マリーアントワネットはコンシェルジュリー牢獄に捕えられた後に、革命裁判にかけられました。
王妃は終始冷静に、完璧に尋問に答え続けましたが、この裁判は初めから王妃を死刑にするために行われたものでした。
そして、死刑(ギロチン)の判決をうけたのです。
コンシェルジュリー牢獄の独房で最後の力を振り絞って、遺される愛する者たちを想いながら遺書をしたためるアントワネット。
詳しくはこちらのブログ記事もどうぞ
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マリーアントワネットの生涯⑲ 王妃の革命裁判の詳細と最後の手紙(遺書)。死刑判決の後、処刑(ギロチン)までの残りわずかな時間を王妃はどのように過ごしたのでしょうか?
◆お時間のよろしい方はマリーアントワネットの生涯①からどうぞ
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マリーアントワネットの生涯① 幼少時代~ウィーンの宮廷での生活とモーツアルトからのプロポーズ♪母マリアテレジアの方が美女だった!?
マリーアントワネットが遺書を書き終えたのは、10月16日、朝4時をすこしまわった頃でした。
コンシェルジュリーで迎える最後の朝になります。
この記事の目次
処刑の朝、マリーアントワネットはどのように過ごしていたのか?
アントワネットのお世話係りのロザリーが
『奥様(マダム)今日ははなにを召し上がりますか?』
と、尋ねると、アントワネットは、
『もう私は何もいらないのですよ。全てが終わったのですから』
と答えます。
それでもロザリーが、
『マダム、かまどにブイヨン・スープとパセリをとっておきました。あなたは持ちこたえる必要があります。何か持ってこさせてください。』と言うと、
初めは断っていたマリーアントワネットでしたが、ロザリーの優しさに心が打たれたのか、
『ロザリー、私にブイヨン・スープを持ってきて』と、たくさんの涙を流し、それでは少しだけ・・・と、スプーンを手にします。
このブイヨン・スープが王妃マリー・アントワネット最期の食事となりました。
池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』でも、アントワネットがロザリーのスープを飲み、絶望の中にもいくばくか温かい気持ちになったというエピソードがありますよね。
これが有名な史実だったことを知った時は、本当に感激しました。
漫画ではコンシェルジュリー牢獄で毎日アントワネットの髪を結っていたリボン、アニメ版では、化粧紙で作った白いバラ(この独房で作ったのでしょう)をアントワネットはロザリー形見としてあげました。
そして、『時々は私を思い出してくだいね』という王妃の台詞、
もう涙が止まりません・・・
午前8時、ひどい出血が続き血の気のない青白い顔の王妃は、ロザリーの手を借りながら着替えをします。
それまでまとっていた黒い喪服を脱ぎ、白い普段着に着替えました。
そして、その中に黒いスカートをはき、黒いリボンのついた小さめの白いボンネットを被ります。
ファッション好きのお洒落だったマリー・アントワネット、
それが彼女のこの地上での最後の装いとなりました。
ちなみにこの最期の処刑の時に身に着けていたアントワネットの衣類の一部も、こちらのマリーアントワネット展でフランスから来日するようですよ。
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コンシェルジュリーで迎える最後の朝
王妃は最後の下着に着替えることすら許されず、止む終えず、血に染まった下着を壁の隙間に押し込んで、最後の旅立ちをせねばならなりませんでした・・・。
支度が整ったその時、独房のドアが開き、革命裁判長エルマンを先頭に数人が入ってきました。
エルマンが判決書を読み上げようとすると、王妃はその内容をすでに知っているから、読む必要はないときっぱりと断ります。
そして午前10時頃、処刑場へ行く準備をするために、独房に判事と死刑執行人のサンソンがやってきます。
後は処刑場の革命広場に向う支度ををするのみとなりました。
死刑執行人のアンリ・サンソンが、大きなはさみを手に王妃に近寄り、荒々しくボンネットを取ります。
王妃の髪の毛を断頭台の刃が妨げられないよう、乱暴に、そして無残にバッサリと短く切り、先ほどと同じように無造作にボンネットを頭に戻しました。
