ポンパドゥール夫人の生涯④「鹿の苑」の女主人 ルイ15世の愛人から友人へ …「欲しいのは陛下のお心だけ!」ライバル達とのヴェルサイユでの戦い

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フランスの美女

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ポンパドゥール夫人の生涯についてブログでお届けしております。

 

今回はポンパドゥール夫人の生涯④として、次々と出現するライバルたちとのヴェルサイユでの熾烈な戦いについてご紹介してみたいと思います。

 

ポンパドール侯爵夫人の肖像画にはよく本が描かれています。このことは、描かれている女性が「教養ある人物」だということを意味しています。

 

◆以下のブログ記事にてポンパドゥール夫人の生涯(人生)をご紹介しておりますのでよろしければ合わせてどうぞ♪

↓  ↓  ↓

 

ポンパドゥール夫人の生涯①幼少期 ニックネームは「レネット(王妃ちゃん)」 平民でありながら貴族のように誰からも愛された完璧過ぎる美少女!

 

ポンパドゥール夫人の生涯②国王ルイ15世の愛妾への道 チャンスは待つものではなく掴むもの!夢を諦めなかった平民出身の小悪魔ブルジョワ娘のシンデレラ・ストーリー☆

 

ポンパドゥール夫人の生涯③ヴェルサイユ宮殿での愛妾生活 現在も人気の髪型など「ア・ラ・ポンパドゥール(ポンパドゥール風)」ブームを巻き起こしロココのファッションリーダーに

 

 

ジャンヌ(ポンパドゥール夫人)が愛妾専用の部屋から別の部屋へ移ったというニュースは、ヴェルサイユ宮殿中を震撼させました。(30歳前後の時だったといわれています。)

 

それは、「王の愛妾(公妾)」の座が空いたという事を意味していたからです。

 

次の愛妾の座を狙い、若く美しい貴婦人たちは色めき立ってヴェルサイユ宮殿に集まりました。

また、これを機にジャンヌの失脚を狙う一派が虎視眈々とそのチャンスを窺います。

 

そう、王との肉体的な関係を終えたポンパドゥール夫人が王の心を独占し続けるためには、この先ライバルたちとの熾烈な戦いの日々が待っていたのです。

 

 

◆「鹿の苑」の女主人と美少女オ・モルフィの出現

 

ジャンヌ(ポンパドゥール夫人)とルイ15世の関係が変わり始めた頃、王のもとに一枚の肖像画が持ち込まれました。

 

そこに描かれた半裸で腹ばいに横たわる美少女の名はマリー・ルイーズ・オ・モルフィ。

靴の修繕屋の父を持つアイルランド人の娘で、肉感的な体と丸顔にえくぼがチャームポイント。

王は、この少女の魅力にたちまち夢中になったのです。

 

王はオ・モルフィを住まわせるためにヴェルサイユの街中、森のはずれに小さな家を借り上げます。

その後、その家にはオ・モルフィ以外にも数人の労働者階級の美少女たちが住むようになりました。

 

その地名にちなんで「鹿の苑(パルク・オ・セール)」と呼ばれたこの館で、王はこっそり多くの娘たちと情事を楽しんでいたのです。

 

娘たちも王とは知らず「宮廷に住むポーランド貴族」だと思っていました。

 

娘たちは妊娠すると持参金付きでそれなりの相手へと嫁いで行き、そしてまた新たな娘が入って来るというシステムです。

 

30歳を越えたころからルイ15世と寝室を共にすることがなくなったジャンヌ。

ですが、彼女はただ涙をのんで王の愛妾の座を去るというようなことはしなかったのです。

 

そう、実はこの「鹿の苑」の女主人はポンパドゥール夫人。

自らこの王が若い娘たちと遊ぶための場所の管理をかって出、自分の息のかかった女性を紹介王に紹介していたのです。

 

