今日はブログで前回に引き続き、マリーアントワネットの女友達(取り巻き)についてご紹介していきたいと思います。
前回の記事でも述べましたが、マリーアントワネットは男性と恋をするというより、綺麗で可愛い女性と集まって、いわゆる『女子会』をするのが好きなタイプでした。
(フェルセン伯などいくつかの恋愛はあったようですが、当時のフランス宮廷の文化からすると、かなり少ない方だと思います。)
前回のランバル公妃と対照的ともいえる、二人目のお気に入りの美女は、
『ポリニャック伯爵夫人』
彼女はベルサイユのばらにも出てしますし、皆さまご存知ですよね。
この記事の目次
◆早速ポリニャック夫人のその美貌をチェック♪
ヴィジェルブランが描いたポリニャック伯爵夫人の肖像画をみてビックリ!!!
なんて可愛いらしいお方なの~~~~~
皆さまももうご存知のとおり、
彼女はベルサイユのばらはもちろん、数々の史実を見ても、
必ずしも心の美しい人ではなかったようです
寵臣としてさまざまな恩恵を王家から引き出したことで悪名高い彼女。
でもその美しさは、本当にまるで天使のようです・・・
本当にこれは文句なしの美女
現代のハリウッド女優でも通用してしまうくらいの綺麗な人
お顔のアップ
輪郭は素晴らしく整った卵型。
そして、大きな瞳はふんわりとしてとても優し気なまなざし
薔薇色に上気した頬に、形よく上品な口元、
今にも優しく美しい言葉がこぼれてきそうです・・・
ちなみにこちらがベルサイユのばらのポリニャック伯夫人。
「ベルサイユのばら」では「文句があったらベルサイユへいらっしゃい」のセリフで有名な彼女。
初めは愁いをおびた大人の美女でしたが、後にどんどん人相が悪くなっていきましたね・・・
漫画では悪賢くて意地悪な女狐のような女性として描かれていましたが、
実際の肖像画の彼女は本当に優しそうで可愛らしく、圧倒的に魅力的です
漫画の中で「天使のよう」と褒められてるシーンが何度もありましたが、確かに天使のよう・・・。
この美しさでは、マリー・アントワネットが惹かれちゃうのもわかりますよね
◆ポリニャック伯夫人の人生をチェックしていきましょう
ポリニャック伯夫人は1749年の生まれ。
マリーアントワネットより6歳年上ということになります。
前回の記事でもご紹介しましたが、奇しくも王妃マリー・アントワネットの寵愛を受けていたランバル公妃と、同じ年の同じ誕生日に生を受けているのです。
そう、ランバル公妃が『美徳の不幸』なら、
ポリニャック伯夫人は『悪徳の栄え』。
清らかで慎ましい。
それでいて天真爛漫なヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン。
3歳で叔母に預けられ、貴族子女の教育を修道院で学んだガブリエルは、
18歳でメルキオル・ド・ポリニャック枢機卿(ルイ15世時代のメーヌ公妃 )の甥アルマン=ジュール・ド・ポリニャック伯爵と結婚します。
そして、彼女の結婚はランバル公妃の結婚と同じ年の1767年7月7日。
またしてもこの二人は結婚の日までもが一緒だったのです
ランバル公妃 マリー・ルイーズ
彼女が嫁いだポリニャック家は名門貴族ですが、
1679年、ルイ14世の寵姫モンテスパン侯爵夫人の黒ミサ(ラ・ヴォワザンの毒薬事件)に関与、また、メルシオール自身もメーヌ公爵夫人のクーデター計画事件に関与して失脚したため、家運は衰退していました。
ですが、このポリニャック家はガブリエルによって見事に再興を果たすことになるのです
ちなみに、以前ブログでご紹介いたしましたモンテスパン侯爵夫人の子孫がポリニャック伯夫人の嫁ぎ先だったなんて、なんだか不思議な因縁ですね・・・。