子供の頃『ベルサイユのばら』を読んだときは、女性にとって大切な髪の毛を切らるということが辱めのような意味なのだと思っていたのですが、後に髪の毛がギロチンの歯にあたって死にきれないことが無いようにとのことを知って、また別の意味で恐怖を感じました・・・。
そして、サンソンに手を出すように言われたマリーアントワネットは、うろたえ、
両手を縛られることを拒否しました。
『国王の手は縛らなかったのに、私は縛るのですか?』
と抗議したそうです。
ですが、その訴えは聞き入られませんでした。
判事に促されてサンソンはアントワネットを後ろ手に縛ります。
手を縄で縛られたマリーアントワネットは、まるで極悪犯罪人のような屈辱的な姿でした。
遺書に『恥ずべき処刑ではない』と書いていた王妃ですから、このような姿は本当に辛く屈辱的だったと思います。
にもかかわらず王妃はシャンと姿勢を正し、威厳を保ったまま監獄の外へと連行されていきました。
その日は朝から雲がかかり、小雨がぱらついていました。
投獄中、あれほど憧れていた外の空・・・
それを再び目にすることができたのは、この世との最期のお別れの直前でした。
まだ37歳(ほぼ38歳)です。
生まれた時から高貴な暮らしを約束された美しい王妃の人生が、
もう間もなく終わろうとしていました。
コンシェルジュリー牢獄から中庭に出た王妃。
死に装束は全身白。
こちらの画は2016年のマリーアントワネット展で日本に来るようですよ!
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刻一刻と迫る最期のとき
午前11時、
コンシェルジュリーの階段の先にはリヤカーのような粗末な荷台が待ち構えていました。
それを目にしたマリー・アントワネットは、一瞬、驚いた様子を見せます。
国王が革命広場に向う時は馬車でした。それなのに自分の時はよりにもよって荷車なんて・・・。
あまりの扱いに怒りすら感じたかもしれません・・・。
ですが、その表情も一瞬の内に消え、口をきつく引き閉めた王妃は無言のままその粗末な荷車に乗りました。
隣りに座ったジラール神父は、国民公会から派遣されてきた神父でしたので、アントワネットは告解さえも拒否しました。
彼女は義理の妹エリザベートにあてた手紙(遺書)の中でも、『神父を無視するつもりだ』と綴っています。
その言葉の通り、まるで神父などいないかのように、無言で凍った表情を崩すことなく、荷車の揺れに身をゆだねていました。
まだ若かりし頃・・・オーストリアからフランスに輿入れした際、はまるでシンデレラのようなガラスの馬車に乗っていたマリー・アントワネット。
なのに今は荷車に乗せられて処刑場に向かおうとしています・・・。
彼女にこんな惨い、悲しい運命が待っていたなんて、あの時は誰も考えもしなかったでしょうね。
荷車に乗る王妃マリーアントワネット
11時15分。
コンシエルジュリー牢獄の重い鉄門が開かれ、多数の兵に取り囲まれた王妃の荷車が処刑場へと出発します。
牢獄の前には多くの人々がつめかけていましたが、誰も声を発することなく、その視線は死に向うかつてのフランス王妃・マリー・アントワネットに集中します。
たった今処刑場に向かうという時、じっと正面を向き、かつての王妃という身分にふさわしい威厳のある態度を保っていたマリーアントワネット、誰もが最期まで驚くほど立派だったといいます。
コンコルド広場(処刑場)へ向うマリー・アントワネット。
かつてフランス王妃だった威厳を最後まで保っていました。
王妃の処刑が決まったことを知った民衆は、朝早くから革命広場(現在のコンコルド広場)に集まっていました。
沿道も多くの見物人で溢れ、王妃の脱出を危惧して強固な警備体制が取られました。
王妃を乗せた荷車は、左岸にあるコンシエルジュリーを後にし、セーヌ川を横切り、右岸のサノトノレ通りへと向かいます。
サントノレ通りに差し掛かかったとき、そこに押しかけていた群集は一斉に叫び声をあげました。
「オーストリア女!」
「革命バンザイ!」
「裏切り者に死を!」
髪をバッサリ切られたうえ後ろ手に縛られているこの姿で、荷車に乗せられ、群集に罵声を浴びせられながらゆっくりゆっくり処刑場へと進むというのは、マリーアントワネットにとってものすごい苦痛だったことでしょう・・・。
迫り来る処刑の恐怖もあるでしょうに、なんという残酷なことをするのでしょうか?
