今回のこちらのブログでは「ポンパドゥール夫人の生涯③」として、ヴェルサイユ宮殿での生活についてご紹介していきたいと思います。
◆以下のブログ記事にてポンパドゥール夫人の生涯(人生)をご紹介しておりますのでよろしければ合わせてどうぞ♪
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ポンパドゥール夫人の生涯①幼少期 ニックネームは「レネット(王妃ちゃん)」 平民でありながら貴族のように誰からも愛された完璧過ぎる美少女!
ポンパドゥール夫人の生涯②国王ルイ15世の愛妾への道 チャンスは待つものではなく掴むもの!夢を諦めなかった平民出身の小悪魔ブルジョワ娘のシンデレラ・ストーリー☆
「ポンパドゥール侯爵夫人」として晴れてフランス国王ルイ15世の正式な愛妾となったジャンヌ。
「愛妾(あいしょう)」と言うと、なんとなく夜のお相手だけをするようなイメージですが、当時のフランス宮廷での愛妾の実際の仕事(役割)はそれだけに留まらず、王が行く所はどこへでも同行し、常に王が退屈しないよう楽しませるという、なかなか多岐にわたるハードなものでした。
そして、王の寵愛を失えばそれで終わりという非常に脆く危うい立場でもあったのです。
今回のこちらのブログでは、様々なサプライズで生涯国王を自分の虜にし続けた、敏腕愛妾ジャンヌ(ポンパドゥール夫人)のヴェルサイユ・ライフのエピソードなど色々お届けしてみたいと思います。
この記事の目次
◆国王ルイ15世の愛妾に ポンパドゥール夫人のヴェルサイユ宮殿デビュー
1745年9月15日、ヴェルサイユ宮殿の新しい住人となるポンパドゥール侯爵夫人の「紹介の儀」が行われました。
この時、「平民出身の新愛妾」を見物するため集まった宮廷人たちの冷たい視線の中、友人のデストラード夫人らに付き添われ、ジャンヌはまず国王ルイ15世の待つ「会議の間」へと向かいます。
王は頰を赤らめただけで手短にジャンヌを下がらせました。
内気な王は照れていたんですね。
次は最大の難関、王妃マリー・レクザンスカ、そう王の正妻への挨拶です。
敬虔なカトリック信者だった王妃は、きっと新愛妾を冷たくあしらうだろうと見物人たちは予想していましたが、それに反してこの時王妃は「セサック夫人」についてジャンヌに話しかけたのです。
王妃が「ドレスを褒める」以外の話題を出したという事は、「ジャンヌをヴェルサイユの宮廷に受け入れる」と言う意味でした。
そして、次に訪問した王太子の態度は冷ややかだったものの、ジャンヌはこれと言った粗相もなくヴェルサイユ宮殿での最初の試練「紹介の儀」を無事に乗り越えることができました。
そして、ジャンヌの失敗を期待していた見物人たちですら、最後にはその美貌と優雅さを認めざるを得なかったのです。
◆いつの時代も女性のファッション熱は共通 現代でも愛され続ける髪型など「ア・ラ・ポンパドゥール(ポンパドゥール風)」で敵をも魅了 ヴェルサイユのファッションリーダーに
新愛妾ジャンヌの登場は、何もかもが古臭くよどんでいたヴェルサイユ宮殿に新しい風を吹き込みました。
ジャンヌはパリにいた頃と変わらず楽しい時は口を開けてケラケラと笑い、弟のアベルを「フレロ(おちびちゃん)」とあだ名で呼びました。
それらは従来ヴェルサイユでは下品とされる作法でしたが、ルイ15世は大いに気に入ります。
そして、王自らパリ言葉で話したり身近な人をあだ名で呼ぶようになり、宮殿内に笑い声が響くようになったのです。
当時のヴェルサイユは、ファッションもただ豪華というだけで時代遅れ。
つまり全体的に「ダサい」ファッションでした。
そこへジャンヌがパリのニュールックを持ち込んだのです。
明るく綺麗なパステルカラーに花柄のタフタ地、四角くくり込んだ胸元とその下に何段も重なったリボン、袖口から覗くレース飾り、そして、前髪をふんわりと上げて小さくまとめる髪型(現代もこのポンパドゥールヘアは愛され続けていますね。)やポーチのような小さなハンドバック・・・
