ポンパドゥール夫人の生涯⑤
今回のポンパドゥール夫人の生涯を追うこちらのブログでは、ヴェルサイユでの敵対するものたちとの戦いに勝利したのもつかの間・・・次は政治と宗教を舞台にしての彼女の戦いや功績についてご紹介していきたいと思います。
ポンパドゥール夫人ことポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソンの肖像画(1721年12月29日 – 1764年4月15日)
◆以下のブログ記事にてポンパドゥール夫人の生涯(人生)をご紹介しておりますのでよろしければ合わせてどうぞ♪
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国王ルイ15世との肉体的な関係を終えてもなおその寵愛を不動のものとすることに成功したジャンヌ(ポンパドゥール夫人)に、さらに一つの栄誉がもたらされます。
1752年10月12日、ジャンヌ(ポンパドゥール夫人)に「公爵夫人」の称号が与えられたのです。
王族に次ぐ地位の公爵夫人(公妃)となりますとその待遇は王妃並み。
宮廷で「タブレ」と呼ばれる椅子に座れるのも王族以外ではこの公妃のみでした。
ここまでの地位に上り詰めてもなお、ジャンヌ(ポンパドゥール夫人)は王の心を離さないための努力を惜しみません。
王は次第に歌や演劇への関心を失い、ジャンヌ(ポンパドゥール夫人)の活躍の舞台も、王の生活の大部分を占める「政治」と「宗教」の世界へと移って行くことになるのです。
この記事の目次
◆ポンパドゥール夫人最初の政治的功績 高等法院vsイエズス会
ルイ15世は聡明な王様でしたが、政治嫌いな一面もありました。
そんな王を助けるために、ジャンヌはルイ14世の妻で政治的にも影響力があったマントノン夫人をお手本に勉強を始めます。
健気ですね。
そんなジャンヌにとって、最初の政治的功績と言えるのが、高等法院とイエズス会の争いを解決した一件です。
1749年、二十分の一税が聖職者も課税対象となると教会側は猛反発。
しかし、どうしても課税から逃れられないと判りますとあちこちで騒動を起こし始めます。
イエズス会は異端視されているヤンセン派を攻撃し、ヤンセン派の疑いがある聖職者のもとでの告解を無効として、ヤンセン派の多い高等法院と対立します。
この対立は日に日に激化し、ついに王のもとまで待ち込まれました。
この難題を解決するため、ジャンヌは前回ブログでご紹介いたしました「ショワズール事件」以来、信頼を寄せていたスタンヴィル伯爵を大使としてローマ法王庁に送り込みます。
そしてスタンヴィル伯爵の交渉により妥協案となる法王回勅を得て、1756年、ひとまず解決に至りました。
◆ポンパドゥール夫人の次の強敵「イエズス会」
当時、税金を払いたくないために次々に問題を起こすほどパワフルだった「イエズス会」とは、あのフランシスコ・ザビエルによって日本にも布教された事で有名なカトリックの修道会です。
ベルサイユの宮廷内の敵を次々と淘汰して昇りつめていったジャンヌにとって、残るフランス国内最大の敵はこの「イエズス会」でした。
ルイ15世の妻、マリー・レクザンスカ王妃が熱心な信者であったため、以前からジャンヌを嫌っていた息子の王太子はもちろん、国王ルイ15世も基本的には信心深く、特にネガティブになった時は信仰に頼る傾向がありました。
そう、王室をバックにつけていたイエズス会は、当時のフランスで大きな力を握っていたのです。
そして、カトリックのイエズス会にとってジャンヌのような「愛妾」という立場は、決して認められない存在でした。
しかも王に多大な影響力を持つジャンヌは邪魔者でしかありません。
イエズス会は、宗教行事のたびにジャンヌを王から引き離そうと画策していたのです。
◆イエズス会への猛アピール
ジャンヌはもともとお世辞にも信仰心が厚い方とは言えませんでした。
また「百科全書」の編纂を支援した事により、イエズス会からは反宗教的な人物とも見なされていました。
物事の科学的根拠が示された「百科全書」は、当時の教会側にとっては非常に都合の悪い書物だったのです。
この大敵に、ジャンヌはまっこう勝負ではなく敵の懐に入り込む戦法で挑みます。
ジャンヌは毎日礼拝堂で長々と祈祷し、四旬節には真面目に断食して信心深さをアピール。
さらに、イエズス会のサシー神父を呼び、王との間にはもう友情しかないとおいことを伝えて聖体拝領を願い出ます。
夫がある身でありながら愛妾(公妾)として王との不義を行っていたジャンヌは、これまで聖体拝領を授かる事が出来なかったのです。
