英国ロイヤル・ファミリーの中で、最も有名なプリンセスと言えばダイアナ元妃ですが、彼女と同じ時代に、もう一人、強烈な個性を放ったプリンセスがいたのを皆さまはご存じでしたでしょうか?
それは、チャールズ皇太子の弟のアンドルー王子の妻、セーラ妃。
ダイアナ妃とは、現在のキャサリン妃とメーガン妃と同じ関係の義理の姉妹にあたります。
「ファーギー」の愛称で知られる彼女、セーラ妃は、ダイアナ妃とは正反対のフリーダムな言動で世間を騒がせました。
1996年にアンドルー王子と離婚するも、2018年、次女のユージェニー王女の結婚で、再び注目を集めている彼女の破天荒な人生を、今回はダイアナ妃の生涯番外編として振り返ってみましょう。
この記事の目次
◆生まれながらに活発だった少女ファーギー
1959年10月15日、セーラ・マーガレット・ファーガソンは、父ロナルド・ファーガソン少佐と、最初の母スーザンとの間の次女としてロンドンで生まれました。
8歳からハンプシャーにある父の実家の農場で育ったセーラは生まれつき活発な性格で、学校でも「度胸があって、陽気で、社交的」と評判の女の子でした。
ガッツあるセーラがお気に入りだった父ファーガソン少佐は、幼いセーラを男の子のように育てます。
4歳からスキーのスロープに立たせ、同時に乗馬も教え込み、父親っ子だったセーラもその期待に応え、持ち前のガッツでスキーと乗馬は男子顔負けの腕前にまで上達しました。
◆ファーギーのバブリーな青春時代
18歳で学校を卒業すると、セーラはアート・ギャラリーや広告会社でOL生活を始めます。
陽気で社交的だったセーラはモーターレースの興行主パディ・マクナリーと交際を始め、その仲間で「ヴァービアー一派」と呼ばれたリッチでオシャレなグループと派手に付き合います。
まるで「ビバリーヒルズ青春白書」を地で行くような、バブル感満載の青春時代ですよね。
セーラの両親は1974年に離婚しますが、その後、母スーザンはイケメンポロ選手と再婚してアルゼンチンに渡り、父ロナルドも再婚して3人の子供をもうけています。
両親2人の奔放なDNAは、セーラにしっかりと受け継がれたのでした。
◆フォークランド紛争のヒーロー アンドルー王子
ファーギーの夫となるおギリス王室のアンドルー王子は、1960年2月19日にバッキンガム宮殿で生まれました。
兄のチャールズとは正反対に、少年時代から騒がしいやんちゃ坊主だったアンドルーは、1979年、海軍兵学校に進学します。
卒業後はヘリコプターの操縦士となり、1982年、航空母艦「インヴィジブル」に乗艦します。
同年3月、イギリスとアルゼンチンとの間で勃発したフォークランド紛争では、アンドルーもパイロットとしてインヴィジブルに乗り込み従軍しました。
王子の戦死を懸念するイギリス政府をよそに、アンドルーは一般の兵士たちと最前線で戦います。
イギリスはフォークランド紛争に勝利し、帰還したアンドルーも「優れたパイロットで将来有望な将校」と讃えられました。
◆ヒーローは王室の陽気なプレイボーイ
海軍で大活躍したアンドルー王子は、王室の次男坊らしい道楽息子でした。
ヨット、ゴルフといかにもセレブらしい遊びが大好きで、家にいる時はビデオや漫画を見ながらゴロゴロ。
王室の職員とも気軽に喋りました。
陽気で社交的な性格とハンサムなルックスで、付き合った女性は数知れず、「プレイボーイ王子」の異名を取ります。
実際にセーラと出会った時にも、アメリカ人女優のクー・スタークと交際中でした。
ゴルフに行くのに空軍の飛行機を使用して批判を浴びるなどの話題にも事欠かず、独身時代はお騒がせセレブ生活を満喫したアンドルー。
皇位継承順位も低い事ですし「人生楽しまなきゃ損」というポジティブ思考の人だったのでしょうね。
◆恋のキューピッドはダイアナ妃?
