クレオパトラこと「クレオパトラ7世」は絶世の美女として、そして恋多き女性としても私たちに知られています。
前回の「クレオパトラの生涯①半生」の記事でご紹介いたしました小ポンペイウスの愛人となったことを始め、カエサル、などたくさんの男性との恋は多くの女性の憧れだったりもしますよね。
クレオパトラ7世の生涯①幼少期~半生 エジプト・プトレマイオス朝の女王でありながら小ポンペイウスの愛人となった波乱の半生や時代背景
クレオパトラ7世が大変美人であったという説も、その男性を虜にする魅力にあったとする考え方もあります。
◆クレオパトラの容姿に関しましてはこちらのブログ記事にてご紹介しておりますので、よろしければ合わせてどうそ♪
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クレオパトラ7世の実際の顔は?本当は美人じゃなかった、鼻が低かったという不美人説もある!世界史で三大美女として名高い彼女の実際の容姿を解説&検証
今回は、歴史的にも有名な、そんなクレオパトラ7世とユリウス・カエサルとの恋についてこちらのブログ記事でご紹介してみたいと思います。
クレオパトラがどのようにカエサルに出会い、運命の恋、そして最愛のカエサルの死までの経緯やエピソードをご紹介いたします。
この記事の目次
◆クレオパトラ7世とカエサルの運命の恋
クレオパトラ7世は、共同統治者である弟「プトレマイオス13世」とともに、エジプトを統治するはずでした。
しかし結局、クレオパトラ7世は、幼い弟を傀儡とした弟のプトレマイオス13世の側近たちと争うことになり、結果、国境付近まで追い詰められてしまうことになったのです。
そんな内乱状態が続くエジプトを、どうにかしようと救いの手を差し伸べのがローマのユリウス・カエサルです。
カエサルは、ローマの将軍として、弟プトレマイオス13世とクレオパトラ7世を呼び寄せました。
しかし、クレオパトラ7世が普通に道を行こうとしても、弟の側に捕まってしまいます。
ここで迷ったクレオパトラ7世は、絨毯にくるまってカエサルの元へと、贈答品と一緒に運ばれていったという歴史的に有名なエピソードがありますよね。
そう、これが、カエサルとクレオパトラ7世の運命の恋の始まりです。
クレオパトラ7世は、エジプトと自分自身を救うために、この時カエサルの愛人となったのです。
ちなみにこの時カエサルにも妻がいたため、いわゆるダブル不倫ということになります。
そして、クレオパトラ7世の弟は、この事実に冠を投げて激怒したとされています。
◆クレオパトラ7世、女王として返り咲く
対立していたクレオパトラ7世の弟であるプトレマイオス13世とクレオパトラ7世は、このカエサルの仲介で見事和解を成立させます。
しかし、この両者の和解はわずか15日しか続きませんでした。
プトレマイオス13世が、カエサルを攻撃し、カエサルはこれに応戦する形で戦いとなったのです。
この激しい戦いの末、プトレマイオス13世はナイル川で溺死したとされています。
そしてクレオパトラ7世は、弟の死を受けて、さらに弟のクレオパトラ14世と結婚(再婚)したとされています。
そして今度はクレオパトラ7世と、プトレマイオス14世の共同統治が始まるのです。
しかし、これは実際は、カエサルとクレオパトラ7世による傀儡政権であるとされていました。
そして、カエサルとの恋(愛人関係)は、クレオパトラ7世とクレオパトラ14世の結婚後も続き、カエサルとの間にカエサリオンという男の子を設けました。
◆カエサル、ローマで独裁官に任命される
カエサルはその功績から、ローマで名誉ある役職である独裁官に任命されました。
この時、クレオパトラ7世はカエサルのローマ行きに随行したとされています。
カエサルはクレオパトラ7世との息子カエサリオンを腕に抱き、ローマの街を凱旋しました。この様子を、クレオパトラ7世はひっそりと見物したと言い伝えられています。
また、この時、敗北したプトレマイオス13世側についていた、クレオパトラ7世の妹、アルシノエ4世は、悲劇的にも見世物として、ローマ中を引き回されたとされています。
結局クレオパトラ7世は実の弟と妹を死に追いやってしまいましたが、この時代、王族内の内乱の中で生まれ、王族として少女時代を過ごしてきたクレオパトラにとっては生きていくためにしごく当たり前のことだったのかもしれませんね。
