今回のダイアナ妃の生涯をご紹介しておりますこちらのブログでは、ダイアナ妃の生涯②として、少女からレディへと成長し、青春を謳歌していたダイアナの短かった独身時代についてまとめてみました。
◆以下のブログ記事にてダイアナ妃の生涯(人生)をご紹介しておりますのでよろしければ合わせてどうぞ♪
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ダイアナ妃の生涯①幼少期と少女時代、学生生活 子供の頃から美少女!名門貴族スペンサー家の三女 離婚した両親や優秀な姉弟の狭間で揺れ、活発で心優しい性格がわかる少女時代のエピソード
自然豊かなノーフォークで牧歌的な少女時代を過ごしたダイアナ。
少女時代のダイアナ元妃。ウェールズ公妃ダイアナ
こちらは1969年の少女時代のダイアナの写真なりますが幼少期からずっと美少女ですね。
10代になると、その生活の中心はロンドンへと移って行きます。
1970年代のロンドンは、ビートルズやツィッギーが一世を風靡し「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれた1960年代を経て、パンクロック、ディスコ、ウォークマン、ファーストフードに若者たちが熱中した時代でした。
また、避妊薬の開発によって女性の生き方がより開放的になった時代でもありました。
そんな空気に満ちたロンドンで、多感なティーンエイジャーのダイアナは青春時代を迎えます。
この記事の目次
◆伯爵令嬢 レディ・ダイアナ・スペンサーの誕生
1973年、12歳になったダイアナは、姉のセーラとジェーン同様に、ケント州のウェスト・ヒース校へと進学します。
二人の姉とは違って勉強と試験が苦手だったダイアナ。
無事に同じ学校へ入学できて、きっとホッとしたことでしょうね。
こちらは1971年、10歳を迎え、ロンドンの南西部、ウエストサセックス州のイッテェナーで夏休みを楽しむダイアナの写真です。
プレップスクールに通った後、1970年よりノーフォークの寄宿学校である名門リドルズワース・ホール学校に入学し、こちらはその頃の写真。
日頃、気品に満ちた交友関係の中で学生生活を送っているためか、10歳にしてもはや淑女の雰囲気もありますね。
1973年、ケント州、ウェスト・ヒース寄宿学校に入学したダイアナですが、この学校は上流階級のお嬢様たちに教育を施すための学校として1899年に設立されたものでした。
王族等、世界的に有名な家系の子女たちの学び舎となっています。
王室のウエブサイトによりますと、学生時代のダイアナはバレエとピアノの成績がよく、社会奉仕活動では特別賞を受けました。
1975年、ダイアナが夏の学期を終え、休暇のためにウェスト・ヒース校からパーク・ハウスへ戻って来ると、家中の荷物がまとめられていました。
6月9日にダイアナのおじいさん、第7代スペンサー伯爵が83歳で死去し、ダイアナの父オールトラップ子爵が第8代スペンサー伯爵となったため、パーク・ハウスからノーサンプトンシャーにある本家、オールトラップ・ハウスへと引っ越すことになったのです。
パーク・ハウスが大好きだったダイアナと弟のチャールズにとってこの引越しはとても悲しく、チャールズはパーク・ハウスの全ての部屋に「さよなら」を言いに行くほどでした。
そして、このパーク・ハウスとの別れと共に、ダイアナの少女時代も終わりを告げます。
変わったものは住む家だけではありませんでした。
父が伯爵になったことで、弟のチャールズがオールトラップ子爵の称号を受け継ぎ、三人の娘たちは伯爵令嬢となりました。
こうして、14歳の「レディ・ダイアナ・スペンサー」が誕生したのです。
◆父の再婚 新しい母(継母)の襲来
こうしてダイアナが一人のレディになった頃、父のスペンサー伯爵は恋をしていました。
そのお相手の女性はダートマス伯爵夫人レイン。
人気ロマンス小説家バーバラ・カートランドの娘で、毒舌政治家として世間を賑わすエネルギッシュなレインに、スペンサー伯爵は夢中だったのです。
