今回のこちらの歴史の中の美女の生涯を辿るこちらのブログでは、「ポンパドゥール夫人の人生② 愛妾への道、チャンスは待つものではなく掴むもの 夢を諦めなかった小悪魔すぎるブルジョワ娘のシンデレラ・ストーリー」をお届けしたいと思います。
◆こちらのブログ記事にてポンパドゥール夫人の生涯、幼少期からのエピソードをまとめておりますのでよろしければ合わせてどうぞ♪
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ポンパドゥール夫人の生涯①幼少期 ニックネームは「レネット(王妃ちゃん)」 平民でありながら貴族のように誰からも愛された完璧過ぎる美少女!
ジャンヌ(ポンパドゥール夫人)が目指したフランス宮廷における「王の愛妾」とは、一体どういう存在だったのでしょうか。
王の正式な愛妾になるとヴェルサイユ宮殿に部屋が与えられ、優雅で贅沢な暮らしが約束されます。
当時、ルイ15世に選ばれた歴代愛妾は、ネール侯爵の三人娘マイイ伯爵夫人、ヴァンティミル伯爵夫人、シャトールー公妃という貴族の貴婦人たちでした。
ジャンヌのような平民にも王の愛妾となるチャンスが全くない訳ではありませんでしたが、その可能性はほとんどゼロ。
それが現実でした。
今回のこちらのブログ「ポンパドゥール夫人の生涯②」では、平民出身の生粋のパリっ娘が王の愛妾としてヴェルサイユ宮殿に上がるまでのサクセス・ストーリーをご紹介いたします。
この記事の目次
◆ポンパドゥール夫人の結婚「マダム・ディティオール」となる
結婚適齢期になった美しい娘ジャンヌは、意外にも花婿探しが難航していました。
その理由は彼女の両親がパリではすこぶる評判が悪かったからです。
「娘はいい子だが、あの両親と親戚にはなりたくない」というパターンですね。
そんな彼女の窮地を救ったのは、前回のブログ記事でもご紹介しました、やはり父親代わりのトゥルネームでした。
彼は、自分の甥であり仕事上では部下でもあるシャルル・ギョーム・ル・ノルマン・ディティオールに、莫大な持参金付きでジャンヌとの結婚話を承諾させます。
1741年、二人はパリで結婚式を挙げ、19歳のジャンヌは「マダム・ディティオール」となったのでした。
◆結婚生活に潜む野心
夫シャルル・ギョームは新妻ジャンヌに夢中でした。
夫の領地にあるエティオールの館はジャンヌ好みに改装され、ジャンヌ専用の舞台まで建てられます。
ジャンヌは結婚してすぐ男児を授かりますが、不幸にも1歳にもならないうちに亡くなってしまいます。
しかし1744年には長女アレクサンドリーヌが生まれました。
結婚してマダム・ディティオールとなったジャンヌは以前にも増してあちこちのサロンからひっぱりだこの人気者。
パリとエティオールの館で充実の結婚生活を送っていましたが、実は、この当時の彼女の口癖には、既に確たる野心が現れていたのです。
「けっして夫のもとを去るような真似はいたしません。ただし王様のためということになれば、もちろん話は別ですが」
◆「セナールの森の妖精」の噂
ジャンヌが暮らすエティオールの館に近いセナールの森は、偶然にもルイ15世お気に入りの猟場でもありました。
これはまさに千載一遇のチャンス。
ついにジャンヌは大胆にも行動に出るのです。
馬術に長けていたジャンヌは、勝手知ったる森の中、馬車で王を待ち伏せして偶然の出会いを演出しました。
ド派手なピンクの馬車を男顔負けの手綱捌きで御しながら、颯爽と現れるジャンヌの姿はその効果抜群。
この頃には、サロンに集まる貴族たちから「美しいエティオールの奥方」の噂は王の耳にも届いていたのでしょう。
この演出を繰り返すうちに、王がジャンヌに興味を持ち始めた事は明白でした。
その証拠に、ある日エティオールの館に王から鹿肉が贈られて来たのです。
鹿肉のプレゼントはその後も続き、ジャンヌは確かな手応えを感じていました。
◆運命の出会い 狩猟の女神とイチイの木
ついに行動を起こしたジャンヌを後押しするように、またしてもチャンスが訪れます。
王の現愛妾シャトールー公妃が急死したのです。
「王の次の愛妾は誰か?」と世間が騒然となった1745年、王太子ルイとスペイン王女の婚約を祝してヴェルサイユ宮殿で仮面舞踏会が開催されます。
鏡の間に8千本の蝋燭が灯され、フランス史上空前の規模となったこの舞踏会に、もちろんジャンヌも乗り込みました。
人混みの中「狩猟の女神ディアナ」の仮装で王を探すジャンヌ。