モンテスパン夫人(ルイ14世の愛妾でとてつもなく嫌われていた美女)
●詳細はこちらのブログ記事もどうぞ
↓ ↓ ↓
モンテスパン夫人 太陽王ルイ14世に愛された愛妾。絶世の美女の人生は、黒ミサ、毒薬、女のバトル、没落・・・興味深いエピソードがてんこ盛りです。
マリーアントワネットとの運命の出逢いは1775年。
アントワネットが20歳、ポリニャック伯爵夫人が26歳の夏のことでした。
ガブリエルはポリニャック伯爵の姉によって、ヴェルサイユの正式なレセプションに夫妻で招かれることになったのです。
これは権勢の一族ポリニャック家の策だったといわれています。
そう、類まれに美しく、機転の利くガブリエルに王妃の寵愛を受けさせること・・・。
家運を回復するという目論見どおり、ポリニャック伯夫人はその優雅さと美くしさで王妃マリー・アントワネットを魅了していきます
天真爛漫な2人はまたたく間に意気投合しました
ヨランド・マルティーヌ・ガブリエルは、まるで白百合のような美しさ。
天使のような顔立ち。
優し気な青い瞳は誠実に輝き、純白の歯はまるで真珠のよう。
そして美しい歌声。
いつも優し気な佇まい。
ご機嫌よく周囲に溶け込み、人と議論を交わすわけでもなく、
それでいて「人をひきつけるエスプリ」を備え、知性と機知に富む彼女に自然と王妃は好意を抱きます。
そんな王妃を瞬く間に魅了してしまったたポリニャック伯夫人の最大の魅力は、
美貌だけではなく、
その「はにかむようなしぐさ」と「率直さ」だったのだと思うのです。
そのことが人にとても誠実に映る。
皆さまの周りにもいらっしゃいませんかこういう女性。
ポリニャック伯夫人は特にルイ16世にも好まれていたといいます。
それは、年上の女性としてルイ16世とアントワネットの仲を自然と取り持つような接し方をしていたのかもしれません。
夫のポリニャック伯爵ともども、国王夫妻の友人として権勢をほしいままにし、
1780年にジュールは初代ポリニャック公爵に陞爵。
ポリニャック夫人には公爵夫人の称号が与えられました
またある日のこと、ポリニャック夫人は、経済的なことを理由に宮廷を去ろうとします。
(これは間違いなく作戦なのでしょうが。)
アントワネットはポリニャック夫人を寵愛するあまり、宮廷に留まるように涙を流して説得したといいます。
そして、下賜金をランバル夫人の3倍以上の50万リーブルも与え(のちに70万リーブルの年金と御下賜金を賜ることとなります)、
ヴェルサイユ宮殿内に住まわせるようになるのです
そしてさらに、ランバル夫人にさえ与えられなかった、『プチ・トリアノン』に招き入れるようになっていました
(プチトリアノンに泊ることを許されたのはポリニャック伯爵夫人と王妹・エリザベート内親王だけだったといいます。)
また彼女は国王夫妻だけではなく、アントワネットの取り巻きたちにも好評でした。
特にアルトワ伯に気に入られたポリニャック夫人は、
夫ともども人の良い王妃に取りいり、ランバル公爵夫人から王妃の第一の親友の座を奪うことにも大した時間はかかりませんでした。
1782年、それまでは名家の母から娘だけに継承されてきた王の子たちの家庭教師に任命されます。(王室の教育女官長)
ついにランバル公妃の地位に取って変わることとなったのです
そのため彼女は、「ヴェルサイユで最も美しい住居」と言われた彼女の居室を離れ、家庭教師たちが住む居室に移り住みます。
そして彼女の意向でその新居の大規模な修復工事が行われました。
ポリニャック伯夫人の登場で、それまでアントワネットに寵愛されていたランバル公妃は
宮廷に居場所を失ってベルサイユを去ることになります・・・
マリー・アントワネットはやがて、片時も離れていられないほどポリニャック伯爵夫人に心を許すようになっていきます。
