フランス王ルイ15世の愛妾(公妾)でありながら、生まれつきの体の弱さから王と愛人関係ではなく友情を築くことに力を入れたポンパドゥール夫人。
そして、ポンパドゥール夫人は余り政治に関心を示さないルイ15世に代わり、政治にも外交にも権勢を振うことになりました。
いよいよフランス宮廷だけにとどまらず政治や外交など世界的に影響力を持ち始めたポンパドゥール夫人。
彼女は事実上フランス王国の宰相のような存在になり、大臣の任命までも彼女の意見で行われていました。
こうしてポンパドゥール夫人に政治権力が集中していくこととなります。
ポンパドゥール夫人ことポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソンの肖像画(1721年12月29日 – 1764年4月15日)
こちらはポンパドゥール夫人の肖像画の中で最も本物に似ていると弟アベル・ポワソンが語った絵画になり、実際のポンパドゥール夫人のお顔を知る上で貴重な一枚。
ポンパドゥール夫人は「影の実力者」、「ベッドの中から国を動かす女」などと揶揄もされましたが、その啓蒙思想で培われた頭脳と政治的実力は本物でした。
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ポンパドゥール夫人の人生⑤政治と宗教 王の公妾でありながらオーストリア女帝マリア・テレジアも認めた敏腕政治家としての功績
ポンパドゥール夫人⑤の記事でもご紹介いたしましたが、ポンパドゥール夫人が35歳の頃の1756年、オーストリアのマリア・テレジア(マリー・アントワネットの母君ですね)から反プロイセン包囲網の要請があり、七年戦争に向けてフランスとオーストリアは歴史的な同盟を結びました。
このフランスとオーストリアのハプスブルグ家との同盟は300年間続いた両国のライバル関係を解消する画期的外交でもあり、「外交革命」と言われました。
そして、この時の両国の同盟の証しとして、マリア・テレジアの末娘であるマリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐことになったのです。
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さらに、オーストリアの女帝マリア・テレジアは、当時のロシアの女帝エリザヴェータとも対プロイセンのための同盟を結んだのです。
ジャンヌ(ポンパドゥール夫人)、オーストリア女帝マリア・テレジア、そしてロシア女帝エリザヴェータと言う三人の女傑が手を組んだこの同盟は「三枚のペチコート同盟」と呼ばれるようになりました。
こうして、女たちによる東、西、南からのプロイセン包囲網が完成したのです。
今回のこちらのブログでは、ジャンヌことポンパドゥール夫人が人生の終盤に残る力を全て注いだ七年戦争についての詳細をご紹介いたします。
この記事の目次
◆三枚のペチコート同盟と全女性の敵 プロイセンのフリードリヒ2世
「三枚のペチコート同盟」で結ばれたジャンヌ、マリア・テレジア、そしてエリザヴェータの三人はプロイセン王フリードリヒ2世が大嫌いでした。
ですが、一体なぜ?彼はこうも女性から総スカンを食っていたのでしょうか。
1740年にプロイセン王に即位したフリードリヒ2世は、フランスの哲学者ヴォルテールを宮廷に招き、自らも「反マキャヴェリ論」などの著書を手がけた哲学者であり、一流のフルート奏者でもあるという教養人でした。
開けた考え方の啓蒙専制君主として政治、宗教、経済面で改革を行い、恵まれた軍事的才能で軍隊を整備してプロイセンを一流国家へと成長させます。
これらの功績から「大王」とまで呼ばれるようになったフリードリヒ2世ですが、なぜか?彼は女性が大嫌いだったのです。
マリア・テレジアがオーストリアのハプスブルク家を相続した時には「女の王など認めない」とオーストリアに侵攻。
ジャンヌの事も「マドモアゼル・ポワソン(魚)(ポンパドゥール夫人の本名からですね)」と罵ったり、犬に「ポンパドゥール」と名付けてバカにしたりしていました。
それ以外にも公の場で女性蔑視発言を乱発していたというのですから、これではいくら大王様でもちょっと残念過ぎますよね。
全女性を敵に回して当然。
口は災いの元とはこの事です。
◆フリードリヒ2世のザクセン急襲で火蓋を切った七年戦争
革命的だったフランス・オーストリア間の同盟ですが、実際はフランスの国民感情としては受け入れ難いものでした。
オーストリア継承戦争でついこの間まで敵として戦っていた相手を「今日から味方です」と言われても、そう簡単に気持ちを切り替えられる訳がありません。
また、オーストリアが攻撃を受けた場合はフランス軍が出撃することになりましたが、フランスが攻撃された際は、オーストリアは中立を守るというヴェルサイユ条約の内容にも、納得いかないものがあったのです。
