皇妃エリザベートの人生④旅と浪費 ウィーンから逃げるように彷徨い続けたシシィの超豪華・贅沢な現実逃避の旅。
◆エリザベートの人生(生涯)につきましては、以下のブログ記事にて色々ご紹介しておりますので、合わせてどうそ♪
↓ ↓ ↓
皇妃エリザベートの人生①幼少期~結婚 子供時代は変わり者?最も幸せだったシシィの15年間 ルートヴィヒ2世との関係も
皇妃エリザベートの人生②結婚後の生活 姑との確執と夫とのすれ違い 子供を奪われたシシィの宮廷での悲しき日々
皇妃エリザベートの生涯③美容法 美貌への目覚め 身長172㎝体重46㎏ウエスト50㎝ 脅威のプロポーションを維持した美魔女シシィの飽くなき美への追及
こちら、皇妃エリザベートの豊かな髪に輝くのは、彼女の宝石で最も有名な「シシシュテル(エリザベートの星)」です。
これは、オペラ「魔的」を見たエリザベートが夜の女王の飾りを欲しがり、皇帝がダイヤモンドで作らせたもので、今でもウィーンに観光に行きますと、こちらのシシシュテイルのブローチやイヤリングなどのレプリカが売っていますので皆さまお馴染みなのではないでしょうか?(もちろん私もウィーンに旅行した際に購入しました♡)
自慢の髪に27個の星を煌めかせたエリザベート、このようなゴージャスなアクセサリー(宝石)の他にも、彼女はなにかとお金のかかる女性でした。
そんな彼女の浪費の中でも、今回特に注目したいのは、ウィーンの王宮を抜け出しては繰り返す贅沢な旅。
マリーアントワネットなどドレスや宝石、お城など贅沢をしたことで有名な女性は多くいますが、皇妃・皇后という立場でありながら「旅行」にこれだけの浪費を費やした女性はエリザベートだけなのではないでしょうか?
彼女は専用列車や船でギリシャの島々やイタリアを巡り、お気に入りの場所に別荘を建てました。
旅は半年しばしば半年を超えることもあり、国の威信をかけた行事などにもエリザベートは出席しないこともあり、王宮はその対応に追われたといいます。
長男ルドルフを姑ゾフィーに奪われて以来、シシィ(エリザベート)は体調を崩しがちになりました。
侍医から肺の炎症と診断され、暖かい場所での静養を勧められます。
これをきっかけにエリザベートの旅から旅への日々が始まりますが、いくら非公式の気ままな旅といってもエリザベートは帝国の皇妃。
旅に出るには専用のお召し列車の用意や多勢のお供などを引き連れた豪華な旅は、莫大な費用が必要となるのです。
前回はエリザベートの並外れた美への執着についてご紹介いたしましたが、今回のエリザベートの生涯④では、桁外れの浪費で国を混乱に陥れた、シシィのそんなスケールが大きすぎる旅と浪費についてブログでご紹介いたします。
この記事の目次
◆エリザベート(シシィ)を運んだ専用お召し列車
オーストリア皇妃であるながら、その生涯のほとんどを旅人として過ごしたエリザベート。
彼女を乗せて東へ西へとひた走ったのがエリザベート専用のお召し列車です。
エリザベートは身分を隠しての「お忍び旅行」が多かったため、2両編成の車両の外観は紋章もなくとても地味でしたが、その内部は贅を尽くしたものでした。
寝心地のいいベッドのある寝台車、洗面台付き化粧室、灯油を使用した落ち着いた照明、旅行用食器セットや洗面用具も完備され、まさに走る高級ホテルさながら。
エリザベートが旅に出る際に発注したものの目録が現在も残っているようですが、パスタやマカロニ、お茶、はちみつ、マデラワインなど・・・この発注書には実に様々なものが記載されていて、中にはエリザベートが好んで飲んだものもあり、それはチェコビールだったといいます。(ビール好きとはちょっと意外な感じがしますよね。)
このお召し列車でエリザベートが辿った旅路は、トータル数千キロにも及んだといいます。
◆エリザベートの放浪の始まり マデイラ島からコルフ島へ
ゾフィーに子供を取り上げられ、嫁姑の問題に悩まされてきたエリザベートは、やがて体調が悪いと言っては部屋に閉じこもるようになり、皇妃の勤めもあれこれ理由をつけて断ります。
1860年10月、当時23歳のエリザベートは医師の勧めで「静養」という名目で、ついにウィーンを飛び出すのです。