あまりの親密ぶりに、王妃の取り巻きを快く思わない人々から同性愛の噂をたてられるほどでした。
マリー・アントワネットの浪費は、このポリニャック夫人の登場によって、更に増えていったといわれています
王妃はポリニャック伯夫人の夫であるアルマン=ジュール・ド・ポリニャック伯爵を王妃付馬頭に任命します
(そのため王妃の所有する馬の数は倍の300頭に増え、結果20万リーブル以上の支出となるのです)
そう、マリー・アントワネットは、ポリニャック家を丸抱えすることになっていったのです
また王妃の賭け事の出費は約49万リーブルにもなっており、
国王はこの濫費に対処するために、経済学者チュルゴーを財務大臣にたてるのですが、王妃はチュルゴーを嫌い、失脚させてしまいます。
よく私利私欲といわれているポリニャック伯夫人と取り巻きたち。
当時としては奇抜で派手なファッションを生み出し、退屈することを恐れて様々な遊びにふけり、惜しげもなく浪費を重ねていきました。
王妃の好意に決してつけ入るような事はしなかったランバル公妃も、
実際は王妃からの一時金や御下賜金を14~15年にわたり、年間にしておよそ10億円を好意として受け取っていましたけれどね・・・
◆ポリニャック伯夫人とアントワネットの関係は?
ランバル公妃の時も言えますが、アントワネットはポリニャック伯爵夫人を女官としてではなく、「綺麗な先輩ラブ」のような存在として見ていたような気がします。
美しい年上の先輩?に憧れのような感情を抱いていたのではないでしょうか?
でも残念ながら憧れの美人の先輩の家は貧乏だった
(ポリニャック家は当時かなり衰退していましたからね。)
先ほども述べましたが、
ベルサイユのばらのシーンで、アントワネットがポリニャック夫人に対して
「どうしてベルサイユに出ていらっしゃならないんですか?」とたずねると、
「宮廷に出て、体面を保つだけのお金がないんです・・・・」と答えるシーンがあります。
皆が見栄のはり合いをして、本音を言わないフランスの宮廷。
そんな中で正直に「お金がないんです」と言えることが、アントワネットにとっては「純粋で心のきれいな人」に見えてしまったのではないでしょうか。
これは「ベルサイユのばら」の創作エピソードじゃなくて史実になります。
アントワネットは、体面や儀礼的なものを重んじるベルサイユの雰囲気をすごく窮屈に感じていました。
そのため、正直に本音をぶつけてくるポリニャック夫人の素直さや率直さが、
とても誠実に映り、彼女といるととても居心地がよかったのだと思うのです。
もともと、生まれがよく人を疑うということを知らないマリーアントワネットですから、
困っている大好きな美人の先輩を、単純に助けてあげたいと思うのは当然のことですよね。
結果、国庫からポリニャック家に大金の年金をあてがってしまうのです
当然ポリニャック伯爵夫人の狙いはそこですよね。
遠慮せずに堂々と彼女の好意を頂いた上に、さらにおねだりまでしていくようになるのです。
ソフィア・ゴッポラ監督 映画『マリーアントワネット』
そのように本当に人柄が良かったマリーアントワネット。
ですが、その分、隙がたくさんありました
マリーアントワネットがポリニャック伯爵夫人に肩入れするあまり、構ってもらえない他の貴族たちはこぞってマリーアントワネットを悪く言いだすようになるのです。
こうした中で、ガブリエルは長男アルマン=ジュール・エルキュール・ド・ポリニャック、
次男ジュール・オーギュスト・アルマン・マリー・ド・ポリニャック(フランス首相)、
着々と、後のフランス政界で活躍する子供たちを誕生させていくのです。
◆ベルばらでも登場したポリニャック伯夫人の娘。 実際の人生は?
