換にもトライ。
ダイアナ同様に、ウィリアムを溺愛します。
実はチャールズ自身も、冷淡だった父フィリップ殿下に反感を抱いていた事もあり、子育てをまるで軍事作戦のように考えていた、フィリップ殿下のような父親にだけはなりたくなかったのです。
結婚以来すれ違いばかりの2人でしたが、子育てに関しては意見が一致し、生まれたばかりのウィリアムを同行したオーストラリア訪問は、「王室の新しい姿」として国民に好感を与えました。
◆求人広告で乳母探し
ダイアナとチャールズがいくら自分の手で子育てをしたいと願っても、立場上大変多忙な2人にとって、やはり乳母の手助けは必要でした。
ですがここで、2人の意見はやはり対立してしまいます。
チャールズは、父フィリップ殿下には反感を抱いていましたが、両親に代わって自分を育ててくれた乳母たちの事はとても愛していました。
チャールズは優しかった乳母、メイベル・アンダーソンをウィリアムのために雇おうと考えますが、これをダイアナは断じて拒否しました。
ダイアナは、母である自分をさしおいて、この乳母に子育ての主導権を握られる事だけは絶対に許せなかったのです。
そこで、なんと!
ダイアナは身分を隠して自ら求人紙に乳母募集の広告を出したのです。
そして、その時雇った人物が、後に2人の王子から「バーバ」と慕われるバーバラ・バーンズでした。
当時39歳のバーバラ・バーンズは、子供を扱う事にかけては天才的な才能を持っていましたが、当然、「王室の乳母」としての正式な教育を受けていませんでした。
そんな彼女を王子の乳母として雇ったという事も、王室の伝統には決して従わないというダイアナの強い意志の表れでした。
20歳でウィリアム王子を出産したダイアナ妃。
こうして乳母が子育てするという王室のルールを破り、自ら母乳で育てました。
ちなみに王子たちのファーストネームを選んだのも実はダイアナ妃(チャールズ皇太子はアーサーとアルバートという名前にしたいと思っていたのだそうですよ!)。
ダイアナ妃を母に持ったウィリアム王子とヘンリー王子はとても幸運だったと言えるでしょう。
妃はそれまでの世代の王室とはまったく違う考え方を子育てに対して持っていたのですから。
◆小さな暴君ウィリアム王子
幼少期のウィリアム王子の楽しみは、なんでもトイレに流す事でした。
おもちゃ、スリッパ、化粧品・・・と、次々にトイレに流してしまうウィリアム。
そして、流していない時は、常に何かを壊していました。
また、行動派だったウィリアムは、バルモラル城の緊急警報ボタンを押したり、ケンジントン宮殿の赤外線センサーを通過したりして武装警官隊を駆けつけさせます。
その度にダイアナとチャールズは平謝り・・・。
また、弟ハリーの洗礼式で、じっとしていられずに暴れまわる姿が全国ネットのテレビで放映され、番組は国民から高評価を獲得します。
そんないたずらっ子ウィリアムにも、いよいよ学校の事を考えねばならない時期がやって来ました。
それまでイギリス王室の子どもたちは、家庭教師のもとで勉強するというのが一般的。
チャールズは、自分と同じく家庭教師による教育を希望しますが、ダイアナは、幼稚園に行き他の子供達とふれあい遊びながら学ぶ事を主張します。
そして、ダイアナは目星をつけた幼稚園のパンフレットをかき集めてチャールズの説得に成功します。
1985年9月、ダイアナ妃の強い希望でケンジントン宮殿の近くにある私立幼稚園「ジェーン・マイナー・ナースリー」に入園したウィリアム王子は、イギリス王室史上初の幼稚園に通った王位継承者としても知られています。
1985年に記者のジョージ・ハケットは、「当時3歳だったウィリアム王子を普通の子どもたちと一緒に幼稚園に通わせて絵を習わせようと決めたのは、結婚前に幼稚園の先生をしていたダイアナ妃の考えが影響していました」と雑誌「ニューズウィーク」に書いています。
また、記者のカトリーヌ・エイムスは雑誌「ニューズウィーク」に当時のことをこう振り返っています。
「もちろん他の上流階級の母親たちと同じように子どもたちをナニーに任せなくてはならないこともありました。ダイアナ妃自身がそう育てられたように。
でも彼女はできるだけ自分のスケジュールを息子たちと過ごせるように合わせていました。
公務を調整するためのカレンダーには、2人の王子の毎日のスケジュールがすべて緑のインクで書き込まれていました」。
チャールズ皇太子と結婚するまで幼稚園の先生として働いていたダイアナ妃は、結婚と同時に仕事を辞め、妃としての公務に専念するようになりました。
ですが、子どもが生まれてからは公務よりも母親業を優先するようにしていました。
◆ダイアナ妃の子育てとしつけ
ダイアナとチャールズはウィリアムを特別扱いしませんでしたが、王室の取り巻きたちはそうはいきません。
やはり王子であるウィリアムをちやほやしました。
また、ウィリアム王子の初登園日には、当然、150人以上のマスコミのカメラマンが集結します。
幼稚園では、ウィリアム王子の身分は他の生徒には知らされていなかったものの、幼いウィリアムは「自分が特別な存在だ」と、うっすらと気づいていました。