しかし、突然現れ父を奪い取った高飛車な女性レインに、子供達は拒絶反応を起こします。
長女のセーラはあからさまに反発し、次女のジェーンは完全無視。
ダイアナとチャールズも、やはりこの新しい母親(継母)を受け容れる事は出来ませんでした。
それでも1976年、二人は子供たちに内緒でこっそりと籍を入れると、レインはいよいよ堂々と家を仕切り始めます。
使用人たちをリストラし、財宝を次々と売り払い、クリスマスすらレインの許可がないとプレゼントを開けられないというつまらないものに。
また、行動だけでなくレインはその見た目も強烈でした。
スプレーでがっちりと固めた髪に厚化粧、時は20世紀だと言うのに夕食には必ずイヴニングドレスを着用し、バーベキューパーティーにすらロングドレスで登場するという徹底ぶり。
ダイアナ妃の義母レイン・スペンサー
そんなレインを子供達は「アシッドレイン(酸性雨)」と呼び敬遠します。
酸性雨とは・・・恐ろしいニックネームですね(笑)。
ダイアナも休日には次第に継母のいるオールトラップを避け、ロンドンの姉の家に泊まりに行くようになっていきました。
◆ウエストヒース校 学校生活での挫折
1974年当時14歳目前のダイアナの写真。いかにも70年代らしいジーンズを履いていますね!
“スカッフル”という名前のポニーをペットに飼っていました。翌年1975年に父がスペンサー伯爵の称号を継いだことでダイアナもLady(姫・令嬢)の儀礼称号を授かり、伯爵令嬢「レディ・ダイアナ・スペンサー」に。
一方、ウェスト・ヒース校でもダイアナのいたずら好きは相変わらずで、枕投げやパイ投げは当たり前。
罰として草むしりを命じられた事も多々ありました。
また、食欲旺盛で朝からシリアルを何杯も食べていたという元気一杯のダイアナでしたが、学業の面では次第に勉強について行けなくなってしまいます。
この頃のダイアナは、バーバラ・カートランドの恋愛小説を夜通し読みふけり、これが学業不振の原因だったとも言われていますが、そのカートランドの娘が継母になったのですから、不思議な巡り合わせと言わざるをえませんよね。
1977年、ダイアナは進学に向けた全国共通学力テストを受験します。
この試験で姉のセーラとジェーンは6科目以上でOレベル(標準レベル)に合格する優秀な成績を納めていました。
ダイアナもこの試験に二度挑戦しますが、結果は全て不合格。
Oレベル全滅は珍しい事で、落ち込んだダイアナは進学を諦め劣等感が深まります。
しかし、ダイアナが在籍していたウェスト・ヒース校では、学業だけでなく、生徒達の人格も重視されていました。
課外活動で障害児の施設を熱心に訪問したダイアナは、その貢献が高く評価され、傑出した生徒だけに贈られる「ミス・クラレンス賞」を受賞します。
この頃からダイアナは、人に奉仕する事に喜びを感じ始め、そのことは後の人生にも影響していくのでした。
◆憧れのロンドンへ ダイアナの一人暮らし
高等教育への進学を諦めたダイアナは、姉セーラのいるスイスの花嫁学校アルパン・ヴィデマネット学院に入学します。
成績優秀だったはずのセーラですが、実は飲酒が原因でウェスト・ヒースを放校処分になっていたのです。
セーラはなかなかパンクな伯爵令嬢だったようです。
意外な事に、このスイス行きがダイアナにとって初めての海外渡航で飛行機も初体験。
そして、期待に胸を大きく膨らませてスイスに到着したダイアナでしたが、花嫁学校は予想外に窮屈で退屈なものでした。
次第にホームシックにかかってしまったダイアナは「イギリスに帰りたい」と両親に120通もの手紙を書き送り、たったの6週間で花嫁学校を後にします。
イギリスに帰国したダイアナは、ロンドンに出たいという気持ちが日に日に高まっていきます。
両親から18歳になるまでは一人暮らしを禁止されていたものの、ダイアナはなんとか母フランシスが所有するカダガン・スクウェアのフラットに住む許可をゲットします。