「おかあさま・・・ごめんなさい。
こんど生まれてくるときは・・・もう・・・貴族なんかじゃないところにする・・・わ・・・」
というセリフをのこして自殺してしまったポリニャック伯夫人の娘シャルロット。
こちらは「ベルばら」で、ポリニャック伯夫人の娘シャルロットが自殺したと思われる場所です。
描かれた風景が、オランジュリ横の階段に酷似していますが、あそこから落ちても死ねるかどうか・・・?
「ベルばら」のシャルロットは哀れにも母親の野望の犠牲になりましたが、史実を調べてみると色々なことが判りました
実際のシャルロット波瀾万丈な人生を歩んだようです。
ポリニャック伯夫人の娘 ルイーズ 1783
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
シャルロットのモデルとなったと思われるのは、実在するポリニャック伯夫人の長女アグラエ・ルイーズ・フランソワーズ・ガブリエル。
1768年生まれ。
「自殺することなく」1780年にギーシュ公と結婚し、ギーシュ公夫人となっています。
わずか12歳での結婚、アニメでは相当おじいさんのような描かれ方をしていましたが、
史実ではギーシュ公はオスカルと同年の1755年生まれです
少なくともアニメのギーシュ公の推定年齢よりはるかに若いので少し安心・・・
そして驚きなのが、結婚の際に王室から下賜された持参金です。
なんと80万リーブル
『首飾り事件』のダイヤの首飾りが約160万リーブル(約192億円)なのを考えても、金額の莫大さがわかりますね
オノーレ・ミラボーがマリー・アントワネットのポリニャック家への偏愛を苦々しく思い、「ダサス家の家族には国家を救った手柄により1000エキュ、ポリニャック家には国家を滅ぼした手柄によって100万エキュ!!」と皮肉を言ったというのも頷けます。
彼女はのちにアルトア伯の愛人となり、1803年、亡命先のイギリス・エディンバラで死去したといいます。
◆天使のように優し気なポリニャック伯夫人 その本性とは?
ポリニャック伯爵夫人が気にいられた理由は『率直』だったからといわれていますが、
とんでもない。
一族ぐるみでマリー・アントワネットから思いのままに金銭を巻き上げるような女性でした
彼女は妖精のような可憐な容姿とは裏腹にかなり腹黒い性格。
だってそうですよね?
そうでなければ、何年もの間、たいして好きでもないアントワネットに、
腹の内を探られず、お金と権力をほしいままにして寵愛され続けられるわけがありません。
実際のポリニャック夫人は漫画以上にずるがしこくて、たくましくて、相当な腹黒かつしたたかな女性だったと見受けられます。
アントワネットには、もともとランバル公妃という優しく性格の良い取り巻きがいたのに・・・
王家とも血縁関係もあるランバル公爵夫人。
(没落しかけのポリニャック夫人とは違い、ランバル公妃はプリンセスの称号をもつ王家に繋がる身分の高い女性でした)
しかし、享楽的な王妃はおとなしく控えめな彼女を次第に物足りなく感じるようになっていったのです。
そして、そこに登場したのが、ポリニャック伯夫人でした。
マリーアントワネットはポリニャック伯爵夫人の優し気に見える美貌や、
そのお世辞の裏にある本心が見えなかったようですね。
もし、マリーアントワネットが世間で言われているような悪女だったら、
ポリニャック伯爵夫人の見え透いたお世辞や華やかな笑顔に宿る裏の顔に気付いたでしょうが、彼女には人物を見抜く能力は全くなかったのです。
結局はポリニャック伯爵夫人などの悪い取り巻きのいいなりになってしまい、贅沢三昧を重ね、国民の反感を買ってしまう・・・。
アントワネットの母であるマリアテレジアは娘を心配し、
その意を受けたメルシー伯がマリーアントワネットにたびたび小言を言うけれども全く聞く耳をもちません。
そうですよね・・・当然そうなりますよね・・・。
だって、マリーアントワネットはおじさんのいうことなんて聞くタイプじゃないのですから。
だって、彼女は美人の先輩が好きなんですもの。
オーストリアの偉大なる女帝マリアテレジアも末娘の気性を理解していなかったようです。
早いうちにお嫁にだしてしまっていますし、18歳で王妃という最高のポジションを得て、
加えて夫は頼りないときているのですから仕方ないのかもしれません
フランス革命という大きな歴史のうねりの中では、アントワネットの様なタイプの女性は、ただ翻弄されるだけで何もできなかったのだろうと思うと、悲しい気持ちになってしまいますね。
マリアテレジア
娘マリーアントワネットの悲劇を見ることなく亡くなっていることがせめてもの救いです・・・。
◆アントワネットはレズビアン(同性愛)だった?