そうした群集の中に画家であり、革命の闘士のジャック=ルイ・ダヴィッドがいました。
ダヴィッドがその時素早く描いたマリーアントワネットのデッサンは、歴史の貴重な証人となります。
これがあのマリーアントワネット?と思いますよね。
短い髪に帽子をかぶった中年女性。
手を後ろに縛られ、不機嫌にな顔で座っている姿が素早くとらえられています。
美しかったマリー・アントワネットでしたが、革命が始まってからの度重なる苦労で、その容貌はもう見る影もありませんでした。
ダヴィッドは、そんな彼女のこれからギロチンにかけられるという哀れで惨めな最後の姿をスケッチしたのです。
当然、悪意で描かれたこのスケッチですが、
彼女は背筋をシャンと伸ばし、まるで玉座に座っているように堂々としていることが見て取れます。
そこには、もう決して美しくはないですが、元フランス王妃として立派に死ぬという覚悟を決めたアントワネットの見事な姿が写し取られています。
悪意で描かれたとはいえ、ここまで忠実に王妃の最期の姿を素早く写し取ったダヴィッドの画家としての腕はすごいと認めざるを得ないとともに、後世の私たちに歴史を忠実に伝えてくれる貴重な一枚となるのです。
アントワネットは群衆の罵倒も、まるで聞こえないかのように凜とした態度を保っていました。
処刑までの長い行程をじっと耐えながら・・・。
そして、12時を数分過ぎた頃、アントワネットを乗せた荷車がついに処刑場の革命広場(コンコルド広場)に到着しました。
写真画像出典:bluemoon05.exblog.jp
当時処刑が行われていた革命広場(現在のコンコルド広場)
写真画像出典:paris.navi.com
コンコルド広場にあるオベリスク
1795年にコンコルド広場となるが、マリーアントワネットの処刑時はルイ15世広場(革命広場)でした。
悲劇の王妃 断頭台(ギロチン)での最期の様子
マリー・アントワネットはかつて暮らしたテュイルリー宮殿の方をチラっと見ると、手を背中で縛られていたにもかかわらず、誰の手助けも受けずにひとりで荷車をおりました。
そして、目の前に設置された処刑台(ギロチン)を目にすると、再びマリー・アントワネットは毅然とした態度で、しっかりとした足取りでひとりで処刑台の木の階段をのぼっていきます。
処刑台に上がると、自ら頭を振って帽子を頭から落としました。
そして、取り乱して見苦しいところを全く見せることなく、執行人に身をゆだねるのです。
このギロチンという処刑器具は、罪人の首を木の板にはめ込み、上から三角の大きな刃を落とし、一瞬にして罪人を苦しむことなく処刑するというものです。
以前からあった拷問・処刑道具のひとつでしたが、パリ大学医学部のギヨタン博士が、
『罪人も苦しまずに死ぬ権利がある』と三部会で主張したために、革命の罪人処刑に導入されるようになったそうです。
ギヨタン博士の名前から、「ギロチン」と呼ばれるようになったのだそうですが、慈悲深い博士だったというのに・・・名誉なのか不名誉なのかよくわかりませんね?
