アナスタシア⑥ロシア最後の皇帝ロマノフ家の悲劇、恐ろしい殺害の真実が明らかに。

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ロシア、ロマノフ王朝最後の皇女「アナスタシア」の人生(生涯)を追って、ブログでまとめております。

 

アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ 幼少時の写真

 

◆これまでの「アナスタシアの生涯(人生)」に関しましては、こちらのブログ記事からどうそ。

↓  ↓  ↓

 

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皇女アナスタシアの生涯① ロシア革命で処刑されたロマノフ家の四女。その容姿は美形

 

アナスタシアの生涯②ラスプーチンとの関係 幼少期の環境とロシア革命までの経緯。

 

皇女アナスタシア③ 幽閉(軟禁)生活。革命後、イヴァチェフの館での恐怖と忍耐の日々。

 

アナスタシア④皇帝ニコライ2世一家殺害(銃殺)、アナスタシア生存説の真相

 

 

ニコライ2世一家殺害の真実は長い間、謎のベールに包まれてきました。

そのため、前回のアナスタシア⑤のブログ記事でご紹介しましたとおり、「アナスタシア生存説」が一大ブームとなった当時、自身がロシア皇女アナスタシアだと名乗りを上げた偽者の女性たちが30人以上も現れたのです。

そんな中で、やはり自身がアナスタシアだというアンナ・アンダーソンという女性の証言が最も信憑性があり、多くの支持を集めたのでした。

 

この、アンナ・アンダーソンの証言の影響で、ハリウッドでの映画化やTVドキュメンタリー番組も多く制作され、彼女は生涯自身をアナスタシアだと言い続け、彼女こそがアナスタシアだと信じる支持者に支えられその生涯を閉じましたが、裁判で認められることはありませんでした。

 

アンナ・アンダーソン

 

このアンナ・アンダーソンが一定の支持者を得られた理由には、

●他人を説得する天性の才能があったこと。

●足の外反母趾や耳の形などアナスタシアとよく似た身体的特徴が見られたこと。

●ロマノフ一族の殺害命令を下したレーニンが、一家の処刑後に「ニコライ2世は処刑されたが、家族は安全な場所にいる」という嘘の公式発表をしていたこと。

●ソビエト政権が一家を処刑したという事実を固く隠蔽し続けたこと。

 

これらにより、結果、アンナ・アンダーソンの正体は、自分をアナスタシアだと思い込んだ精神病者だったのだと結論付けられました。

 

ところが、

半世紀以上もの間、世の人々を賑わせ続けたこの「アナスタシア生存説」の問題も、二十世紀末になり、ようやく解決へ向けて新たなる道を前進しはじめるのです。

そう、皇帝一家殺害に関する恐ろしい真実が明るみになるということです・・・。

 

★アナスタシア及びニコライ一家の処刑 明らかにされた恐ろしい真実

 

アンダーソンの死後もアナスタシアの死の真実は謎のベールに包まれたままでした。

ところが、1991年、皇帝一家の遺体の埋められている場所を知っているという人物が現れたのです。

 

その人物とは、地質学者だったアヴドーニン博士と彼の同僚でした。

実は、彼らはニコライ二世の処刑後、その真相を様々な資料をもとに推測し、密かに皇帝一家の遺骨を発掘していたのでした。

 

皇帝ニコライ二世一家

 

それは、遡ること10年以上・・・1979年のことでした。

ロシア革命後の当時はソビエト政権下にあり、これまでも述べてきましたとおり、秘密警察(KGB)もニコライ皇帝一家殺害の証拠隠滅に躍起になっていたという時代でした。

 

そう、党としましては、皇帝一家殺害という、ソビエト政権にとって都合の悪い事実や証拠をなんとかして歴史の闇に葬り去ろうとしていたのです。

 

では一体なぜ?党はそこまで一家の殺害を隠蔽しようとしたのでしょうか・・・?

その答えは、ニコライ2世一家に加えられたあまりにも残忍で非道な共産党の行為が、今後、「世界革命」を推進していくことに対してのマイナスのイメージになりかねないという理由からでした。

当然、一家が幽閉され、処刑現場ともなったイパチェフの館も取り潰されました。

 

「皇帝一家が逃走を試みたため、止むなく射殺した。」

これが当時の党の表向きの発表でした。

 

こういったソビエト政権が支配する状況の中、皇帝一家の死の真相を明らかにすることは、自身の身にも危険がおよぶということを懸念したアヴドーニン博士と彼の同僚は、掘り起こした皇帝一家の遺骨を再び埋め直してしまったのです。

そしてその事実に関して、その後堅く口を閉ざすことにしたのでした。

 

ですが、その後また時代は変わります。

ペレストロイカの時代が始まり世の中の状況が変わりはじめるのです。

そして、いよいよソビエト政権崩壊の兆しが現れはじめた頃、アヴドーニン博士らは、固く口を閉ざしてきたこの皇帝一家殺害に関する衝撃的な事実をマスコミに公表することに決めたのです。

 

そして、このアヴドーニン博士と彼の同僚が調査し、入手していた当時の一家殺害の目撃者の証言や文書などから、半世紀以上もの長い間、その謎により「アナスタシア生存説」など世の中を騒がせてきたこの歴史の闇に葬られてきた皇帝一家の虐殺の状況の真相や詳細が明らかにされることになったのです。

 

そこにはあの皇帝一家の殺害の日の、身の毛もよだつような恐ろしい惨事の様子が記されていたのです・・・。

 

次回の「アナスタシアの生涯⑦」のブログ記事にて、これら彼らの証言や文書に記された、事件当日の詳細をご紹介してみようと思います。

↓  ↓  ↓

 

アナスタシア⑦アナスタシアとロマノフ一家の最期、処刑の夜の死の真実。アナスタシア伝説の真相は?

 

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