ジャンヌの身につけるものはすべて「ア・ラ・ポンパドゥール」と呼ばれ宮廷内で大流行、一躍ヴェルサイユのファッション・リーダーになります。
当初はジャンヌに敵意を露わにしていた宮廷の貴婦人たちも、気がつけば皆「ア・ラ・ポンパドゥール」になっていました。
◆ベルサイユの娯楽大臣に「小部屋劇場(テアトル・ド・プティ・キャビネ)」の成功
ヴェルサイユでの生活も順風満帆のジャンヌでしたが、彼女が最も恐れていたことは「王が退屈する」という事でした。
また、ルイ15世はハンサムで国民からも人気がありましたが、すぐに自分の殻に閉じこもるネガティブな一面も持っていいました。
そんな国王を、ジャンヌは得意のお芝居で退屈と憂鬱から遠ざけようと思い立ちます。
そして、王の私室と繋がる広間に小さな劇場を作りました。
その名も「小部屋劇場」。
そのままですね(笑)。
ですが、ジャンヌが作ったこの「小部屋劇場」は、小さいとはいえ一流のオーケストラとバレエ団を招き、役者には演技に自信のある貴族たちを選抜、そして舞台装置にも贅を尽くして背景の書き割りはジャンヌお抱え画家のブーシェが担当しました。
王に選ばれたわずか14人の招待客のもとに、画家コシャンの挿絵入りの洒落た招待状が送られますと、1747年1月17日「小部屋劇場」はモリエール作の「タルチュフ」でこけらおとしを迎えます。
自らデザインした衣装をまとって主役を演じたジャンヌは拍手喝采を浴び、王はジャンヌを「フランス一魅力的な女性」と褒め称えました。
そしてこの後、人数限定のこの劇場の招待状をめぐり、貴族たちは競ってジャンヌの許へ馳せ参じることになるのです。
こうして、ジャンヌのヴェルサイユ宮廷での権勢は、日に日に強まって行くのでした。
◆エルミタージュ城とべルヴュー城での豪華・美的生活
ジャンヌは1746年に王からクレシー城を贈られて以来、多くの城館を手に入れるこちになります。
その中には、現在のフランス大統領官邸エリゼ宮も含まれていますが、ジャンヌはこのエリゼ宮に住むのではなく家具の保管場所として使用していたというのですから、なんとも豪勢な話ですよね。
そんな数ある城館の中で、ジャンヌのお気に入りはエルミタージュとべルヴュー城でした。
エルミタージュは、城館というよりヴェルサイユ内に造られた夏の別荘で、オレンジ、レモン、オリーブ、ざくろなど、かぐかわしい香りの植物と、素朴な木製家具や木綿のカーテンに囲まれた癒しの空間でした。
こちらのブログでもマリー・アントワネットのプチ・トリアノンをご紹介しておりますが、ヴェルサイユでの「カントリー風」の走りはジャンヌで、やっぱりいつの時代も女子の憧れだったりするのですね。
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ここでジャンヌは王のためにせっせと目玉焼きを焼いたりして幸せな時を過ごしたといいます。
一方、セーヌ川を見下ろす丘の上に立つベルヴュー城は、その風景を見たジャンヌが「なんて素晴らしい眺め(ベルヴュー)なんでしょう」と言った事からその名が付けられました。
1750年に完成したこの城館は、ブーシェ、ヴァン・ロー、ピガールらの芸術家たちによって内装がほどこされ、ジャンヌの美的センスの結晶、ロココの極みとも言える一つの作品でした。
ジャンヌは庭園の花々を全て香りつきの陶器で作って王を驚かせます。
ルイ15世はヴェルサイユの堅苦しさや煩わしさを嫌い、何かにつけてはこれらの離宮を巡って気晴らしをしていました。
王にとって肩肘張らずに寛げるこのジャンヌの城館は、なくてはならない存在となったのです。
ちなににこちらのブログでもご紹介しております国王ルイ15世の最後の愛妾デュバリー夫人もは平民出身で、きさくな人柄がポンパドゥール夫人と共通する部分があるかと思います。
ルイ15世の好きな女性のタイプだったのかも知れませんし、ポンパドゥール夫人の影響がその後の彼の女性の好みにも反映されていたのかもしれませんね。
デュバリー夫人① 『べルサイユのばら』でお馴染みのルイ15世の愛妾。その性格や過去の人生、宮廷生活、マリーアントワネットや首飾り事件にまつわる因縁とは?