そんなフランス国民の不満は、影でこのヴェルサイユ条約を締結させたジャンヌに向けられ、その批判は高まって行きました。
そんな中、1756年8月29日、プロイセン王フリードリヒ2世が突然ザクセン選帝侯領に攻め込みます。
これは、「三枚のペチコート同盟」に焦りを感じたフリードリヒ2世が、その防衛策として先手を打ったのです。
女性軽視発言といいこの方、超・攻撃的な方ですよね。
この時、王太子ルイの妃で、攻撃されたザクセン選帝侯アウグスト3世の娘マリー=ジョゼフは、故郷からのこの報せに寝巻きのままルイ15世の部屋へ駆け込み、涙ながらに助けを求めます。
もちろんルイ15世はザクセンへの応援を約束し、こうして、フランスは本格的に七年戦争へと足を踏み入れて行くことになったのです。
◆リシュリュー公爵の活躍とポンパドゥール夫人の誤算
七年戦争初期に活躍したのは、ジャンヌとヴェルサイユの宮廷で長く対立して来たリシュリュー公爵でした。
リシュリュー公爵は地中海の要所メノルカ島を奪取し、難攻不落のサンフィリップ要塞の壁を自力で登って陥落させます。
さすがはかつて「追い払っても煙突からまた入って来るような男」と王に言わしめた人物だけあります。
そしてこれには、未だリシュリューを嫌っていたジャンヌも、その軍事的能力を認めざるを得ず、「公爵は、女性を誘惑する時と同じように簡単に町を落とすのですね」と彼を称えます。
フランス軍総司令官デストレは、軍の糧秣を担っているパリス・デュヴェルネと不和になり、デュヴェルネはデストレに変わりリシュリュー公爵を総司令官にするべく、長年親しくしていたジャンヌに働きかけます。
更迭の危機を知ったデストレは、急にやる気を出してハステンベックの戦いに勝利するものの、その努力もむなしく結局リシュリュー公爵が王によって新たなフランス軍の総司令官に任命されました。
しかし、このことがまさかの誤算だったのです。
◆フランス軍総司令官リシュリュー公爵の暴走で変わり始める戦況
1757年6月18日、プロイセンはコリンの戦いで初めての大敗を喫します。
これにはジャンヌ達「ペチコート同盟」も狂喜乱舞。
プラハはオーストリアが奪還し、ロシアはプロイセン国境まで侵攻します。
窮地に陥ったプロイセン王フリードリヒ2世は、ついに和平を求めてジャンヌを莫大な金と領地で買収しようと試みますが、ジャンヌはこれを一笑に付してマリア・テレジアに報告しました。
ですが、そこでフリードリヒ2世は、ターゲットをリシュリューに変えたのです。
フリードリヒ2世は、歯の浮くようなお世辞で埋め尽くされた手紙をリシュリューに送り、それが功を奏したのか、なんとリシュリューは戦闘を止め、占領地の略奪に専念し始めます。
ありとあらゆる手を使って住民から金品を巻き上げるリシュリューを見て、兵士たちが「ごろつきおやじ」と呼ぶほどでした。
そして、兵士たちは野放し状態になり、軍の規律などあっと言う間に消え去ってしまいます。
さらに敵のカンバーランド公を捕虜としたリシュリューは、ここでも金品との交換でカンバーランド公を解放するだけでなく、「フランスと敵対しない」という条約を何の資格もないのに勝手に締結します。
そしてこれ以降、リシュリューとプロイセン軍の間では、ただただひたすら金銭のやりとりだけが続いて行くことになるのです。
◆ロスバッハの戦いの大敗とポンパドゥール夫人の名言「我が亡き後に洪水よ来たれ」
七年戦争の開戦当時、実はフランスには有能な将軍がほとんどいない状態でした。
そこでジャンヌは信頼できる友人のスービーズ公爵を軍団の最高指揮官に任命します。
1757年、ザクセンにいたスービーズ公爵率いるフランス軍は、リシュリュー公爵に援軍を乞いますが、プロイセン側と取引していたリシュリューには、スービーズ公爵を本気で援助する気などまるっきりありませんでした。
ようやく到着した援軍は、糧秣もなく装備も不十分なボロボロの兵士たちだったのです。
その上、オーストリア軍のヒルトブルクハウゼン公もリシュリュー同様にプロイセンにお金で利用されていました。
11月5日、そんな状態で臨んだロスバッハの戦いは、フランス側連合軍がプロイセン軍の倍の戦力を持っていたにも関わらず大敗。
当然ですよね。
しかも、たったの90分ほどで勝負がついてしまいました。
このロスバッハの戦いでフランス軍が大敗したという報告が、フランス本国に到着した時、嘆き悲しむルイ15世を慰めるため、ポンパドゥール夫人は「我が亡きあとに、洪水よ来たれ」と声をかけたという有名なエピソードがあります。
この「我が亡きあとに、洪水よ来たれ」というポンパドゥール夫人の名言は、「後は野となれ山となれ」と同じような意味で、王を励ますために、この敗北がもたらす今後の劇的な影響のことを考えるのをやめるように勧めたものとされています。
ルイ15世は、このポンパドゥール夫人が残した利己的ともいえる格言を、主語を単数にした「Après moi, le déluge」という形にして、孫の王太子(後のルイ16世)言及するときなども含め、しばしば口にしたといいます。
