ロシア、ロマノフ王朝最後の皇女アナスタシアの生涯(人生)についてブログでご紹介しております。
アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
肖像画ではなく写真がありましたのでアナスタシアはモノクロの沢山の姿が現在に残されています。
◆これまでの「皇女アナスタシアの生涯(人生)」の内容はこちらのブログ記事を合わせてどうそ♪
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皇女アナスタシアの生涯① ロシア革命で処刑されたロマノフ家の四女。その容姿は美形?
アナスタシアの生涯②ラスプーチンとの関係 幼少期の環境とロシア革命までの経緯。
皇女アナスタシア③ 幽閉(軟禁)生活。革命後、イヴァチェフの館での恐怖と忍耐の日々。
前回のブログ記事ではロシア革命後、革命政府に捉えらえ幽閉され、たらい回しにされていたアナスタシアたち皇帝一家の暮らしについてご紹介いたしました、
こちらは1914年10月に撮影されたアナスタシアの「自撮り」写真です。
エカテリンブルクのイヴァチョフの館に軟禁状態で暮らしていた皇帝一家、その暮らしはそれはひどいものでしたが、そんな状況の中でもアナスタシアたち皇帝一家の家族の絆はより固く結ばれ、アナスタシアは姉たちと無邪気に日々暮らしていたといいます。
皇女たち。
軟禁下の1917年春 ツァールスコエ・セローにて。手前がマリア、奥がタチアナと。素敵な姉妹ですね。
★突然の悲劇 皇帝一家の殺害
ですが、悲劇は突然にやってきます。
翌年1998年の7月、真夜中に眠っているところを突然にたたき起された皇帝一家家族たちは、「白衛軍(反革命軍)が迫って来ている」という口実で館の地下室に全員集められました。
そして、哀れなことに、皇帝一家はそれっきり二度と生きて戻ることはなかったのです・・・。
元皇帝ニコライ2世及びその家族達は、イヴァチョフの館の地下室で、血に飢えた革命政府の手により全員永遠に抹殺されてしまったのです。
恐怖の地下室のドア。
寝ているところを突然起こされ、地下室に召集された一家、よもやそこで家族に身の毛もよだつような恐ろしい悲劇が起ころうとは誰一人思っていませんでした。
ですが、一家はその日、そのまま革命軍の手より全員銃殺となってしまったのです。
四女である皇女アナスタシアも、確かにその時に銃殺されたといわれています・・・。
皇帝一家の殺害現場となったエカテリンブルクのイパチェフ館地下2階。
★アナスタシアは生きている 囁かれる生存説
そして、まさにこの時から、皇女アナスタシアに関する不可解な噂が世界中で取り沙汰されることになるのです。
「アナスタシアは生きている」と。
1918年5月、トボリスクからエカテリンブルクへ向かう途中に乗船した『ルーシ』号にて撮影された写真、既知のアナスタシアの最後の写真となっています。
ロシアロマノフ王朝元皇帝ニコライ2世一家が全員殺害されたというこの衝撃的なニュースは、たちまち世界中を駆けめぐりました。
ですが、史実で明らかにされたのもこの「一家が殺害された」というところまででした。
そう、誰一人、皇帝一家殺害に関して詳しいことは知らないという状態だったのです。
おそらく、当時のボリシェビキ政府が皇帝一家の殺害に関して、固く隠蔽工作を計ったためかと思われますが、この後ニコライ皇帝一家の殺害の真相は謎とされ、その後ずっと神秘のベールに包まれるという運命にありました。
そして、驚いたことに、いつの頃からか誰からともなく「アナスタシア姫は生きている」という噂が流れ、アナスタシア生存説が人々に信じられるようになったのです。
殺害当時、一番年下だった末娘のアナスタシアだけは、銃撃により意識不明となりましたが、彼女に好意を持つ兵士によって密かに救出され、その後どこかにかくまわれた。
そして、この恐ろしい惨事を逃れロシアから脱出し、どこかで生存しているのだという噂が立ち始めたのです。
ソビエト政権の隠蔽工作または革命後の国内の混乱がそんな噂を生み出したようですが、世界でアナスタシア生存説が取り沙汰されるようになったのはこうした由縁によります。
そして、世界中でアナスタシアが難を逃れ、ロシア国外で生き続けているといったミステリー本が数多く出版されました。
また、ハリウッドでは、このアナスタシア生存説を題材にした映画が二度にわたり作られるなど、ものすごい反響となりました。
そして、悲劇の皇女アナスタシアの物語は、それからもたくさんの人々の関心をかき立てていくのです。
皇女アナスタシア⑤へ続きます。
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ロシア皇女アナスタシア⑤アナスタシアを名乗る「アンナ・アンダースン」は偽物?映画化されブームとなった生存説の真相は?
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