私は歴史の中に存在した美女たちの人生にとても興味があります。
今日はブログで、19世紀フランスの第二帝政を崩壊させたとも言える一人の高級娼婦(クルチザンヌ)
『ラ・パイヴァ候爵夫人』の生涯についてご紹介してみたいと思います。
こちらの後ろ姿の女性が『ラ・パイヴァ』
このお写真がラパイヴァの悪と美貌、そして哀しさを表していて一番彼女らしいんじゃないかと思います。
彼女(ラ・パイヴァ)の本名はテレーズ。
1819年、ポーランド人両親の移住でモスクワのユダヤ人街に産まれました。
ここですかさず、気になるお顔チェック
高級娼婦というより清楚で可愛らしい印象・・・
下層階級だったけれど器量良しなテレーズは、17歳で仕立て屋のフランス人と結婚。
男児を出産しますが、貧乏暮らしに耐えられず、夫と子供をを捨てパリにやってきました。
もちろん当てもないので、テレーズはサンポール教会近くのスラム街におりましたが、
意志の強いテレーズは、21歳の時には少々の財産を手にしていました。(この頃から娼婦の仕事をしていたのでしょうね。)
その後、パリで売れっ子のピアニスト、ヘルツの愛人になり再び結婚します。
ヘルツは妻をチュイルリー宮殿に連れていきましたが、当時の王妃マリー・アメリーは、彼女に会おうともせず、パリ上流社会全体もテレーズを自分たちの仲間とはみなしてくれませんでした。
王妃 マリー・アメリー・ド・ブルボン たしかに厳しそう
王妃マリー・アメリーはれっきとした王家の出身でフランス王妃になった女性。
しかも、自由思想の持ち主である夫の国王とは違って、極端な絶対王政主義者。
伝統を尊重するタイプの女性でしたので、テレーズのような貧しい最下層の出自で娼婦の経歴女など、歯牙にもかけなかったのです。
確かにそれは仕方ないことよね・・・って普通は思ってしまいますよね。
最下層の出自で娼婦の経歴なんてすごく苛めらても仕方ないレベル。
(日本の皇室でも民間出身というだけでいじめがあったと言われていますしね。)
でも、テレーズは違いました。
テレーズは全く遠慮せず、むしろ自分を受け入れなかったフランスへの反感と憎悪の感情が芽生えていったのです。
そう、テレーズはただ美しいというだけの女性ではなかったのです。
大変な美貌に加え、頭脳、行動力、そして人並みならない断固とした強い意志という、非常に非凡な才能を持った女性でした。
その、『人並みならぬ強い意志の力』こそテレーズの最大の武器であり、最大の魅力だと私は思うのです。
夫ヘルツは傷ついた妻の気持ちをいたわるためにドレスや宝石をふんだんに与え、サロンまでひらいてやりました。
が、次第にヘルツの財産は行き詰まり、テレーズの乱費癖に恐れをなしてアメリカへ逃亡。
その間にヘルツ家の人々はテレーズを追い出してしまうのです
そしてテレーズは、貧困のために重病におちいってしまいます
その時、かけつけた友人にテレーズが言った言葉がとっても衝撃的ですのでご紹介しますね。
『私が今どんな状態にあるかわかるわね。もしかしたらもう助からないかも知れないわ。
でも万一助かったら、針仕事をして惨めな一生を送るような女にはならないわ。
そして、いつかこのパリで1番の邸宅を持つつもりよ。覚えておいてね』
普通、こんなこと言う
重病で死にそうな女性と思えない程、力強く、強欲で野心的な言葉。
私はこのエピソードを知ったとき、彼女の内面に秘められた非凡さと精神の強さにものすごいショックを受けました。
きっとこういう性格だったからこそ、貧しい最下層の出身ながら、
フランス第二帝政期を崩壊させるまでに上りつめ、栄耀栄華を極めるまでにいたったのでしょうね。
奇跡的に回復したテレーズは英国に移住。
はしりのファッションモデルとして小金が貯まると、再びパリに舞い戻りました。
一世を風靡したクルティザンヌ(高級娼婦)ラ・パイヴァ。
19世紀パリの娼婦の世界には4つのクラスがあったといいます。
1、クルティザンヌまたはドゥミ・モンデンヌと呼ばれた高級娼婦
2、「番号持ち娼婦」と呼ばれる公認娼家の公娼
3、「鑑札持ち娼婦」と呼ばれる自家営業の公娼
4、登録をしていない私娼(落ちぶれた街娼・アルバイト?)