そして、宮殿で「フーリガン坊や」と言う異名を取っていた暴れものウィリーは、幼稚園でもその本領を発揮。
他の生徒を叩きまくってつけられたあだ名が「パニッシャー・ウィリアム(叩き屋ウィリアム)」。
そしてウィリアムは自分の思い通りに行かない時「僕のパパはプリンスなんだぞ」、「僕が王様になったら騎士たちに先生を殺しに行かせる」などと癇癪を起こします。
体罰を好まなかったダイアナですが、そんな時はウィリアムのお尻をピシャリと叩き、相手にきちんと謝罪させました。
その後、弟のハリー王子も同じ幼稚園に入学しますが、大人しい性格だったハリーはいたって良い子。
これは先生方も、さぞホッとした事でしょうね。
◆成長する二人の王子たち
イギリスの上流階級の子供達は、5歳でプレ・プレパラトリー・スクールに入学し、8歳でプレパラトリー・スクールへ、そして、14歳で大学進学を目指すためのパブリック・スクールに進学します。
幼稚園の先生たちの努力の甲斐あって、次第に落ち着きのある子供へと成長していったウィリアムは、規律を重んじるプレ・プレパラトリー・スクール、ウェザビー校に進学。
そしてその後、ラドグローヴ・プレパラトリー・スクールに入学した頃には「叩き屋ウィリアム」の面影はすっかり消え去り、小さな紳士へと成長していました。
また、ここまでの王子たちの学校選びに関しては、ダイアナが主導権を握っていましたが、その後の教育に関してはチャールズの意見を尊重します。
なぜなら、ダイアナ自身が実は高等教育を受けていなかったからです。
また、2人の息子たちは成長するにつれ、男の子らしく性に興味を持ち始めます。
普通、息子たちに性に関する話をするのは父親の役目でしたが、チャールズがその話題を避けたため、ダイアナは悩んだ末、率直に「赤ちゃんがどこから生まれて来るか」を息子たちに説明します。
そして、両親が愛し合った結果として子供が生まれるという愛の重要性を教える反面、愛のない望まぬ妊娠をしてしまうケースなど、性行為に伴う責任感も教えました。
ダイアナは、ウィリアムが一般の少年と同じようにヌード雑誌を隠し持っていたり、スーパーモデルのシンディ・クロフォードに夢中になっている事を喜びます。
そしてなんと、ウィリアムのためにシンディ・クロフォードをケンジントン宮へ招待したのです。
しかし肝心のウィリアムは、真っ赤になって何も話せなかったのだとか・・・。
これもまた、普通の少年らしい微笑ましいエピソードですよね。
◆子供たちに見せた現実の世界
ダイアナがどれだけ普通に育てようと頑張っても、やはり、どうしても特別な存在である2人の息子たち。
ダイアナは、そんな息子たちに出来るだけ一般の人々と同じ感覚を身に付けさせようとします。
自らジーンズ姿のカジュアルなファッションで、ケンジントン宮殿近くのマクドナルドに子供たちを連れて行き、慌てる店員を遮って一般の人たちと同じ列に並ぶと、同じようにメニューを選んで宮殿へお持ち帰りします。
1993年に訪れたディズニーランドでも、一般客と共にアトラクションの列に並びました。
さらにジーンズとベースボールキャップを着せ、自転車に乗ったり、ラフティングを体験させることもありました。
王子たちとの素敵なお写真がたくさん残されていますね・・・。
そう、ダイアナ妃が王室の子育ての慣習を破ったのは、幼稚園や学校選びだけではありませんでした。
王子たちを連れてマクドナルドのハンバーガーを食べに行ったり、地下鉄やバスに乗ったりと、二人に普通の生活を体験させていたのです。
また、ダイアナは自身が熱心に行っていたボランティアやチャリティー活動など慈善活動にも子供達を同伴します。
エイズ患者やホームレスの人々と直に接し、「世界中に苦しむ人々が存在する」という現実を見て、子供達は大きなショックを受けます。
ですが、そうする事で、ダイアナは子供達にいかに自分達が恵まれた境遇にいるかという感謝の気持ちと、ロイヤルファミリーとしての自覚を持たせようとしたのです。
後の2012年、ウィリアム王子は当時のことをアメリカのテレビ局ABCのインタビューでこう振り返っています。
「母は私たちに現実の暮らしを見て欲しいと望んでいました。私はそのことをとても感謝しています。母がそうしてくれたおかげで、私たち—特に私自身—がいかに恵まれているかということを学ぶことができました。」
◆まとめ 受け継がれる母ダイアナの遺伝子
2人の息子たちに愛情の全てを注いで育ててきたダイアナでしたが、一つだけ、2人に与えてあげられなかったものがあります。
それは、1995年のクリスマスに2人が望んだプレゼント、「パパとママが昔のように仲良くしてくれること」という願いでした。
しかし今、それぞれが結婚し、家族を持ったウィリアム王子とハリー王子の姿を見れば、ダイアナ妃の子育てが間違っていなかったと誰もが思うでしょう。
ダイアナ妃が開いた思い扉から、その後継者たちの手によって、イギリス王室に変革をもたらす新たな風が、今でも吹き続けているのです。
ダイアナ妃の生涯(人生)⑭へと続きます。
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