ロシア・ロマノフ王朝最後の皇女「アナスタシア」を皆さまはご存知でしょうか?
いまも生存説が絶えないロマノフ王朝最後の皇女アナスタシア(1901~1918頃)
ロシアのロマノフ王朝二コライニ世の皇女アナスタシアは、1917年のロシア革命の翌年、両親や兄弟とともに処刑されたといわれています。
ですが、その一方で、彼女だけは生存説もささやかれ、後に自分はアナスタシアだと主張する人物も現れているのです。
彼女が口にするアナスタシアろしての奇妙な運命は多くの人々の注日を集めましたが、今なお、その真実はベールに覆われたままとなっています。
私も「ベルサイユのばら」でお馴染みの池田理代子さんの漫画「オルフェウスの窓」を最近読んだのですが、そのロシア革命をモチーフにしたストーリーの世界観に圧倒され、現在ロシア革命について色々調査中。
その中で、やはりこのロシア最後の王朝であるロマノフ王朝二コライニ世及びその家族の処刑に至るまでの経路と目も当てられないほどの悲劇の運命には注目せざるをえません。
「オルフェウスの窓」の作中ではアナスタシアのエピソードは詳しく描かれていなかったのですが、この悲劇、そして数奇な運命に翻弄された皇女の人生にがぜん興味が湧いてきますよね!
今日はこちらのブログで、そんなロシア・ロマノフ王朝の最後の皇女、アナスタシアの人生(生涯)をブログで追っていきたいと思いますので、よろしければお付き合いくださいね。
★ロシア・ロマノフ家の末娘として生まれたアナスタシア、その容姿は美形?
アナスタシアの正式名称は「アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ」。
1901年6月18日、ロシアのロマノフ王朝の皇帝二コライー二世と、イギリスのヴィクトリア女王の血を引くアレクサンドラ皇后との間の四女として誕生しました。
そんなロシアのお姫様、アナスタシアのお顔を早速チェックしてみましょう☆
こちらは1914年頃のお写真ですので13歳くらいでしょうか。
私は歴史の中の美女をウォッチすることが大好きなのですが、例えばこちらのブログ記事でも多くの記事で取り上げているマリーアントワネットなど王妃や愛妾といったポジションにいた女性たちはたいてい「美女」と言い伝えられている傾向がありますが、なにしろ肖像画しかない時代は、実際、本当に美しかったかは怪しいところなのです。
マリーアントワネットの生涯についてはこちらのブログ記事にて詳しくご紹介していますのでよろしければどうぞ☆
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マリーアントワネットの生涯① 幼少時代~ウィーンの宮廷での生活とモーツアルトからのプロポーズ♪母マリアテレジアの方が実は美女だった!?
マリーアントワネット② 悲劇を暗示する結婚式にまつわる五つの不吉。また、肖像画によって違う彼女の本当の容姿(顔)は?
肖像画はたいてい嘘つき。
現在私たちがアプリなどで行っているレベルの修正がされていたりしますので、本当に美人だったのかというのは推測するより仕方がありません。
ですが、こちらのアナスタシアは19世紀で白黒とはいえ写真としてその姿が多数残されていますので、ごまかしようのない時代の女性。
まだ13歳で少女ですが間違いなく整ったお顔立ちをされていて美形だったということがわかりますね☆
実際、アナスタシアはお写真のような小柄でかわいらしく、灰青色の瞳がチャーミングな皇女だったと言われています。
四姉妹の末娘、一番小柄だった皇女アナスタシアは見た目可愛いだけではなく、その性格も明るく茶目っ気たっぷり。
よく人の真似をしては周りを笑わせるのが好きな少女でした。
そのためか?皇帝夫妻はことのほかこの四女のアナスタシアを可愛がっていたと言われています。
アナスタシアの父である二コライ二世は皇帝としての貫禄にはやや欠けたところがあったと伝えられていますが、四人の皇女と一人の皇太子に恵まれ、よき父でした。
ロシア・ロマノフ王朝最後の皇帝 ニコライ二世
皇帝一家は、ただ一つ、息子である皇太子が思い「血友病」を生まれつき患っていたということを除けばとても幸せな一家でした。
★ロシア革命による悲劇の始まり
恵まれた子供時代を過ごしていたアナスタシアでしたが、当時二十世紀のロシアは内政に対する不安が爆発し、各地で暴動が勃発しているという激動の時代を迎えていました。
そして、そんな中、アナスタシア、ロマノフ一家の身近にも刻一刻と不吉な足音が近づいてきていたのです・・・。
そう、「ロシア革命」という大きな歴史の嵐の前に、ロマノフ王朝はまさに風前のともしびという状況の前に立たされていたのです。
当時のロシアの民衆の不満はいよいよ最高頂に達していました。
宮廷の内外でも陰謀やテロ、暴動が頻発するようになり、そして、やがてそれは「ロシア革命」という大きな歴史の嵐へと拡大していったのです。
1917年3月、ついに運命の日がやって来ます。
ロシアの民衆たちは皆、手に手に武器を取り、まだ粉雪の舞う広場になだれ込んできます。
そして、その辺りには、民衆の手によって殺された警備兵の無残な遺体が幾重にも折り重なっていました・・・。
群衆は、皆口々に「自由を!」「平和を!」と叫びながら走っていました。
そして、遥か向こう、この民衆の群れが目指していたのは、これまでの長く厳しい独裁体制を象徴するかのような冬宮殿だったのです。
このロシアの「3月革命」により樹立された臨時政府は、独裁君主体制の廃止を宣言します。
そして、その結果、皇帝ニコライ二世はとうとう退位するに追い込まれ、ついに300年間続いた歴史あるロシアのロマノフ王朝が終焉の時を迎えたのです。
そして、皇帝ニコライ二世、及びその一家はこの臨時政府によって逮捕され、以降、長く、辛く、不自由極まりない「監禁生活」を余儀なくされるのです。
皇帝一家 右端の少女がアナスタシアになります。
ですがこの時、革命に勝利し、一見自由と平和を勝ち取ったかのように見えるロシアの民衆たちにとって、実際にはこれまで以上に長い忍耐と苦痛に満ちた残酷な時代が訪れることになろうとは、この時はまだ誰も想像すらしていなかったのです・・・。
次回、「アナスタシアの生涯②」のブログ記事へ続きます。
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アナスタシアの生涯②ラスプーチンとの関係 幼少期の環境とロシア革命までの経緯
皇女アナスタシア③ 幽閉(軟禁)生活。革命後、イヴァチェフの館での恐怖と忍耐の日々。
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