ロシア皇女アナスタシア⑧遺骨の発掘とDNA鑑定。「アナスタシア伝説」とニコライ2世一家殺害事件(処刑)の結論は?

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こちらでは、ロシア、ロマノフ王朝最後の皇女「アナスタシア」の人生(生涯)についての詳細を追ってご紹介しております。

 

アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ 

皇帝ニコライ2世一家は写真が趣味で現在でも、たくさんの家族の写真や動画(音声なし)が残されているところもまた興味深いです。(カメラはニコンを愛用していたとのことです。)

 

 

◆これまでこちらでご紹介してきました「アナスタシアの生涯(人生)①~⑦」に関しましては、こちらブログ記事でどうそ。

↓  ↓  ↓

 

皇女アナスタシアの生涯① ロシア革命で処刑されたロマノフ家の四女。その容姿は美形

 

アナスタシアの生涯②ラスプーチンとの関係 幼少期の環境とロシア革命までの経緯。

 

皇女アナスタシア③ 幽閉(軟禁)生活。革命後、イヴァチェフの館での恐怖と忍耐の日々。

 

アナスタシア④皇帝ニコライ2世一家殺害(銃殺)、アナスタシア生存説の真相

 

長きにわたりボリシェヴィキ政府の隠蔽工作のため闇に包まれ、「アナスタシア生存説」など世間の人々の関心を集めてきた元ロシア皇帝ニコライ2世一家の処刑(虐殺)の真相がとうとう明らかになりました。

 

一家の遺骨は博士らの証言通り、即刻、掘りおこされました。

一家の遺骨は、エカテリンブルク近郊のコプチャキ村に向かう街道の真下に埋められていました。
そして、掘り出された遺骨は、鑑定でその後、「ニコライ2世皇帝一家のもので間違いない」と判定されたのです。

 

そして、1998年、ロシア政府により、皇太子アレクセイと第三皇女マリア以外の遺体は確認できたたと公表されたのです。

(アレクセイとマリアの遺体は別の場所に埋められているのが後に発見されています。)

 

度々生存説が囁かれてきたアナスタシアの亡骸もそこには存在し、この鑑定により、掘り起こされた遺骨がアナスタシア本人のもので間違いないと判明したのですから、「アナスタシア生存説」の根拠がこの時点で消えてしまったということになります。

 

ニコライ2世とその子供たち。一家の写真は現在も多く残されており、見る者の胸をうちます・・・。

 

★DNA鑑定により解き明かされた真実

 

遺骨が発掘されDNA鑑定により本人であるの結果が出ましたが、「アナスタシア伝説」を固く信じて疑わない人々の中には、アナスタシアはやはり難を逃れて外国に亡命し、別の運命を辿ったのだと主張してはばからない人々もいました。

 

こうした中、この「アナスタシア生存説」を信じて疑わない人々にとって、さらに駄目押しとなるような歴史の真実が判明することになるのです。

 

生涯、自ら「アナスタシアだ」と名乗り通し、1994年に既に亡くなっていた女性「アンナ・アンダーソン」。

(こちらのブログでもご紹介しておりますので、よろしければ合わせてどうぞ。)

 

彼女が果たして本当にアナスタシアだったのかを判明するべく、アンダーソンの遺伝子鑑定もとり行われたのです。

アンナ・アンダーソンは、生前に手術をした経験があり、その際に摘出された臓器(小腸)の一部が病院に標本として残されていたのです。

 

アンナ・アンダーソン

 

そして、DNA鑑定の結果、アンナ・アンダーソンの本当の正体は「フランツィスカ・シャンツコフスカ」というポーランド人農夫の娘であり、ロシア皇女アナスタシアとは全く別の人物であったということが判明されたのです。

(もっともこのことは、アンダーソンが存命中から付きまとっていた疑惑でもあったのですが・・・。)

 

この、アンナ・アンダーソンが自らを「アナスタシアである」と名乗り出るまでの経緯としましては、

1920年、アンナ・アンダーソンこと本名ランツィスカ・シャンツコフスカは、当時ベルリンの爆弾工場で働いていました。

そしてある日、誤って安全ピンを外してしまい、手榴弾を爆発させるという爆発事故を起こしていたのです。

 