その一年後の1979年、18歳になったダイアナは、社交界デビューしたお祝い金で、ついに念願の自分のフラットを手に入れました。
この後、イギリス中からカメラマンが押し寄せる事になるウェストロンドン、コールハーン・コート60番地に・・・。
◆ダイアナとルームメイトたち
こちらのダイアナ元皇太子妃の結婚前の写真はオークションに掛けられ、予想を大きく上回る約1万8300ドル(約170万円)で落札されたもの。
写真は友人たちとスキーに行った際のもので、若い男性(ボーイフレンド)と共にくつろいだ表情を見せ、近くにはウイスキーの瓶などが☆貴重な彼女の独身時代の青春の一ページが垣間見られます。
5万ポンドで購入したロンドンの広いフラットを、ダイアナはパステル調の壁紙とセンスのいいインテリアで女の子らしい部屋に模様替えします。
こうしてダイアナのロンドンでの一人暮らしライフがスタートしました。
ダイアナは収入のためにも複数の友人とフラットをシェアしますが、その中で、学生時代からの友人キャロリン・バーソロミュー、姉セーラの会社の同僚アン・ボルトン、アスプレイの店員ヴァージニア・ピットマンは、この後、ダイアナの「世紀のロマンス」を見守ることになる特別なルームメイトとなりました。
ひとり暮らしを始めたダイアナは、生活費を稼ぐためにアルバイトに精を出します。
家事が得意で子供好きだったダイアナは、二つの職業斡旋所に登録し、裕福な家庭で子守や掃除、洗い物まで何でもやりました。
また、姉ジェーンの紹介でヤングイングランド幼稚園で子供達の世話をする仕事に就きます。この仕事はダイアナにとってとてもやりがいのあるものでした。
働きながら料理教室やダンススクールに通い、車の免許も取りましたが、ダイアナは節約のためもっぱら自転車派。
食事と言えばチョコやスナック菓子で体重は増える一方、お金はなく服も満足に買えないような生活でしたが、フラットはいつも、女の子たちの賑やかな笑い声で溢れていたのです。
◆独身時代のダイアナのボーイフレンドたち
ダイアナには女友達だけでなく、ボーイフレンドもたくさんいました。
年上で洗練されたジョージ・プランプトリ、セクシーな人気者ダニエル・ウィッギン、ワイン商の息子サイモン・ベリー、スコットランド、近衛師団中尉のロリー・スコットなどなど。
ダイアナは彼らと映画やダンスに行ったり、フラットに招いてパーティーをしたりして楽しみますが、もっと楽しかったのは彼らへの仕返しでした。
ボーイフレンドが彼女たちを怒らせようものなら、彼らには真夜中のピンポンダッシュや自慢の車がパイのように小麦粉で塗り固められるという刑が待っていたのです。
この夜襲のために夜のロンドンを駆け回っていたダイアナたちですが、彼女たちの生活はいたって健全で、お酒やタバコ、ましてやドラッグなどとは全くの無縁でした。
また、ボーイフレンドたちは皆良家出身のナイスガイばかりでしたが、不思議な事に、ダイアナはその中の誰とも深い関係にはならなかったのです。
ボーイフレンドの一人ロリー・スコットは後にこう語りました。
「彼女にはどこか、僕なんかにはわからない超然としたところがありました」
◆まとめ ダイアナの予感
ダイアナは、とても勘のいい少女でした。
もしかしたら、それは霊感に近いものだったのかも知れません。
1978年9月、ダイアナは友人の家でふと「父か倒れるのではないかという予感がします」と話しました。
その翌日、父スペンサー伯爵が脳溢血で倒れたという連絡を受けます。
同じように、ダイアナは将来のために身辺をきちんとしておく必要があると感じていました。
それは、この先自分を待ち受けている「出会い」への確かな予感でした。
ダイアナ自身が後に「最高でした」と振り返るこの青春時代を終え、彼女の運命の輪は、ここから大きく動き始めることになるのです。
ダイアナ妃の生涯(人生)③へ続きます。
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