しかし、サシー神父の答えは厳しいものでした。
「あなたの回心が真実ならば、ヴェルサイユを去って夫のもとへ戻るべきです」
◆ポンパドゥール夫人の奇策 イエズス会に逆転勝利
ジャンヌはなんと、大胆にもこの
「あなたの回心が真実ならば、ヴェルサイユを去って夫のもとへ戻るべきです」
というサシー神父の助言に従い、夫のシャルル・ギョームに手紙を書きます。
これには神父も驚いたでしょうが、もっと仰天したのはやっぱり今回も夫のシャルル・ギョームでした。
10年前にジャンヌに捨てられた後、意外と早く立ち直り、今は美人の踊り子と楽しく暮らしていたシャルル・ギョームにとって、ジャンヌとの復縁など到底今さら無理な話だったのです。
シャルル・ギョームは当然、ジャンヌへ断りの返事を書きます。
しかし、これでジャンヌは「復縁を望んでいるが夫に断られた妻」という立場になったのです。
そう、かなり無理がありますが「悪いのは夫」ということになったのです。
こうして、なんとか聖体拝領を授けることができたジャンヌには、その後さらなる出世が待っていました。
1756年、正式に「王妃付き女官」に任命されたのです。
王妃は乗り気ではなかったとは言え、とにかく信心深い王妃の女官というポジションを得たからには、イエズス会はもはやジャンヌに手も足も出せません。
またもや敵対する者たちとの戦いに勝利したジャンヌ、きっとイエズス会士達は地団駄踏んだ事でしょうね。
◆七年戦争の始まり
ジャンヌがイエズス会を黙らせた頃、フランス国外では暗雲が立ち込め始めていました。
当時のフランスは北米のカナダを中心に植民地を持っていましたが、それを帝国の拡大を目指すイギリスが横取りしようと狙っていたのです。
1755年、カナダへ向けて航行中のフランス船が、イギリスの戦艦の砲撃を受け拿捕されます。そして翌1756年、イギリスがフランスに宣戦布告。
こうして、1763年まで続く「七年戦争」の火蓋が切って落とされました。
その頃のヨーロッパは、1748年に終わったオーストリア継承戦争の後、オーストリア、ロシア、イギリス、オランダ、サルディニアと、フランス、スペイン、プロイセン、スウェーデン、シチリアという二大勢力に分かれていました。
中でも、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家は、長きに渡る対立関係が続く宿敵同士だったのです。
そんな宿敵オーストリアから、フランスに「同盟関係」を持ちかける打診があります。
そして、女帝マリア・テレジア(マリー・アントワネットの母ですね)は、その同盟の交渉相手として国王秘書のコンティ公ではなくジャンヌを選びました。
これは、ジャンヌが実質的なフランスの国務書記官だとオーストリア女帝マリア・テレジアが認めたということになるのです。
◆驚きの外交革命
ベルヴュー城の夏の別荘ブランボリアンにて、ジャンヌとオーストリア大使シュターレンベルク、そしてジャンヌの信頼も厚いベルニス師による会談が秘密裏に行われました。
この時のオーストリアの目的は、オーストリア継承戦争でプロイセンに奪われたシュレジエン地方の奪還です。
フランスはプロイセンのフリードリヒ2世に不信感を抱いていたため、このオーストリアとの同盟には前向きでした。
さらにこの会談でプロイセンがイギリスに接近しているという事を知り、ますますプロイセンへの不信感を募らせます。
会談終了後、プロイセンはフランスとの同盟を更新すると言いながら、やはりイギリスとウェストミンスター条約を締結。
これにより、このオーストリアとの同盟が必須だと考えたフランスは、1756年5月1日、オーストリアと「第一次ヴェルサイユ条約」を締結し同盟を結びます。
こうして、フランス国内外を驚かせた「同盟の逆転」とも呼ばれる歴史的な外交革命が実現したのでした。
◆まとめ
歌やお芝居と言った文化や芸術面に秀でていたポンパドゥール夫人(ジャンヌ)にとって、政治は決して得意分野とは言えませんでした。
それでも、生まれ持った飲み込みの速さと決断力で自分のものにしていったジャンヌ。
オーストリア女王マリア・テレジアから認められ、フランスとオーストリアの同盟に導いたベルヴュー城での三者会談は、ジャンヌの人生最高の檜舞台だったと言えるでしょう。
果たして、ジャンヌが選んだ外交革命は、この先フランスをどのような未来に導いて行くのでしょうか。
ジャンヌの休みなき人生は、いよいよクライマックスを迎えます。
ポンパドゥール夫人⑥へ続きます。
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