そしてその際、隣にいた同僚は爆死、フランツィスカも重傷を負うことになったのです。

彼女はその爆発事故をきっかけに精神錯乱に陥り、後に精神病院に収容されていたのですが、彼女がアナスタシアを名乗り世間に登場する数週間前のこと、入院していた精神病院を脱走し行方不明となっていたのです。

 

精神病院を脱走したアンダーソンでしたが、精神錯乱状態にありましたので、ベルリン市内を流れるラントヴェア運河に飛び込み自殺をはかるのです。

ですが、彼女は運よく発見され、一命をとりとめることとなったのです。

 

徐々に回復していたアンダースン、次第に「自分はロシア皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタシアである」と主張し始めるようになるのです。

彼女はボリシェヴィキ政府により処刑されるところを、命からがら脱出してきたと語り始めたました。

 

彼女にはベルリンの工場の爆発事故の際に負った傷があり、明らかに身投げによるものではないその無数の傷は、処刑から逃れる際に負った傷だと主張しました。

 

生涯自分はアナスタシアであると主張し続け、彼女を支持する人々に支えられその人生を閉じたアンナ・アンダースンでしたが、当時はまだなかった「DNA鑑定」という最新の法医学による判定により、死後、ついにその正体が世の中に判明されることになったのです。

 

アンダーソンは既に故人となっていましたが、DNA鑑定の結果、「ポーランド系ドイツ人の精神異常の女性だった」ということで結論付けられ、結局、ロシア皇女アナスタシア本人ではなかったというジャッジが下されました。

 

その生存中にアンダーソンの詐称を証明することはできませんでしたが、こうして、アナスタシアの死にまつわる、謎に包まれてきたベールもここへ来てついに払拭されたのです。

そして、数十年もの長きにわたり、多くの人々により論争され続けてきた「アナスタシア伝説」も、このような形でようやく幕を閉じることとなったのです。

 

★時を経て今も人々の心の中で生き続ける「皇女アナスタシア」

アナスタシア、姉である第三皇女マリアと。歳が近かったせいか、アナスタシアはマリアと一緒の写真が多いです。

 

元ロシア皇帝ニココライ2世の第四皇女アナスタシアは、エカテリンブルグのイヴァチェフの館のあの薄暗い地下室で、両親、姉弟たちと共に銃殺によって処刑されたという歴史の判定が下されました。

 

それにしても・・・、

この「アナスタシア伝説」ほど長きに渡って様々な疑惑を生み、世間人々の関心や好奇心を捉え、多くの話題を提供してきた事柄も歴史上そう多くは存在しないのではないかと思います。

 

生涯「自分はアナスタシアである」と主張し続けたアンナ・アンダーソン。

そして、世間もそれに対し賛否両論は分かれましたが、彼女の主張に最後まで引きずられていたような感じもあり、視点を変えてみますと、アンナ・アンダーソン自身は、本当に自分自身がアナスタシアであると紛れもなく信じ込んでいたのかもしれません。

 

今となっては彼女の心の中の真実を探ることは不可能ですが、爆発事故後、精神錯乱状態に陥っていたこともあり、激しい思い込みにより、いつしか自分が全く別の人物であると信じて疑わなくなるということは彼女に限らず十分にあり得ることなのではないでしょうか。

 

そして、そんなアンダーソンが生涯「彼女こそアナスタシアっである」と信じて疑わない根強い支持者達に最期まで支えられ続け、その生涯を閉じたという事実も、歳若くして処刑されてしまった皇女アナスタシアに対する、世の人々の同情心や哀れみなどの感情が、アンダーソンのような存在を助長してきたともいえるのではないでしょうか。

 

皇帝(ツアーリ)の娘だったというだけで何の罪もないのに歳若くして処刑(虐殺)された哀れな皇女アナスタシア。

この世に多くの未練を残していただろうその魂が、彼女に対する同情や哀れみなど・・・果てしない感情を抱く世の人々の心の中に、引き寄せられていったことが、この一連の「アナスタシア伝説」へと繋がっていったようにも思えてなりません。