マリー・アントワネットには数々の淫らな噂が飛び交いました。
夫が長い間その夫としての役割を果たすことができなかったため、彼女は一体どこでそのはけ口を見出しているのかと、人々は興味津々に囁きあっていたのです。
結果、フェルゼンを筆頭に数々の男性とも噂がたち、さらには女性との同性愛の噂まで飛び交うようになります。
これらが実際、どれほどの関係だったのかについて正確なことはわかりませんが、飛び交っていた卑俗なパンフレットほどのことが行なわれていたということは考えにくいように思います。
マリー・アントワネットはポリニャック伯夫人といい、ランバル公妃といい、
確かに女性に対しても、他人から見ると少し過剰なのではないかというくらいに友情を示しています。
ですが、こういった女性同士の友情は、現代でもその他の時代でも、思春期を前にした少女が「誰かに愛情を注ぎたい」という欲求の対象として、同性の「親友」を求めるという行為として現れがちなもののように思います。
特に大正時代の女学校であったり、アントワネットのような不倫の許されない立場の女性(そして夫とは関係を持てない)には、「愛情を注ぎたい欲求」が強く働く環境にはありがちなものです。
そして何よりもこの時代は、ちょっと感傷的な類の「女同士の友情」が流行ったりもしていたのです。
王妃のポリニャック夫人への寵愛と賭け事は延々と続き、
1785年には王妃の首飾り事件と、マリー・アントワネットの身の回りは騒がしくなりますが、ポリニャック家の策は完全に功を奏でました
興味深いエピソードを見つけましたのでご紹介してみます。
これまでブログを読めばお分かりの通り、実は気まぐれな一面もあるアントワネット。
そんなアントワネットのことですので、寵愛されていたポリニャック夫人にも時として辛くあたる時もあったのだそうです。
決して全てにおいてポリニャック夫人の思い通りになったわけでもなかったのだそう。
そして、実はポリニャック夫人はアントワネットの気まぐれをきまぐれをなだめることが上手かったらしく、その際に、「オレンジフラワーウォーター」を使っていたらしいのです☆
オレンジフラワーウォーターを、時々気まぐれを起こす王妃に勧めていたのだそうで、アントワネットがオレンジの香りに癒されて、落ち着くのをゆっくり待ったといいます
当時、ヴェルサイユ宮殿には水道設備があったのですが、かなりがたがきていたようで、宮殿内での水の確保がとっても難しかったそうです。
そのため、ヴェルサイユの宮廷では、皆、ワインばかり飲んでいたらしいのですが、そんな中、ポリニャック夫人は質の悪い水やワインではない、アントワネット好みの可愛いらしい雰囲気のオレンジフラワーウォーターなんかを上手に使って、王妃の寵愛を得続けていたのでしょうね。
◆フランス革命の勃発とポリニャック夫人の最期
1789年ついにフランス革命が起きます。
したたかにも王妃の友人という立場を利用し権勢を欲しいままにしていたポリニャック伯夫人でしたが、フランス革命が起きるとポリニャック夫妻は真っ先に国王一家を見捨ててオーストリアに亡命しました
計算づくでマリーアントワネットに近づいていただけのポリニャック伯爵夫人。
ここで本性がでましたね。
先述のランバル公爵夫人はマリーアントワネットを心配してフランスにとどまり、最後は民衆に惨殺されてしまったというのに・・・。
ランバル公妃はフランス革命の勃発でポリニャック夫人が亡命したあと、窮地に立たされたアントワネットのために、一度は亡命した英国から戻ってきたのです
彼女は革命が激しくなってからも、アントワネットのそばにいて支え続け、
革命の正当性を認めず、9月虐殺で暴徒に虐殺され、遺体はボロボロになるまで傷つけられました。
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マリーアントワネット⑧ ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ 革命後もアントワネットと共に生きた悲劇の美女。9月虐殺による凄惨な最期とは?