セーラの生まれたファーガソン家は、ウィンザー家とも親戚関係にある名門で、父ロナルド・ファーガソンは、エジンバラ公フィリップ殿下とチャールズ皇太子のポロの監督をしていました。
そのため、子供の頃から顔見知りだったセーラとアンドルー。
そんな2人の関係がロマンスに変わったのは、1985年、ダイアナ妃が、アスコット競馬のゲストとして、遠い親戚で友人でもあるセーラを女王に推薦した事がきっかけでした。
その食事会で、隣同士の席に座ったセーラとアンドルーは、お互いのパーリーピーポーの匂いを敏感に感じ取ったのか、すぐに意気投合、交際に発展。
セーラは乗馬とスキーの腕前と、OL時代に身につけた処世術を駆使して王室メンバーにも気に入られ、トントン拍子に結婚話が進んで行きました。
◆結婚式はやっぱりハデ婚 セーラ妃の誕生
セーラの赤毛にちなんだゴージャスなルビーの婚約指輪で婚約発表に臨んだ二人は、1986年7月23日、ウェストミンスター寺院で結婚式を挙げました。
この結婚式も、ダイアナ妃の時に負けず劣らず、サッチャー首相、ナンシー・レーガンなど世界の要人が集まり、各国に衛星中継された80年代らしい超ハデ婚です。
リンカ・シーラッチのデザインによる5メートルのトレーンのウェディングドレスとクチナシの花冠姿で誓いの言葉を述べ、宮殿のバルコニーからドヤ顔で手を振ったセーラ。
その後、派手好きの二人らしくジェット機でハネムーンへ旅立ちます。
こうして晴れてヨーク公爵夫人となったセーラは、堂々のロイヤル・ファミリー入りを果たしたのです。
◆王室の新しい風 セーラ妃
王室に入ってからもセーラ妃は物怖じせずに我が道を突き進み続けます。
庶民的で生き生きとした振る舞いと感情豊かな表情のセーラ妃は、すぐに王室の人気者となり、美人だけれど無口で表情の乏しいダイアナ妃に替わってスポットライトを浴びるようになりました。
王室に入ってダイアナ妃とチャールズ皇太子の不和を知ったセーラ妃は、まるで姉のようにダイアナ妃を励まします。
二人はお互い頻繁に電話をかけ、一緒にランチを食べ、セーラはダイアナに有名な占星術師も紹介しました。
遊び好きのセーラでしたが、基本的にはとても人情味のある人だったんですね。
太る事を気にしていたダイアナの目の前でモリモリ食べるセーラに刺激を受けて、ダイアナも次第に元気を取り戻りて行きました。
◆短かったセーラ妃人気
セーラとアンドルーの結婚式の前日、王室史上初めて開催されたアンドルーのバチュラー・パーティーに、セーラとダイアナは婦人警官のコスプレで乗り込んで騒ぎを起こし、問題になっていました。
さらに、結婚後もセーラがダイアナを連れて夜な夜なパーティーに夜遊びに繰り出したり、マスコミの面前でふざけあう行為は止まる事を知らず、次第に王室メンバーや職員、一般市民からも「おふざけが過ぎる」と批判を浴びるようになります。
また、これまでは「セーラ妃らしい」と好意的に受け止められていた過激なジョークや公妃らしからぬあけっぴろげな振る舞いも、次第に「下品」と、うとまれるようなって行きました。
◆セーラ妃の失脚
チャールズとアンドリューの父フィリップ殿下から「ふしだらな女」と相当嫌われていたように、快楽主義者のセーラは、浮気に何の罪悪感も持っていませんでした。
1988年に長女のベアトリス、1990年に次女のユージェニーをもうけてからも、アンドルーが海軍勤務で留守にしている間、男性関係の噂が絶えず浮上します。
また、夫の留守中に豪遊した莫大な浪費もあいまって、王室と世間のセーラへの目は日に日に冷たくなって行きました。
そして、ついに1992年夏、セーラ失脚の決定打となる事件が起こります。
南仏でトップレス姿で横たわりながら、愛人の実業家ジョン・ブレインにつま先をしゃぶらせている姿をパパラッチされたのです。
これにはアンドルー始め王室メンバーも、さすがに怒りを通り越して呆れ果て、とうとうセーラは別居という王室追放の道を歩み始めたのでした。
◆まとめ 本能でしか生きられない女ファーギー
1986年のセーラとアンドルー王子の結婚式は、日本のニュース番組でも大きく取り上げられました。
その時の「やけに威勢のいいプリンセス」が記憶の片隅に残っている方も多いのではないでしょうか。
セーラは王子様との結婚という、ほとんど奇跡のような幸運を、ほぼ自力で掴み取りました。
そして、誰しもが憧れるその立場を、考えなしの行動で自ら手放す結果となってしまいました。
全ては自業自得なのですが、王室に嫁いだのですから、どうしてもっと考えて行動になかったのか?
不思議ですよね。
でもそれが、セーラ・ファーガソンという女性の生き方なのでしょう。
ファーギーの破天荒人生は、この後もまだまだ続きます。
セーラ妃の生涯②へ続きます。
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