遠ざかっていく国、王宮、家族・・・エリザベートの長い旅の始まりです。
向かったのは、ポルトガル領の孤島マデイラ島。
その時、エリザベートは、イギリスのヴィクトリア女王が手配してくれた英王室専用ヨットを使ってマデイラ島に到着しました。
私は彼女の島での滞在中の肖像画を見たことがあるのですが、島の娘たちとマンドリンを楽しむ姿はいつものシシィのやや神経質そうな表情とは異なり、柔らかな表情が印象的でした。
静かな南国での生活で、エリザベートの体調は徐々に回復に向かいますが、日を追うに連れ、若いエリザベートは孤島での生活が退屈になり始めます。
そして翌年、エリザベートは再度英王室専用ヨットに乗り込みマデイラ島を離れました。
ですが、ウィーンへ戻ったエリザベートは、早々に咳がぶり返します。
そう、エリザベートは、今で言うところのうつ病を患っていたと言われているのです。
そのため、マデイラ島からウィーンへ帰ったたったの1ヶ月後、再び静養のためギリシャのコルフ島へと向かいました。
実は、マデイラ島からの帰りにこのギリシャのコルフ島に立ち寄った際、エリザベートはその美しさにいたく感激していたのです。
そして、コルフ島はエリザベートが好んで、その後何度も訪れる場所となるのでした。
◆カイザー・ヴィラとお気に入りの温泉地
エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの初めての出会いの場となったザルツブルグ夏の避暑地バート・イシュルにあるカイザー・ヴィラは、皇帝一家お気に入りの夏の別荘でした。
ここでエリザベートは裏庭にヨーロッパ初となるプールを作ってフィットネスに励んだり、各国大使に命じて集めさせた美女の写真コレクションを見て美の研究を重ねました。
実にエリザベートらしいエピソードだと思います。
また、バート・イシュルはドイツでも有名な温泉地で、エリザベートは温泉治療のためにもカイザー・ヴィラを度々訪れています。
自然に囲まれこじんまりとしたこの別荘は、エリザベートにとって癒しの場だったんですね。
後年、坐骨神経痛や貧血にも悩まされたエリザベートは、バート・イシュル以外にもバート・キッシンゲン、バーデンバーデン、バート・ナウハイムなど数多くの温泉地を訪れました。
◆乗馬にあけくれたイギリス旅行
乗馬を愛した父マクシミリアンの影響で、エリザベートも幼い頃から乗馬が得意でした。
結婚してからも、よく一人で遠乗りに出かけていましたが、次第に普通の乗馬では物足らなくなり、1870年代になると馬術の本場イギリスに渡って本格的に競技馬術に取り組みます。
騎手のベイ・ミドルトンをコーチにつけて多くの競技会に出場したエリザベートはヨーロッパを代表する女流騎手にまで成長し、さらにはサーカスの曲乗りまでマスターしました。
ここにも彼女の「凝り性」、「ストイック」だった性格が伺えます。
エリザベートは皇帝に頼んで名馬を何頭も購入したり、ハンガリーに専用の馬場も作っています。
また、バートイシュルの別荘には壁を埋め尽くすほどの馬の絵が。
たくさんの名馬を買い、気に入った馬がいると画家に描かせていました。
エリザベートの乗馬スタイルは、またがらずに女らしく横乗りする「アマゾネス」と呼ばれたもので、そのための専用の鞍を愛用していました。
エリザベートの乗馬姿の肖像画は何枚かあり、有名ですよね。
多くの絵画に描かれている横乗りで山や川を疾走するエリザベートのアマゾネススタイルはかっこよすぎます。
こうして約10年間、馬術に情熱を傾けたエリザベートでしたが、コーチのミドルトンが結婚した途端、パッタリと馬術を止めてしまったのです。
◆皇帝からの贈り物 ヘルメス・ヴィラとミラマール号
ウィーンに寄り付こうとしなかったエリザベートのために、フランツ・ヨーゼフはウィーン近郊に新たな別荘ヘルメス・ヴィラを建設します。
「ヘルメスヴィラ」とは、彼女が好んだギリシャ神話にちなんだ名前だといいます。
天井や壁のフレスコ画はエルンスト・クリムトたちに描かせました。
バロック風のベッドの上には、「真夏の夜の夢」の一場面を飾るなど彼女が酔いしれたお気に入りをテーマにした寝室、ダイエットに専念できる体操室、すぐに散歩に行けるようにと森へと続く庭・・・