一度は裏切ってしまった、かつてのおとなしくて慎ましい親友が、最後まで見せてくれた勇気ある行動にマリー・アントワネットは何を思ったのでしょう・・・。
自分にとって本当に大切な人を見つけるのって本当に難しいものです。
一方、民衆の憎悪の中心人物の一人でありながら革命をうまく逃れたポリニャック伯夫人。
ですが、それからまもなく命運が尽きて、1793年に亡命先のウィーンで病気で命を落とすことになるのです。
44歳でした。(死因は癌だったとも云われていますが定かではありません。)
それはランバル公妃が虐殺された年と同じだったといいます。
ランバル公妃(1749年9月8日-1792年9月3日)と同じ年に誕生し、同じ年に結婚し、同じように寵愛を受けたポリニャック伯夫人(1749年9月8日-1793年12月9日)。
やはり国を滅ぼした手柄は神も賞賛を与えたのでしょうか。ポリニャック伯夫人はランバル公妃の後を追うように天に召されました。
そしてマリー・アントワネットが断頭台の露と消えたのと同じ年のことでした。
◆ポリニャック家のたくましい生命力と、一族の繁栄
ポリニャック伯夫人は44歳で急死しましたが、その血筋は何と
今のモナコ王室まで続いているのです
ポリニャック家のすごさは、何よりも今世紀まで存続させたことです。
ポリニャック夫人の次男は、王政復古後にフランスに戻り、シャルル10世の時代には首相にまでなりました。
ですが、その政策から国民の怨みをかい、フランス7月革命のきっかけになったとも言われています。
●1863年の創業のポメリー
マダム・ポメリーの嫁いだ先が「シャンパーニュとは芸術である。」というポリニャック家です
「ポリニャック」というと、フランスのコニャック(ブランデー)にブランド名としたお酒や、シャンパンメーカーのポメリー社に「ルイーズ」という最高級のシャンパンがあります。
この「ルイーズ」とはそう、ポリニャック伯夫人の名にちなんでいるのです
このシャンパン、ラベルの白い紙に婦人の絵を浮き上がらせたシンプルなデザイン。
この白い婦人像こそ、20歳頃のルイーズの容姿だと言われています。
●孫にあたるエドモンド・ドゥ・ポリニャック公爵。
「シンガーミシン」で有名なミシン王のアメリカ人アイザック・メリット・シンガーでの娘で、芸術をこよなく愛し、フォーレ、シャブリエ、ラヴェルから曲を献呈されています。
●オートクチュールのジャンヌ・ランバンの娘マリー・プランシュ
彼女はポリニャック家に嫁ぎ、1946年にランバン(LANVIN)の事業をポリニャック伯夫人として引継ぎました。
また、クルト・ヴァイルの交響曲第2番のスコアには、
エドモンド・ドゥ・ポリニャック公爵夫人に献呈と記載されています。
ポリニャック公爵夫人の委嘱によりこの曲ができたというわけです。
●三男メルシオール(カミーユ)の子孫ピエール
なんと!モナコ大公ルイ2世の長女シャルロットと結婚し、レーニエ3世をもうけています
あのグレース・ケリーが妃なっていますよね。
そう、ポリニャック家は現在のモナコ大公家の男系の先祖となっているのです
ポリニャック家の血筋・・・すごいですよね。
やはり「悪徳の栄え」でしょうか。
ランバル公妃、アントワネットの子孫共には絶えていますのに・・・。
ポリニャック伯夫人のとった行動は酷いかもしれませんが、
もしかしたら当前のことだったかもしれません。
国や友人を捨ててでも、家を守る女性として、跡継ぎを絶やさないように。
生き延びるために。
◆マリーアントワネットのフェティッシュ
ところで皆さまはもうお気づきでしょうか?