王妃は最期まで生まれ持った品格を失っていませんでした。
背筋を伸ばし、正面を見つめる凛とした顔には、王族として生まれた人が持つ輝きすらありました。
断頭台(ギロチン)に上った所でアントワネットは姿勢を崩し、一人の処刑人の足を踏みつけてしまったというエピソードがあります。
「ごめんなさいね。ムッシュ・・・、 わざと踏んだのではありませんの。でもあなたの靴が汚れなくて良かった。」
これが、彼女の最後の言葉だったのです。
どのような状況においても最後の最後まで気高い品格と威厳を持ち続けた王妃マリー・アントワネットでした。
王妃は静かに執行人に詫び、深くため息をつくと、小雨の中はるか向こうにそびえるチュイルリー宮殿を近視の進んだ目を細め、食い入るようにじっと見入ったといいます。
それはおそらく、今まさに死を迎えようという時、かつて見慣れた光景が限り無く美しいものであったということを知った人間だけが見せる最後の表情だったのでしょう。
『もう数分後には自分は生きてこの世にいない・・・。』
そう思うと全てが愛おしく思われてくるのでしょうね。
池田理代子さんの『ベルサイユのばら』でも、最期の最期でアントワネットのこれまでの幸せだった日々が走馬灯のように流れていくシーンが描かれていましたね。
オスカル・・・フェルゼン・・・そして若く可愛らしいマリーアントワネット、美しく着飾ったかつての王妃の姿に胸を締め付けられます。
私はあのシーンが本当に好きで、何度も何度も読み返しては涙が溢れてしまします。
そこにはマリーアントワネットの華やかで美しい青春がありました。
退屈を恐れ、日々賭け事、舞踏会、お洒落、プチトリアノン・・・贅沢に遊び暮らした幸せだった日々・・・。
愛する家族と子供たち、友人、恋人・・・今この最期の時、永遠のかけがえのない時間に思われて来たのでしょうね。
この時王妃は、処刑台(ギロチン)の下から罵声を浴びせて来る民衆たちでさえ、なぜか憎む気にもなれなかったのでしょう。
ちなみに「ラ・セーヌの星」というやはりフランス革命を描いたアニメでは、マリー・アントワネットが獄中で手紙を書くシーンなど、彼女の悲劇が忠実に描かれています。
さらに最終回では、王妃がギロチンで処刑されるシーンも本当にリアルに描かれていて驚いてしまったほどです。
子供向けのアニメですが、このマリーアントワネットが断頭台(ギロチン)にかけられるシーンは圧巻で、ここだけでも見る価値はあると思います。
まず王妃が断頭台(ギロチン)に首を乗せられる様子が描かれ、
王妃の帽子が死刑執行人にはぎ取られ、投げられてしまいます。
ここで映像がマリーアントワネット自身の視点に切り替わるのです。
彼女の処刑を固唾をのんで見守る民衆をバックに、帽子が落ちていく・・・
次の瞬間、民衆が歓喜の声を上げるシーンへと続きます。
上手く断首の瞬間のシーンを避けたのですが、かえってそれが王妃に感情移入してより怖いのですよ・・・。
また、民衆の熱狂と狂気の表情もリアルに描かれていて、本当に背筋の凍るほど恐ろしいシーンでした。
あの民衆の狂気に満ちた表情は現代のアニメにはもう描けないでしょうね・・・。
マリーアントワネットやフランス革命に興味のある人にはお勧めです。
王妃は目を閉じると静かに呟きました。
「さようなら、我が子供達。私はあなた方のお父様のところに行きます。」
異郷の地、フランスで必死に生きぬいたマリーの最期の言葉となりました。
それを聞いた処刑人のアンリ・サンソンは思わず涙したといいます。
王党派だったサンソンは、決して許されることではありませんでしたが、王妃の冥福を祈って心の中で十字を切りました。
まもなく、王妃の体は処刑人たちに抱え上げられ、断頭台の首かせに首が突き出るように投げ入れられました。
頭上には不気味に輝くギロチンの刃があります。
「早くその淫売女の首を落としてしまえ!」
民衆から猛烈な野次が飛びました。
最後の最後まで王妃マリーアントワネットは民衆にとって憎悪の対象であったのです。
王妃は目を閉じたまま激しく唇を動かし、何かの祈りの言葉を懸命に捧げていたといいます。
準備をするのに約4分かかり、
そしてすべてが一瞬、何もかも凍りついたように動きを止めました。
次の瞬間、断頭台の刃が落下してくるガラガラという鈍い音が静寂を破ります。
1793年10月16日午後12時15分、刑が執行されました。
重いギロチンの刃が王妃の白い首に落ちたのです。
ほんの一瞬のいまわの際にマリーアントワネットの脳裏をかすめたのは何だったのでしょうか・・・。
