皇女アナスタシア③ 幽閉(軟禁)生活。革命後、イヴァチェフの館での恐怖と忍耐の日々。

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ロシア、ロマノフ王朝の皇女アナスタシアの生涯(人生)についてブログでご紹介しております。

 

アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ 当時は肖像画ではなく写真がありましたからモノクロの沢山の姿が残されています。

 

◆これまでの「皇女アナスタシアの生涯」の内容はこちらのブログ記事を合わせてどうそ♪

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皇女アナスタシアの生涯① ロシア革命で処刑されたロマノフ家の四女。その容姿は美形?

 

アナスタシアの生涯②ラスプーチンとの関係 幼少期の環境とロシア革命までの経緯。

 

 

前回のブログ記事にてご紹介いたしました、側近であった僧侶ラスプーチンの壮絶な死とともに、アナスタシアたち皇帝一家にも同じく恐ろしい死の運命が急速に近づいて来ることになるのです。

そう、彼の死はその忌まわしい予言とともに、まさに、皇帝一家の悲劇の運命の序曲だったということになります。

 

ラスプーチンの死からわずか約3か月の後、いよいよロシア革命という大きな嵐が始まったのです。

そしてそのロシア革命の結果、皇帝ニコライ2世は皇帝の座を退位することを余儀なくされ、臨時政府によって皇帝一家は幽閉されることになりました。

そして各地を「たらい回し」にされることになるのです。

 

このロシア革命での幽閉を境に皇女アナスタシアの身上も当然がらりと変わっていきました。

 

革命派の臨時政府により監禁された皇帝一家は、最初はペトログラード郊外のツアールスコエ・セローにある宮殿に軟禁されることになりました。

 

それから約半年後の1917年8月、次いで皇帝一家はシベリアのトボリスクに移送されます。

 

こちらの写真はシベリアのトボリスクの一家が軟禁された館。

冬はマイナス40度、ここで春まで過ごしました。

 

1918年春 トボリスクに軟禁されていた頃のアナスタシアです。

 

さらに翌年1918年の春、四月にはウラル地方のエカテリンブルクに移されます。

そしてそこの大きな館に軟禁されることになりました。

そう、この間一家はまさにたらい回しされたのです・・・。

 

シベリアからエカテリンブルグのイバチェフの館へ移送される船中の皇太子アレクセイと長女オリガ。

これは、最後の写真といわれています・・・。

 

このエカテリンブルクの館は革命前はイバチェフという富商の屋敷でしたが革命後に臨時政府に差し押さえられたもの。

そして、これが皇帝一家にとっての終の棲家となるのです・・・。

そう、皇帝一家はこのエカテリンブルクのイバチェフの館に閉じ込められ、軟禁されたままあの恐ろしい最後の日を迎えることとなる運命なのです。

 

アナスタシアの宮殿での何もかも満ち足りた贅沢な皇女としての暮らしから一転、臨時政府に軟禁されてのこの状況。

この間のアナスタシアをはじめ、力なく哀れな皇帝一家にとっての苦渋に満ちた日々、そして一家の最後の時が訪れるまでの足取りとは一体どのようなものだったのでしょうか・・・?

 

今回はアナスタシアと皇帝一家の革命後の幽閉生活についてブログで追ってみていきましょう。

 

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★皇帝一家の幽閉 恐怖と忍耐、苦しい受難の日々

 

 

ロシア革命により逮捕され、幽閉されたロシアロマノフ王朝最後の皇帝であったニコライ2世には、皇后のアレクサンドラ、皇太子である長男アレクセイ、そしてアナスタシアを含む4人の皇女がいました。

 

皇帝一家が逮捕された1918年7月の時点で、長女のオリガは21才、次女のタチヤナは20才、三女のマリアは19才、四女のアナスタシアは17才、そして、皇太子アレクセイに至ってはまだ14才という若さでした。

 

みんな美形・・・☆

 

皇帝一家にとってのこの終の棲家となるエカテリンブルクのイパチェフの館は、革命後に臨時政府に没収された二階建ての大きな館でした。

この館に皇帝一家は四六時中閉じ込められ、軟禁生活を余儀なくされたのです。

 

エカテリンブルクの館での軟禁生活の中で一家を警護することになったのは、これまでの宮廷での暮らしのような皇帝一家に献身的な兵士たちではなく、一家に敵意をむき出しにした革命派の人間となります。

 

ですので、彼らがまるで競い合うかのように、全ての権力を失い無力となった皇帝一家をいじめて楽しんでいたということは誰にも容易に想像できますよね・・・。

 