マリーアントワネットは自分より美人な女性を嫌悪していないということに。
マリーアントワネットは世間では美女といわれていますが、
数々の肖像画を見てもあまり「美女」って雰囲気は伝わってきません。
光り輝く絶世の美女って感じゃなく、実際は受け口で鷲鼻でパーフェクト美女ではなかったのです。
アントワネットは宮廷でNo1の立場だけど、No1の美女ではなかった。
そういう女性が自分より美しい女性にどういう態度にでるかというと・・・
以前こちらのブログでも取り上げたモンテスパン夫人は、自分の侍女がルイ14世の気を惹くといけないからといって全部老婆にしてしまいました。
さらに若く可愛い美女をいじめたりという行動があったあげく、その女性を毒殺までしていたといいます
でも、アントワネットには一切そういうことがないのです。
王妃ですから、愛妾という心もとない立場の女性とは違うにせよ、
彼女は宮廷で自分が一番の美人じゃないと許せないという人ではなかったのです。
他人の美しさを称賛出来る人。
さらには、ポリニャック伯夫人や画家のエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランなど、自分より美しい人に憧れて、追いかけているようなところがあったくらいなのです。
アントワネットについて、今まで注目していていなかった部分が露になってきたように思います。
それは、アントワネットが『フェティッシュ』を愛する人だということです。
彼女は、ある方面において自分に意見する人物たちも、次々と遠ざけていくのです。
ルイ15世の崩御後、自分の思い通りにすることのできる範囲が確保できるようになると、彼女は早速自分の嫌いなものを遠ざけるために、大掃除を始めます。
うっとおしかった儀式や習慣はもちろん廃止。
廃止できなければ許容範囲のところまでそのうっとおしさを薄めていき、
できるだけ負担が少なくなるようにします。
この動きのために障害になる壁も全て取り除いていくのです。
アントワネットという人物を見ていけば見ていくほど、
彼女は「自分の好きなものにだけ取り巻かれていたい」という欲求が非常に強い女性だということを感じずにはいられません。
そして、自由な空間が出来上がると、今度は積極的に自分の大好きなものや、大好きな人たちをコレクションし始めるのです
この部分に関しては、アントワネットは全く妥協がありません。
彼女は生涯で一冊の本ですら読み切ることができなかったほど、
集中力が散漫だったと伝えられていますが、
『理想の空間を作り上げるための集中力と情熱』
はかなりのものだと思います。
そしてこの、自分のユートピアを作り上げようという執念。
これこそ強烈なフェティッシュな心を持っていなければ、できないのではないでしょうか?
ヴェルサイユ宮殿の自分の居室から始まって、自分のものとなった別邸プチ・トリアノンは、まさに彼女の好きなものだけを厳選して集め作り上げられたアントワネットのユートピアです。
今後ブログでこのプチトリアノンでの王妃についてご紹介してみたいと思います。
その前に次回はマリーアントワネットのお気に入りの美女三人目
美貌の女流画家エリザベート・ヴィジェ・ルブランの作品と激動の生涯をご紹介します。
↓ ↓ ↓
マリーアントワネット⑩ エリザベート・ヴィジェ・ルブラン 王妃の寵愛を受け、18世紀最も成功した美貌の女流画家の作品と激動のその生涯。
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