執行人のアンリ・サンソンが落とされた王妃の首を高く掲げると、それと同時に共和国バンザイの声が四方から舞い上がり、秋の空に高くのぼっていきました。
王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑
胴体から吹き出す血を鍋で受けているのがなんとも生々しいです・・・。
当時の処刑は一種の公開スペクタクルショーのようなものでした。
現代を生きる私たちには理解しがたいことですが、罪人が首を落とされる様を熱狂して見物するということは、古代ローマからよくあることなのだそうです。
通常、ギロチンで処刑の際には顔を下に向けますが、マリーアントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにしという噂が当時流れたそうですが、これは事実ではありません。
ですが、このような噂が流れるほど王妃に対する民衆の憎悪が激しかったということがこの事からもわかりますね。
処刑後に残された靴
断頭台(ギロチン)の階段を一歩一歩のぼっっていった王妃。
実はその時、彼女はつまづいて片方の靴を落としていたのです。
その靴をある人物が秘かに拾い、隠し持っていました。
その靴をロジェ・フランソワ・バルナベ・ド・ゲルノン=ランヴィル伯爵が買い取り、彼の子孫が代々保管していました。
1946年にカン市のミュージアムに王妃の靴を寄贈し、現在はそこに保管されています。
その靴は、ボルドー色の革靴で低いヒール、靴の先にはベージュの布のプリーツ飾りがあります。
サイズは王妃の他の靴と同じ36.5だそうです。
以前もブログでご紹介しましたが、マリーアントワネットはリボンやプリーツ飾りのあるフェミニンな靴を好んでいましたよね。
よろしければこちらのブログ記事でも彼女の靴やファッションをご紹介しています
↓ ↓ ↓
マリーアントワネット④ こだわりのお洒落~ドレスやファッション、宝石、小物類など。性格や人柄なども画像満載で徹底分析☆
この靴こそマリーアントワネットに最期まで伴っていた貴重な形見ということになります。
こちらがマリー・アントワネットが処刑場で落としたとされている靴です。
靴を残したまま運ばれた王妃の遺体は、埋葬命令がなかなか出なかったために半月もの間お墓に入ることができなかったといわれています。
革命広場のもっとも近くにあったマドレーヌ寺院に、足の間に頭を置かれた状態でうち捨てられていたそうです。
そこは同年の1月21日に処刑された夫であるルイ16世が永遠の眠りについていました。
それから22年後、ナポレオン1世の命令によりルイ16世と共にマドレーヌ寺院からサン・ドニ大聖堂に移されたそうです。
サン=ドニ大聖堂の慰霊碑
革命の嵐の中を彷徨ったルイ16世とマリー・アントワネット。
現在はサン・ドニ教会で静かな眠りについています。
こうして悲劇のヒロイン、マリーアントワネットの生涯は幕を下ろしました。
運命の6月20日 フェルセン、暴徒に襲われて虐殺
王妃の死後、マリーアントワネットを処刑した革命派の民衆に対する憎悪がフェルセンの心に深く刻み込まれることとなり、そのことが彼の近い将来の悲惨な死を早めることになります。
彼はフランス民衆だけでなく、スウェーデン民衆をも信頼することが出来ず、あまつさえ、民衆に対して強圧的な態度を示したことから、民衆から強い反感を買っていました。
そして、彼に対して強い反感を抱いていた民衆に襲われ、殴る蹴るの凄惨な暴行を受けるのです。
軍服を剥ぎ取られて民衆のリンチを受ける全裸のフェルセン元帥
その現場となった葬儀会場には多くの近衛連隊兵士が詰めていたにも拘わらず、民衆の凄惨なリンチを受けるフェルセンを本気で救出しようとする兵士は一人も居なかったそうです・・・。
騒動が静まると、棍棒で無茶苦茶に撲殺されたフェルセンの全裸死体が、広場の排水溝に打ち捨てられてありました。
冷たい権力者となって、民衆の信頼を全く失ったフェルセンの凄惨な最後でした。
そして、このフェルセンが撲殺された1810年6月20日は、19年前にマリー・アントワネットの家族と共に決行したヴァレンヌ逃亡事件と同じ月日だったのです。
偶然の悪戯とはいえ、なんとも不思議な運命を感じずにはいられませんね・・・。
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マリーアントワネット⑭ ヴァレンヌ逃亡事件の理由や詳細 革命後王妃の人生の明暗を分ける逃亡劇は本当にドラマティックです。フェルセン伯爵との不倫関係は?