そこへ、庭園の「イチイの木」に扮した8人がなだれ込みます。
その中の1人が王である事は確かでしたが、なにせ同じ仮装なのでどれが王だか判別がつきません。
その時、一本のイチイがジャンヌに手を差し出しました。
そして、ジャンヌは迷った末、その手を握ります。
仮面の下から現れたのは、間違いなくルイ15世その人でした。
その時、ジャンヌは王のハートを射止めた事を確信したのです。
◆ヴェルサイユ宮殿への最初の一歩
ジャンヌと王の関係はすぐに宮廷中の知るところとなり、王の愛はこれからも続くのか?それとも一時の遊びに過ぎないのか?と、貴族たちは噂に花を咲かせました。
それからしばらく、王からジャンヌへの連絡は途絶えてしまいます。
そこはさすがに一国の王、平民ジャンヌとの今後に迷いを感じたのかもしれませんね。
とは言え、王の心はすでに決まっていました。
1745年4月、ジャンヌは王から正式にヴェルサイユへ招かれ、リシュリュー公爵を始めとする王の側近たちに紹介されます。
こうしてジャンヌは晴れて堂々とヴェルサイユへ上がる事となりました。
ただ、この時点でジャンヌに正式な愛妾の証である宮廷の部屋が与えられた訳ではありません。
そしてほとんどの貴族が平民出身のジャンヌが正式の愛妾になる事などあり得ないと思っていたのです。
野望実現まであと少し・・・!?頑張れジャンヌ。
◆幼いころの占い師の予言が現実となった日
ジャンヌと王の関係を知って、フランスで最もショックを受けた人物は、ジャンヌの夫シャルル・ギョームでした。
当然ですよね(冷や汗)。
なにせ、出張から帰って来たら、奥さんが国のトップの国王の愛人になっていたのですから、驚くな、ショックを受けるなと言う方が無理があります。
プライドを深く傷つけられた怒りと嫉妬で、夫シャルル・ギョームは妻と王に対するあらん限りの悪態をついて荒れ狂います。
しかし、叔父のトゥルネームに諭され落ち着きを取り戻すと、妻に別れの手紙を書きました。
妻と王への罵倒で始まったその手紙は、最後にはジャンヌの幸せを願う言葉で締めくくられていたといいます。
いい人ですね。
一方、ジャンヌはその手紙を王に見せました。
手紙を読んだ王は、シャルル・ギョームの立派な人柄と、もう帰る場所のないジャンヌの事を思い、ついにジャンヌにヴェルサイユに部屋を与える決断を下したのです。
果たしてジャンヌは、こうなることを計算して王にこの手紙を見せたのでしょうか・・・?
もしそうだとすれば、相当な小悪魔であり策士です。
◆ポンパドゥール侯爵夫人の誕生
ついに愛妾としてヴェルサイユの部屋を手に入れたジャンヌですが、宮廷で暮らすためには、その前に学ばなければならない事が山積していました。
ヴェルサイユ宮殿は、人々から「この国」と呼ばれるほど、独自の慣習と言葉使いに溢れていたのです。
また、平民出のジャンヌには、王族と貴族の家柄とその関係も知る必要がありました。
ジャンヌは指南役ゴントー公爵とベルニス師のもと、4ヶ月という教育期間が設けられます。
その間、オーストリア継承戦争に出征していたルイ15世は、戦地から「エティオール夫人」に宛てて80通もの手紙を書きましたが、最後には宛名が「ポンパドゥール侯爵夫人」に変わります。
中には、爵位の権利書と「青に三つの尖塔」の家紋が同封されていました。
当時、正式な愛妾となるためには、表向きは王妃の女官に任命されなければならず、それには爵位が必要だったのでした。
そのために王がポンパドゥール侯爵領を買い取ったのです。
こうして、ついに幼き日の占いから受けた予言は現実となり、ポンパドゥール侯爵夫人としての、ジャンヌの新たな人生が幕を開けたのです。
それにしてもよく当たるこの占い師・・・私も見てもらいたいものです。
まとめ
巧みな策略と演出で王のハートをがっちりと掴んだジャンヌは、生まれながらの女優のような女性ですよね。
一見、計算高い嫌な女のようにも見えてしまいますが、本来彼女の性格(気質)は町娘らしく素直で朗らかな女性だったのだそうです。
王もそんな彼女の貴族の女性とはまた違う無邪気な魅力に心惹かれたのかもしれませんね。
そんなジャンヌ「ポンパドゥール夫人」のその後の人生は、ヴェルサイユというさらに大きな舞台へと進んで行きます。
陰謀渦巻くヴェルサイユに、いよいよポンパドゥール侯爵夫人の時代が到来するのです。
ポンパドゥール夫人の生涯③へ続きます。
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