カエサルは愛人であるクレオパトラを隠そうとはせず、クレオパトラがローマ入りした際も息子さえサリオンを連れて行ったり、神殿にクレオパトラの金箔貼りの彫像を建造させたりとの行動に出ています。
また、当時のローマではエジプト女王であるクレオパトラのエキゾチックな髪形や、身に着けていた真珠のアクセサリーなどが流行し、このいわゆる「クレオパトラスタイル」のファッションを多くの女性が楽しんでいたと言われています。
このように、クレオパトラ7世は一部の女性のファッションアイコン的存在としてカエサル画が亡くなるまでローマで過ごしたそうです。
一見ローマの人気者のように見えるクレオパトラですが、「自分がエジプトの女王」であると度々主張していたため、多くのローマ市民からは実際には嫌われていたとのことですが・・・。
ですが、このクレオパトラとカエサルの蜜月関係にあったローマでのまさにこの時が、エジプト王国とローマの平和の頂点であり、クレオパトラ7世の生涯の幸せの絶頂であったとされています。
しかし、この絶頂はもろく、崩壊の足音が近づいていました・・・。
◆カエサル死す
当時、カエサルはローマの民衆から大変な人気がありました。
カエサルはその人気と自身の持つ軍事力で、当時、共和国家のローマにおいては異例の絶対的な権力と権限を持つ終身独裁官に任命されました。
このような情勢の中で、カエサルは当初の様子とは異なり、徐々にその権力からか横暴さが目立つようになっていったのです。
そして、そのことに危機感を抱いたのが、ローマの最終決定事項を決める元老院です。
そして、ついにローマではこの元老院を中心としたカエサル排除運動が始まったのです。
そしてついにカエサルにとってもクレオパトラにとっても、運命の日がやってきました。
紀元前44年3月15日、カエサルは占い師などに「3月15日に注意せよ」と何度も忠告を受けていたにもかかわらず、その警告を全く無視し、いつも通り元老院に出席しました。
そして、会場となったポンペイウス劇場の前で、カエサルはとても可愛がっていたブルータスに刺殺されてしまうのです。
カエサルが死ぬ間際に呟いたとされる「ブルータス、お前もか」という言葉は、歴史の中でもあまりにも有名な言葉となっていますよね。
この言葉はのちに、シェイクスピアが作った架空のものだったとされていますが、カエサル本人が実際にこのような言葉を言ったという説も根強くあります。
ユリウス・カエサルは事実上の独裁者として腕をふるっていました。
その中で信頼できるわずかな人々にまで裏切られてしまったということは、死ぬ間際であっても大変ショックであったであろうことは容易に推測されますね。
◆カエサルの死後のクレオパトラ
カエサルが存命中、クレオパトラ7世はローマに滞在していたとされています。
しかし、カエサルの訃報を聞いた後、急いでカエサリオンを連れてローマを後にしました。
これは、カエサルの愛人であり、何よりもエジプトの女王であるクレオパトラが、カエサルとともに殺される訳にはいかないからです。
クレオパトラ7世は、エジプトに帰還後、正当な後継者がいないカエサルに、自分とカエサルとの子をであるカエサリオンを押しましたが、やはりそうはいきませんでした。
正式な後継者としての遺言があったことから、カエサルの甥にあたるアウグスティヌスが後継者に選ばれました。
そのアウグスティヌスは、カエサルの実子であるカエサリオンを後継者として押そうという動きがあることや、自身が養子であることから、カエサリオンやクレオパトラ7世を追撃します。
さらに追い打ちをかけるように、クレオパトラ7世の共同統治者でもあり弟であり夫のプトレマイオス14世も無くなってしまいました。
このことで、クレオパトラ7世はもちろん、エジプト王国までもが大きな危機に陥ります。
クレオパトラ7世は、カエサルと出会って運命の恋をし、子供を産み、女王として、そして母親として、女性の幸せを掴みました。
しかし、クレオパトラ7世が愛に生きた幸せな時代はこれにて終焉を告げます。
この後、クレオパトラ7世の人生は、さらなる困難が待ち受けることになるのです。
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