体が弱かったジャンヌは、王の性欲に付き合いきれなくなってきた頃から、「自分がお相手をしなくても王の寵愛を得続ける方法」を考えついたともいわれています。

彼女は町からルイ15世好みの若い娘をさらってきてはこの鹿の苑に住まわせ、国王のお相手をさせていました。

(鹿の苑の娘たちは自分がお相手をさせられている男が一体何者なのかも知らないままだったといいます。)

 

そして王の寵愛が一人に集中しないようにするために、鹿の苑の娘たちは頻繁に入れ替えられていました。

 

こうして「王の愛人」から「共犯者」という立場へ変わったジャンヌは、王が若い娘たちと遊びほうけている間に、秘書的な業務もこなし、後に政治にも介入するようになっていくのです。

 

ジャンヌと体の関係を持たなくなった時のルイ15世は40代のまだまだ男ざかり。

しかも好色でしたので、こんな隠れ家をが必要だったというのも、ある意味仕方がないですよね。

 

この結果、国王ルイ15世の私生児は60数人にも上ったといわれていますが、その後の娘たちと子供たちの処理もすべてジャンヌが担当していたようです。

 

 

◆愛娘アレクサンドリーヌの死とオ・モルフィの失脚

 

「鹿の苑」で多くの少女たちとジャンヌの管理下の下で楽しんでいた王ですが、意外にもオ・モルフィに本気になっていました。

 

1753年、王はオ・モルフィを正式な愛妾にしたいとジャンヌに切り出し、ジャンヌは仰天します。

 

悩めるジャンヌに追い打ちをかけるように悲劇が起こります。

1754年、10歳になる一人娘アレクサンドリーヌが、寄宿先の修道院で病死してしまったのです。

あまりの突然の死でしたのでジャンヌは臨終の時にも間に合いませんでした。

 

ショックで床に伏してしまったジャンヌを、ルイ15世はつきっきりで看病して励まします。

その献身的な姿は、王のジャンヌへの寵愛が今も健在で、オ・モルフィなど足元にも及ばないという事を周囲に知らしめました。

 

そして、考え浅いオ・モルフィは何気ない一言で王の寵愛を完全に失います。

「あのおばあちゃんとは、今、どういう関係なのですか?」

これ以降、オ・モルフィは王と会う事はなく、ポンパドゥール夫人のはからいで持参金付きで嫁いで行く事になりました。

 

 

◆友人であり側近のデストラード伯爵夫人の裏切り

 

デストラード伯爵夫人はジャンヌの元夫シャルル・ギョームの従姉妹にあたり、ジャンヌのヴェルサイユ入りの時から付いてきてくれた友人でした。

 

美貌にも知恵にも才能にも恵まれていたジャンヌのヴェルサイユでの唯一の欠点は「身分が低い」ということでしたので、敵も多かった中、味方を大切にしたジャンヌは、宮廷で権力を握ると、デストラード夫人にも多くの特権を与えます。

 

そして、ジャンヌの口添えで王女の女官とまでなったデストラード夫人は、宮廷で大きな影響力を持つ存在となることができました。

 

しかし、驚いた事に・・・

このデストラード夫人の方はジャンヌを友人とは全く思っていなかったのです。

 

伯爵夫人であるデストラード夫人は、自分より身分の低いジャンヌがどんどん富と栄誉を得て行く事に我慢がならず、また、ジャンヌの元夫で自身の従姉妹であるシャルル・ギョームへのひどい仕打ちを心の底では許せなかったのかも知れません。

 

デストラード夫人は、いつの間にかジャンヌについての根も葉もない噂を撒き散らすなどの嫌がらせをするようになります。

 

そんなデストラード夫人に近づいたのが、以前からジャンヌの失脚を目論んでいたダルジャンソン伯爵でした。

 

「類は友を呼ぶ」とはまさにこの事。

ジャンヌを憎んでいたこの腹黒い2人はガッチリとタッグを組んだのです。

 

 

◆デストラード夫人とダルジャンソン伯爵の陰謀「ショワズール事件」

 

デストラード夫人とダルジャンソン伯爵は、王の好色・美女好きを利用してジャンヌを追放しようと密かに企んでいました。

 