 

そして、アンナ・アンダーソン自体も、精神を病んではいましたが、やはりアナスタシアを強く思うが故という本質がそこにはあったのではないかと思われます。

 

「アナスタシア伝説」は、100年もの時が流れた今日でも、ロシアの人々の心の中に根強く残っています。

「アナスタシア姫はその時、命からがら処刑を逃れ、この世の何処かで生存し、そしてその生涯を無事に終えた」のだと・・・。

(同じように弟の皇太子アレクセイの生存説も囁かれていました。)

 

弟の皇太子アレクセイ。処刑当時はまだ13才でした。

 

それは、革命の露と消えていったロマノフ王朝への人々の哀愁と憐憫、哀悼の入り混じった気持ち、そして間違ってしまった歴史への後悔の念からもたらされるものなのかもしれません。

 

皇帝(ツァーリ)による専制君主体制をあくまでも守りきろうとした結果、華やかだったロマノフ王朝の最後は大変悲劇的な運命を迎えりことになりました。

 

ですが、革命による帝政崩壊後にもたらされた、ソビエトによる74年間にわたる全体主義体制は、人々にとって革命以前よりももっと悲惨な状態に、もう、取り返しのつかないほどの巨大な悲劇に向かっていくのでした。

 

そしてそれ故、人々は自由の全くなくなった当時の陰惨な状況を呪い、明るく天真爛漫、ひょうきん者でおてんば娘だった帝政時代の最後の皇女「アナスタシア姫」を慕う気持ちが心の中に芽生えてきたのかもしれません。(実際にアナスタシアは一番庶民に親しまれていました。)

 

変顔をするアナスタシアの貴重な写真。それにしても変顔のレベルが高すぎやしませんでしょうか?彼女のひょうきんだった素顔がうかがえます。

こちらはアナスタシアによる「自撮り」。

父、ニコライ2世とアナスタシア。

 

そして、時がたった今日現在も、アナスタシアは人々の心の中に永遠に生き続けているのです。

 

現在、ロマノフ一家が処刑(惨殺)された場所であるエカテリンブルグのイヴァチェフの館の跡地には、ロシア最大級の正教会の聖堂「血の上の教会」が建てられています。

(この忌まわしい館は、後に住民にとっても来訪者にとっても、常に強い関心をかき立ててきたため、ソ連税府の命令により1977年に取り壊されました。)

 

ですが、その地を訪れる人々には、今から100年ほど前の、あのロマノフ一家に降り掛かった恐ろしい出来事が、否応なしに思い浮かぶことに違いありません。(名前も血の上の教会ですしね・・・。)

 

ロシア「血の上の教会」はまさに一家が惨殺された地の上に現在建っています。

 

いつしか「アナスタシア生存説」という伝説を生み、そして現在では歴史による悲劇の真実として後世にも永遠に語り継がれていくことになる、この深い悲しみに満ち満ちたた恐ろしい事件のことを・・・。

 

一家の処刑後、この殺害現場で一冊の聖書が発見されたといわれています。

そして、その聖書には、美しかった4人の皇女たちが書いたであろうと思われる「願い」が記されていたのです。

 

長女オリガ、次女タチアナ、三女マリア、そして四女アナスタシア。

こちらはモノクロ写真を後に色付けしたものです。本当に美しい四姉妹。

 

神さま、どうか 私たちに耐え忍ぶ力をお与え下さい。
彼らの迫害と拷問をも赦せるほどの、強い意志を私たちになにとぞお与え下さい。

 

それは、宮殿での華やかで豊かな暮らしから捕らえられ、幽閉された不自由極まりない劣悪な環境の中、粗暴な兵士たちの侮辱や嘲りにも負けず、ひたすら神を信じ、祈り、願い、そしてお互いを懸命に励まし合っていた美しい姉妹たちの記録と思われるものでありました。

 

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