王妃マリーアントワネットの生涯とは?
こうしてマリーアントワネットの生涯を一つ一つ振り返ってみると、やはり、マリーアントワネットはごく普通の優しい女性だったのだと思います。
国家財政を傾けるほど浪費していたといいますが、実際は予算の範囲内で生活していました。
浪費家だったのは間違いないですが、彼女よりもどうしようもなく悪い王妃や王女も歴史の中にはたくさんいるということが事実です。
彼女の遺書に「すべての敵が、私に加えた危害を許します」とあります。
マリーアントワネットは全く悪意のない、お洒落や楽しむことが大好きだった、ごく普通の女性だったのです。
シュテファン・ツヴァイクが『特徴もない平凡人であった』と指摘していますように、
フランス革命という歴史の大きな荒波に翻弄された、特に才覚もない普通の一人の王妃だったと捉えるのが正しいのかもしれません。
マリーアントワネットに社会性がなかったということは間違いありません。
彼女は一国の王妃という立場でありながら、政治や社会には全く興味がありませんでした。
『宮廷の外の世界で何が起きているのか?』
『自分の行動が民衆にどう見られているのか?』
そういったことには全く無頓着で、そのことが彼女の悲劇の運命を決定づけてしまったように思います。
ドレスや宝石など私的なもので国費を浪費し、貧しく苦しい生活を送っていた民衆のことなど気にもとめようとせず、勝手気ままに遊び暮らしてきた王妃。
そのつけが最期に全て回ってきてしまったとも言えます。
アントワネットの悲劇は自分で蒔いた種だといえるかもしれません。
歴史は様々な動きによって形成されているものですが、もしも、彼女が歴史の動きを一つでも理解して賢く振舞うことが出来ていたならば・・・
王妃として、もっと民衆のためにフランスを良くしたいと考えられるような聡明な女性だったならば・・・
彼女と子供たちの悲劇は少しでも違ったものになっていたかも知れないのに。
もっともアントワネットが、第三身分である民衆の新たな動きの意義や、彼女の優雅な生活が多くの民衆の犠牲の上に成り立っているということなどを、真に理解することは不可能であったことは火を見るより明らかなのですが・・・。
王妃として、母として、女性として・・・いつまでも私たちに愛されるマリーアントワネット
こちらのアントワネットの肖像画は、そのタッチから誰が書いたのかおわかりですよね。
そう、この肖像画は異国の地で親友アントワネットの死を知ったかつてのお抱え画家であるルブランが王妃の死後に描いたものです。
1800年、アントワネットの娘マリー・テレーズのためにルブランはこの絵を贈ったのです。
『亡き後の王妃』
死の直前まで毅然としていたアントワネットの姿を、ルブランは記憶と想像力によって再現したのです。
そして、この絵を受け取ったマリー・テレーズは、ルブランへ次のような手紙を送りました。
「あなたの描いてくださった母の姿は、私の脳裏にある母の姿そのものでした。あなたが筆の力で、母を甦らせてくれたのです。」
自由気ままで奔放な享楽生活といった側面ばかりがクローズアップされがちなマリー・アントワネットですが、晩年にこんな言葉を残しています。
「不幸のうちに初めて人は、自分が何者であるかを本当に知るものです」
アントワネットが38歳という短い生涯の中で、革命という大きな歴史の嵐と、王妃という特別な境遇を背景に、様々な苦労を経験した上でたどり着いた一言です。
とても重みのある言葉に思えます。
最期の時まで毅然としていたアントワネット、
そこには、民衆の憎悪に対しても慈悲の心にあふれた立派な誇り高き王妃の姿がありました。
フランス宮廷を舞台に数奇な生涯を走り抜けた王妃マリー・アントワネット。
その華やかな生活は当時のフランスに大きな影響を与え、そして限りない美を後世の私たちに遺しました。