◆愛妾としての悩み
何もかも順風満帆に見えるジャンヌのヴェルサイユでの宮廷生活ですが、実は、王の愛妾として致命的ともいえるような大きな悩みと問題を抱えていたのです。
ジャンヌはもともと体があまり丈夫な女性ではありませんでした。
そんなジャンヌにとって王の行くところ全てに同行する仕事は激務でもあり、さらにジャンヌには愛妾としての致命的な欠陥があったのです。
それは「冷感症」という、いわゆる性的な不感症でした。
ジャンヌは王を愛していましたが、愛の営みに幸せを感じる事が出来ず、むしろ苦痛ですらあったのです。
このままでは王に飽きられてしまうと悩んだジャンヌは、冷感症に効くと言われるあらゆるものを試したといいます。
竜涎香とヴァニラのショコラ、セロリにトリュフ、ついには「エリクシール」と呼ばれる胡散臭い惚れ薬にまで手を出します。
おそらく藁にもすがる思いだったのでしょうね・・・。
それを見かねた友人のブランカス公妃はエリクシールの薬瓶を暖炉に投げ捨てて言いました。
「男と女は体の関係だけではありませんわ。真の愛情に心をそそぐべきです。何よりも習慣が、陛下のお心をしっかりと結びつける事でしょう」
1751年、ジャンヌは王宮北翼棟三階の部屋から北翼棟一階の部屋へと引っ越しました。
三階の部屋は、隠し扉で階下の王の寝室に繋がるマイイ伯爵夫人らも暮らした部屋。
そして、引っ越した一階の部屋は、かつてルイ14世の愛妾モンテスパン侯爵夫人が暮らした部屋でした。
モンテスパン夫人 太陽王ルイ14世に愛された愛妾。絶世の美女の人生は、黒ミサ、毒薬、女のバトル、没落・・・興味深いエピソードがてんこ盛りです。
この時から、王とジャンヌの関係は「愛(アムール)」から「友情(アミティエ)」へと変わったのです。
ポンパドゥール夫人の生涯③まとめ
愛妾としてヴェルサイユで栄華を極めたポンパドゥール夫人の生活は、一見、優雅で華やかに見えますが、その裏ではリシュリュー公爵、モールパ伯爵ら天敵との対決、ポワソナード派と呼ばれた反ポンパドゥール派たちからの非難、愛する母の死といった苦しみや悲しみがありました。
そんな中、常に王のために常に考え、工夫を尽くしたポンパドゥール夫人は、私利私欲のために愛妾という立場を利用したシャトールー公妃などとは全く違うタイプの女性だったのです。
だからこそ、ルイ15世の人生にとって、生涯かけがえのない存在となりことができたのでしょう。
こうして、ジャンヌこと「ポンパドゥール夫人」の舞台は、ヴェルサイユ宮殿からヨーロッパをも股にかける政治の世界へと移って行くのです。
ポンパドゥール夫人の生涯④に続きます。
ポンパドゥール夫人の生涯④「鹿の苑」の女主人 ルイ15世の愛人から友人へ …「欲しいのは陛下のお心だけ!」ライバル達とのヴェルサイユでの戦い
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