こちらがエカテリンブルグのイパチェフ館です。 外部を見ることができないように高い塀で覆われました。

 

この軟禁生活は実際、何ともいえないひどいものであったといいます。

一家は外出はほとんど許されず、廊下に出ることすら兵士の許可をもらう必要があるほど自由を奪われました。

 

さらに、屋敷の窓という窓は全て白く塗り潰されてしまい、外の景色を見ること出来ないどころか、陽の光すらほとんど入らず、皇帝一家は一日のほとんどの時間を、この陽の当たらない薄暗く陰湿な部屋で過ごさなければならなくなりました。

そして、その部屋の壁には見るに耐えないような落書きをされ精神的にも耐え難い環境下に置かれました。

 

イバチェフの館で皇帝、皇后、アレクセイの三人が使用していた部屋。富商の館だけあって意外と?豪華ですがなんだか陰気な感じが・・・

二階廊下

 

そして、最期に訪れる悲劇の部屋のドア・・・。

 

また、皇帝一家が眠っている時、真夜中に酒に酔っぱらった兵士が部屋に乱入し、引き出しの中の衣類などを引っ掻き回すことなどはしょっちゅうで、皇帝一家の私物は兵士たちによって盗まれることはもう当たり前。

 

さらに、幽閉生活の中で唯一の楽しみとなる食事すら、もうそれはひどいもであったといいます。

味の薄いスープに黒パン、肉のないカツレツ・・・と、不味い同じものばかりが毎日続くのでした。

食器すら必要な数が支給されず、皇帝一家と従者とで食器を使い回しして使わなければなりませんでした。

 

これは食堂になります。

 

心無い革命派の護衛たちは、皇太子であるアレクセイの玩具を取り上げてからかったり、元皇帝であるニコライ二世が自転車に乗っているのを、背後からわざと突き飛ばしたりしていたといいます。

 

また、21才~17才という、年頃の女性であったアナスタシア達皇女は、彼らの下品で厭らしい視線で、四六時中無遠慮にじろじろと眺め回され、聞くに耐えないような下品で野卑な言葉を浴びせかけられました。

 

皇女たち。末娘の四女で一番小柄なのがアナスタシアです。

 

そして、年頃の皇女たちにとって最も辛かったことは、トイレに行く時だったといいます。

トイレに行く際に、この護衛の兵士たちの前を通らなければならず、その度に下品で卑猥な言葉で侮辱を受けなければなりませんでした。

 

また、警備兵たちと同じトイレを使なければならず、卑猥な落書きがされていたり、その使い方のひどさにも辟易としていました。

 

このような劣悪でひどい環境の中では、病弱である皇后のアレクサンドラは持病の心臓病が悪化し、少しでも体を動かすと呼吸が困難になっていきます。

そして、生まれつき血友病を患っていた皇太子のアレクセイに至っては、両足が完全に麻痺してしまい、とうとう歩くことすら出来なくなり、寝たきりとなってしまうのです・・・。

 

ですが、ニコライ2世とアナスタシアをはじめとする皇女達、皇帝一家の絆はとても固く結ばれていて、この状況の中でなお、格別にお互いを思いやる気持ちを失わないでいたといわれています。

そして、病気で弱っている皇后アレクサンドラも、この苦境に必死になって堪え忍んでいるという様子が見られました。

 

皇帝一家

 

これまでの宮殿での暮らしとはまるで違う、この不自由で屈辱に満ちた悲惨な暮らしを、懸命に耐えている皇后と皇女達を、父であるニコライ2世はいじらしく思いながら、力を失った彼にはもうじっと見守ることしかできませんでした。

 

この家族の生活の苦境のために、護衛兵に度々交渉を重ねますが、望みを聞いてくれることはほとんどありませんでした。

 

薄暗い部屋の外では連日、革命政府の兵士たちが一家を侮辱する下品で卑猥な聞くに堪えないような歌を大声で歌っていました。

そんな時は、家族全員で賛美歌を歌い、兵士たちの歌が耳に入らないようにして耐えました。

 

まだ少女だったアナスタシアはこの先近い将来に訪れる、自らと家族の恐ろしい悲劇の運命をまだ知る由もありません・・・。

この館での悲惨な暮らしの中で耐え忍びながらも、もともと明るい性格だった彼女は、姉たちと共にまだ無邪気な日々を過ごしていました。

 

この先は、アナスタシアの生涯④に続きます。

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アナスタシア④皇帝ニコライ2世一家殺害(銃殺)、アナスタシア生存説の真相

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