アントワネットが愛したバラやモスリンの生地などは、今でも多くの女性に愛されていますものね。
悲劇も含め様々なドラマがあったからこそ、彼女の生きた時代や彼女自身への興味は尽きることなく、年月が経っても、多くの人々の心から消えることはありません。
いつまでも人々から愛され、語り継がれていくことでしょう。
ちなみにマリーアントワネットやフランス・パリにご興味のある方は、こちらもよろしければ合わせてどうぞ♪
フランスパリの「ルイ・ヴィトン美術館(フォンダシオン ルイ・ヴィトン)」の限定グッズはとてもレアで、しかもハイブランドのルイヴィトン製のクオリティの高いアイテムがお安く、どなたでもお求めやすいプチプラ価格設定になっていますので、現在、大人気商品となっていますよ~☆☆☆
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ラデュレクリスマスコフレ2017 通販、予約日、種類、値段など☆扇子ポーチやバッグつきメイクコフレ、足型リップグロスはパケ買いしちゃう可愛さ☆女心を虜にするセットアイテム(キット)がズラリ☆
◆こちらの惣領冬実さんの漫画『マリーアントワネット』がとっても話題になっているようですね☆
写真画像出典:kodansha.co.jp
こちらの作品は漫画史上初、なんと!あのヴェルサイユ宮殿が衣装、建築、そして王宮儀礼のすべてを監修している大作なのです☆
21世紀に発表された衝撃の事実をもとに描かれる、全く新しいフランス王妃マリー・アントワネットと国王ルイ16世の物語。
壮麗なロココの世界を紙上に再現したという惣領冬実さんの最高傑作だそう!
惣領冬実さんの漫画マリーアントワネットの詳細はこちらでどうぞ♪
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私も漫画『マリーアントワネット』ダッシュでネット通販でポチ☆しま~す♪
惣領冬実さんの歴史漫画は絵もとっても綺麗ですし、ストーリーがかなり読みごたえがありますからね!(私はチェーザレもファンなのです♪)
こちらの惣領冬実さんの『チェーザレ 破壊の創造者 (モーニングKCDX)』は、イタリアの中世ルネッサンス時代の貴族、ボルジア家の歴史漫画で、個人的におススメです♪
マリーアントワネットや歴史に興味のある方はかなり面白くてきっとハマりますよ!
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次回のマリーアントワネットの生涯は、マリーアントワネットが愛したもの。今に遺される彼女の遺品についてご紹介してみたいと思います。
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マリーアントワネット⑰ 夫ルイ16世の処刑と最愛の子供達との別れ~王妃から女囚280号へ。ルイ17世となった王太子ルイ・シャルルの悲劇的な最期。
マリーアントワネットの生涯⑲ 王妃の革命裁判の詳細と最後の手紙(遺書)。死刑判決の後、処刑(ギロチン)までの残りわずかな時間を王妃はどのように過ごしたのでしょうか?
マリーアントワネット展が六本木で開催☆ ドレスや肖像画、私室のバーチャルリアリティなどヴェルサイユ宮殿監修の本展示会は見逃がせない!ラデュレのコラボグッズやチケット情報も♪
デュバリー夫人① 『べルサイユのばら』でお馴染みのルイ15世の愛妾。その性格や過去の人生、宮廷生活、マリーアントワネットや首飾り事件にまつわる因縁とは?
デュバリー夫人② ヴェルサイユ宮殿を追放された後の人生は?元フランス王の愛妾がフランス革命に翻弄され、断頭台(ギロチン)で処刑されてしまう悲劇の最期。
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