この言葉は二通りの解釈があり、「我が亡き後に、洪水が来るだろう」ととるならば、「革命によって自分の統治が終わりを告げることになれば、国民は混乱に陥ることになるだろう」と断言していることになり、
一方「我が亡き後に、洪水よ来い」ととるならば、「自分が去った後に何が起ころうと知ったことではない」という意味になります。
これを踏まえ、日本語での言い回し「後は野となれ山となれ」に近い含意だとも言われています。
七年戦争で押され気味だったフリードリヒ2世は、まさかのこのロスバッハの戦いでの勝利で息を吹き返し、逆に大きな犠牲を払うこととなったフランスには厭戦ムードが充満します。
ロスバッハの戦いで敗戦の将となったスービーズ公爵は民衆からコケにされ、ジャンヌはそんな友人を不憫に思い歓待しましたが、それがさらに国民の不満を煽り、さらなるジャンヌへの非難が生まれる結果となってしまいました。
◆厭戦ムードの高まり
戦場でさんざんやりたい放題やっていたリシュリュー公爵は、さらに冬になると堂々と休暇を願い出ます。
いくらなんでもメンタル強すぎますよね。
国王ルイ15世はこの休暇を認め、リシュリューは思う存分愛人たちと休暇を楽しみました。
その後、リシュリュー公爵はさすがに軍事や政治の第一線から退くことになりますが、ルイ16世(ルイ15世の孫にあたりマリーアントワネットの夫)の時代まで生き延び、92歳で死去します。
すごい生命力。
そのリシュリュー公の後にフランス軍の総司令官となったのがクレルモン伯爵です。
クレルモン伯爵はリシュリューがメチャクチャにした軍の立て直しを図るものの、1758年6月27日、クレーフェルトの戦いでプロイセン側連合軍にロスバッハと同様の大敗を喫します。
敗戦が続き、フランス国内で厭戦ムードがさらに高まる中「オルムの人たち」という一味が、前線の兵士の士気を失わせるような文書を街に大量に撒き散らしました。
その一味とは?みなさま、覚えていらっしゃるでしょうか。
そう、ヴェルサイユでジャンヌ追放に執念を燃やし、敗北して追放されていたデストラード夫人とダルジャンソン伯爵の腹黒コンビだったのです。
この二人、まだ頑張っていたんですね・・・。
ヴェルサイユを追放されて改心したかと思いきや、何一つ変わっていないある意味まったくブレないこの二人組。
ここまで来るともう感心します。
そんな状況の中、外務大臣ベルニス師は日に日に悲観的になっていき、ジャンヌはベルニス師を枢機卿に据える事で解任。
新たな外務大臣にショワズール公爵となったスタンヴィルを就任させました。
◆七年戦争の終結とポンパドゥール夫人の敗北
1762年「ペチコート同盟」の一翼だったロシアのエリザヴェータが世を去ります。
そして、彼女の後を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世の崇拝者であったため、ロシアが戦線離脱します。
そして、新外務大臣ショワズール公爵は、ヴォルテールを介してフリードリヒ2世と和平に向けた交渉を続け、ついに1763年、パリ条約により七年戦争は終結するに至ります。
この七年戦争の結果プロイセンは大国となり、オーストリアはシュレジエンを奪還できず。
そして、フランスは大陸での戦争に貼り付けになっている間に、イギリス海軍にカナダを始めとする植民地を奪われるという結果になりました。
そう、フランスは、ジャンヌはついに負けたのです。
◆ポンパドゥール夫人の人生⑥まとめ
七年戦争中、ジャンヌの部屋が国王の執務室となりました。
赤い漆塗りの優雅な部屋に飾られていたロココを代表する画家ブーシェによるジャンヌの肖像画はドイツの地図に変わり、ジャンヌのつけぼくろは進軍行程の印へと変わりました。
美しいクレシーの館やベルヴュー城も手放し、ロココの豪華絢爛たる生活は失われました。
結果、フランスは7年戦争に負け、敵国プロイセンと同盟を結んでいたイギリスに、アメリカの植民地を奪われることになりました。
また、この植民地を奪われたことと、七年戦争の戦費がかさんだことにより、フランスは財政破たん状態になってしまいます。
そして、これが後のフランス革命につながっていくのです。
こうなってしまった敗戦の責任はジャンヌにかぶせられました。
ですが、こうして史実を追っていきますと、外交上は絶対に勝てるような状況であったため、この敗戦はジャンヌの責任では無く、現場の軍の指揮官の責任だったり、同盟国が頼りにならなかったことが実際の原因だったのですが・・・。
七年戦後に残った物といえばジャンヌへの民衆の批判だけでしたが、王と二人三脚でこの苦しい時代を乗り切った日々は、ある意味ジャンヌの人生で最も充実していた時間だったのかもしれません。
そして、ジャンヌが王の側で過ごせる時間は、もう残り少なくなっていたのです。
ポンパドゥール夫人⑦へ続きます。