そこで2人が選んだのが、デストラード夫人の姪のショワズール伯爵夫人です。

ベルヴュー城で結婚披露宴を挙げたショワズール夫妻は、その後も陰謀を知らないジャンヌの好意によって王の取り巻きに加わります。

 

そして、デストラード夫人らの思惑通り、王は若く美しいショワズール夫人に心が傾き始めるのでした。

 

長く友人としてジャンヌの側にいたお陰で王の好みの女性についてを知り尽くしていたデストラード夫人は、きっと、ショワズール夫人が王に気に入られるべく何かと入れ知恵をしていたのでしょう。

 

ショワズール夫人は、よくこう言っていました。
「私は決して夫と別れません。もちろん王様の思し召しであれば別ですが」
どこかで聞いたセリフですよね。

 

そして、ついにこのデストラード夫とダルジャンソン伯爵、ジョワズール夫人の一味の計画が実行されます。

王がとうとうショワズール夫人と逢引きしてその欲望を満たしたのです。

 

別室で事の成り行きを待つ一同・・・

そこへショワズール夫人が興奮気味に飛び込んで来て言いました。

「ポンパドゥール侯爵夫人は追放されます!」

 

 

◆陰謀と策略 スタンヴィル伯爵の登場とデストラード夫人の追放

 

その後、ショワズール夫人が「ジャンヌを追放する」と確約した王からの手紙を受け取った事で、ジャンヌ(ポンパドゥール夫人)に敵対するデストラード夫人らは自分たちの勝利を確信します。

 

ところが、彼らには思わぬ落とし穴が待っていたのです。

ショワズール夫人の従兄弟であるスタンヴィル伯爵が、まさかの敵側のジャンヌ側についたのです。

 

スタンヴィル伯爵は反ポンパドゥール派であった一方で、ジャンヌと親しいゴントー伯爵の義弟でもありました。

 

スタンヴィル伯爵は、王の愛妾気取りの迂闊な従姉妹ショワズール夫人からいとも簡単にこの王の手紙を手に入れると、悲しみに暮れるジャンヌの部屋へと向かいます。

 

スタンヴィル伯爵から手渡された手紙を見て、涙も一気に吹き飛び、怒り心頭に発したジャンヌ。

 

手紙片手に王に雷を落とすと、王は自分の手紙を他人に見せたショワズール夫人に不信感持ち、夫ともども即刻ヴェルサイユを追放するという結末となったのです。

 

そして、デストラード夫人もそれから3年後の1755年、王女の侍女の任を解かれると同時に追放となりました。

 

一方、ジャンヌ側につきジャンヌを助けたスタンヴィル伯爵はこれを機にどんどん出世して行きます。

 

頭の切れたスタンヴィル伯爵は、愚かな従姉妹とジャンヌ、どちらに賭けるべきかを解っていたんですね。

 

 

◆ルイ15世暗殺未遂事件とダルジャンソン伯爵の執念

 

1757年1月、王は風邪をひいたヴィクトワール王女のお見舞いに行った帰り、宮殿の階段で一人の男にナイフで刺されるという事件が起こりました。

 

一時は死を覚悟した王でしたが、不幸中の幸いで凶器のナイフが小さかったため傷が浅く、一命を取り留め回復へと向かいます。

 

しかし、5歳で親族のほとんどを失ったためか?メランコリックな性格で、ネガティブな一面を持っていた王はこのことで精神的にかなり落ち込みました。

「国民は自分の死を願っている」と思い込んだのです。

 

この、国王暗殺未遂の知らせはジャンヌのもとにも届き、ジャンヌは不安に陥りました。

家族や聖職者が王の周囲を取り囲むこととなっている今は、反ポンパドゥール派にとって絶好のチャンスだったからです。

 

そして、5年前の「ショワズール事件」で追放を免れたあの男、ダルジャンソン伯爵がこの機に再び動き出したのです。

しぶといですね。

 