エリザベートが快適に過ごせるよう考慮されて作られたこの別荘は、彼女に少しでもウィーンに留まって欲しいと願う夫フランツ・ヨーゼフの愛の現れでした。
皇帝フランツの愛が詰まった贅沢な城。
ですが、エリザベートの旅は終わらず、ウイーンにいるのは一年のうち数週間に過ぎませんでした。
また、フランツ・ヨーゼフは自分をほったらかしにしてすぐに行方知れずになる妻を責めるどころか、不自由のないよう充分な送金をしました。
皇帝の執務室にはいつもエリザベートの肖像画が飾られていました。
皇帝はエリザベートにたくさんの手紙を書いています。
「今年の春以来一緒に過ごした日は数日とないが、君が自分の健康のために必要と思うならば私は何も言うまい。」
そして、旅先から無事を知らせる便りが届くと、大喜びしたと言われています。
かわいい方ですね。
「私は海上を飛ぶ鴎(かもめ)」と自ら詩に詠んだほど船旅を愛したエリザベートに、フランツ・ヨーゼフは1800トンの大型ヨット、ミラマール号を購入します。
1885年、エリザベートはこのヨットで東地中海周遊の旅に出発。
ギリシャ神話「イーリアス」ゆかりの地、トロイア遺跡巡りを堪能しました。船旅には、女官、楽士、料理人、髪結いなど、総勢30人が同行。
新鮮なミルクが毎日必要だったエリザベートのため、ヤギも乗っていました。
愛するシシィのためなら出費を惜しまなかったフランツ・ヨーゼフ。
なんて素敵な旦那様。
◆コルフ島の理想郷アキレイオン
1887年、エリザベートに再びギリシャブームが訪れます。
ギリシャ学者と共に島を巡り、専属の家庭教師を雇ってギリシャ語の習得に励みました。
さらにコルフ島の別荘アキレイオンの建設に着手します。
アキレイオンは、ギリシャ学者とナポリの建築家により構想が練られ、1891年に完成します。
エリザベートお気に入りの英雄アキレウスに因んで作り上げられた壮大な館は、女神たちが見守る空中庭園を擁したまさにギリシャ神話の世界を再現した地上の楽園。
エリザベートは完成したアキレイオンで心静かに詩作に耽り、夢の世界を満喫します。
ここはエリザベートの永住の場所となるはずでした。
しかし、エリザベートの夢の結晶のようなアキレイオンですら、彼女の彷徨える心を捕える事は出来なかったのです。
1895年の滞在を最後に、エリザベートはコルフ島から去って行きます。
エリザベート57歳の時でした。
◆まとめ
現実に絶望し、希望を探して旅を続けたエリザベート。
エリザベートがお金に糸目をつけず旅を繰り返していた頃、オーストリア帝国は様々な問題に直面していました。
広大な領土のあちこちで独立運動が激化、それを鎮圧するのに軍事費が財政を圧迫していました。
そして、度重なる凶作で多くの国民が飢餓に苦しんでいました。
そういった中、宮廷の内部からもエリザベートへの桁外れの浪費ぶりに批判が高まっていきます。
「これほど国中が苦しみに耐えている時に、どうして旅行のことなどを考えられるのか」
「なぜ周囲はそれを許しているのかが理解できない。旅行費用50万グルテンを分配すれば、どれほどの飢餓が癒されたことか。涙を流したい気分だ。」
そんな声をよそにエリザベートは、本人に悪気はありませんでしたが、帝都ウィーンに居着かず、公務を放棄し、帝国が大変な時に税金を使って贅沢旅行を繰り返しました。
そんな皇妃に人々は次第に落胆し「カイゼリン ライゼリン(皇妃様は旅のお方)」という言葉が流行語となりました。
自分の感情でしか動けないエリザベートは、皇妃という立場には全く不向きな女性だったのですね。
そして、そんな皇妃を一途に愛し続ける皇帝フランツ・ヨーゼフの人気は、どんどん高まって行ったのです。
関連記事
皇妃エリザベートの人生①幼少期~結婚 子供時代は変わり者?最も幸せだったシシィの15年間 ルートヴィヒ2世との関係も
皇妃エリザベートの人生②結婚後の生活 姑との確執と夫とのすれ違い 子供を奪われたシシィの宮廷での悲しき日々
皇妃エリザベートの生涯③美容法 美貌への目覚め 身長172㎝体重46㎏ウエスト50㎝ 脅威のプロポーションを維持した美魔女シシィの飽くなき美への追及
コメント