ダルジャンソン伯爵は、ネガティブになっている王にジャンヌを非難する民衆の声を集めて伝え、ジャンヌを追放させようと企みます。

 

そして、ダルジャンソン伯爵はジャンヌの信頼も厚いマショー大臣を使って「王がジャンヌが去る事を望んでいる」と伝えさせます。

 

友人のマショー大臣からそのことを聞かされたジャンヌは荷物をまとめ始めますが、その姿を見た友人ミルポワ夫人の放った一言が、ジャンヌにダルジャンソン伯爵との直接対決を決意させたのです。

 

「勝負はその場を離れた方が負けですわよ」

 

名言です。

 

◆ダルジャンソン伯爵との一騎打ち 王の「愛人」から「友人」へ

 

「あなたか私、どちらかが宮廷を去る事になるでしょう」

 

ついに、そうダルジャンソン伯爵に言い切ったジャンヌは、まんじりともせずに王からの連絡を待ちました。

 

ダルジャンソン伯爵は宮廷を追放されていたデストラード夫人に勝利を伝える手紙を書き送ります。

(この二人、まだ繋がっていたんですね。)

 

一方、髪をセットできるまでに元気を取り戻してきた王は、ある習慣を思い出します。

そう、それは「ジャンヌに会いに行く」という習慣でした。

 

そして、食事の席に戻った王は、別人のように明るくなっていました。

 

ジャンヌは王に、今回の暗殺未遂事件は犯人が独断で行ったという事、王は国民の敵などではないという事を説明し、王はその彼女の言葉を信じました。

 

ジャンヌは勝ったのです。

 

王からの冷ややかな追放命令を受け取ったダルジャンソン伯爵は、一人でパリを出て行きました。

そして、城門で待つデストラード夫人と共に姿を消したのです。

ポンパドゥール夫人への敵対心と悪意で繋がっていたこの二人の愛は、今、本当の愛に変わったのかもしれません。

 

◆まとめ

 

ジャンヌのヴェルサイユでの生活は、どんなに状況が変わろうとも至るところ敵だらけ。

戦いに継ぐ戦いの日々でした。

 

しかし、弟のアベルを始め、友人のミルポワ夫人やブランカス夫人、ベルニス師にケネー医師ら・・・彼女にはたくさんの味方がいたという事も事実です。

 

王の公妾としてついに昇り詰めたジャンヌでしたが、実際、ヴェルサイユで暮らしは元来体の弱い彼女にはあまりにも過酷過ぎたといわれています。

常に毒殺を恐れる環境、頭痛、喀血を伴う持病や消化不良に絶えず悩まされていました。

 

さらに当時エレガンスの頂点に達した美しいヴェルサイユ宮廷でしたが、決して暮らしやすい環境ではありませんでした。

 

華麗なるロココの宮廷には策略や陰謀が渦巻き、敵対する人々との対立や、新たな寵姫候補の登場、愛する娘の死・・・彼女にはあまりにも多くのストレスがあったのかと思われます。

 

そして、「冷感症」という国王の愛人として致命的な弱点を持つ彼女は、30歳を越えたころからルイ15世と愛妾として寝室を共にすることはなくなりました。

 

ですが、代わりに自分の息のかかった娘たちに国王のお相手をさせたりと、好色家で飽きっぽいルイ15の気持ちを繋ぎとめ、常に国王を楽しませるということに自分の生涯のすべてをかけて生きていきました。

 

ジャンヌは、王と「愛人関係」ではなく、「友情」を築くということに成功したのです。

 

そしてこの先も、ヴェルサイユの外ではカトリック教会やフランスを取り巻く欧州列強など、さらに大きな敵がジャンヌを待ち受けていました。

 

全ては王のため、ジャンヌはそれら強敵に果敢に立ち向かって行きます。

 

ポンパドゥール夫人⑤へ続きます。

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ポンパドゥール夫人の人生⑤政治と宗教 王の公妾でありながらオーストリア女帝マリア・テレジアも認めた敏腕政治家としての功績

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