公娼制度は性病の蔓延を防ぐため、医師の検診を義務づけ、
警察が管理し、1946年に廃止されるまで続けられた制度。
当然娼婦というからには、金銭と引きかえに快楽を提供するのですが、
女性はあくまで自由意志で行動し、男が「勝手に」お金を払うという形式をとっています。
客を選ぶ権利は女性の側にあり、現代のタレントや水商売の女性と同じ行動原理に貫かれていたと学者は言っています。
では、一体どのような女性がクルティザンヌ(高級娼婦)だったのでしょうか?
クルティザンヌになるには2の公娼以下の「汚れ?」がついてはなれなかったらしいのです。
クルティザンヌは最初からクルティザンヌとしてスタートしなければならなく、
なろうとしてもなかなかなれない職業だったらしいのです。
まず、第一条件として『美貌』。
そして『エスプリ』が必須。
『エスプリ』=洒落た感覚と教養がなければ話にならないのです。
そして、エスプリのないものは”公娼”クラスに落ちていったそうです。
そこで一つの疑問が・・・
主に下層か中流の下の層の娘がいかにしてエスプリと教養を身につけたのでしょう?
そこにはやはり、彼女達を最初にマナーなどの教育をした男達の存在があったのです。
また画家のマネやルノワールも、こうした娼婦たちにインスピレーションを得て女性たちを描いています。
マネの『ナナ』
高級娼婦というよりも
表情やしぐさ、アクセサリー、ドレス・・・すべてが洗練されて嫌らしくなく、
まるでファッション雑誌の1ページのような印象をうけませんか?
クルティザンヌたちと上流階級の紳士たちは、夜な夜な観劇やカジノなどを楽しんでいました。
当時の女性が最も華やかに映える場所のひとつが劇場の桟敷席。
そこで思いっきり着飾って人々の注目を集めるのが、高級娼婦の一つの役割でもありました。
隣の男性はオペラグラスで、また別の美しい女を眺めているのかもしれないですね・・・
そんな第二帝政期の日常・・・
こんな贅沢と放蕩の限りを尽した、ケタ違いの享楽が当時のパリにはあったのでしょうね。
マネ 草上の昼食
こちらは1865年に撮影された、ドゥミモンドたちが評判のレストランで食事する様子
テレーズ(ラパイヴァ)の人生に戻りましょう。
1849年、テレーズはドイツのバーデンでポルトガル貴族パイヴァ侯爵と出会い、彼を骨抜きに。1851年結婚し、侯爵夫人に出世。
ついにテレーズは、パイヴァ侯爵夫人、“ラ・パイヴァ″となりました
ところが・・・
結婚初夜の翌朝、彼女は言いました。
『あなたは私と寝たかったのよね?あなたはもう満足したでしょう。
私は“地位″を手に入れたからには、あなたには用はないわ。
勝手にポルトガルに帰りなさいよ。
私は“ラ・パイヴァ″という名前でパリに残るわ。』
何それ
彼女は結婚したその翌日に、なんと侯爵を捨ててしまうのです。
ひどい・・・あまりの仕打ちこれじゃパイヴァ侯爵が辛すぎる。
ほとんど計画殺人のようなものですよね
実際、ラ・パィヴァは政治系の謀略陰謀好きな女性だったようです。
そもそも、この婚姻自体が社交界ではありえないのに、田舎者のポルトガル貴族のパイヴァ侯爵は、単に地位を得るために利用されたのです。
ポルトガルに帰った彼は失意のためピストル自殺にまで追い込まれてしまいます
一方ラ・パイヴァは、そんなことはもはやどうでもいいとばかりに、次はプロイセン王の友人であり、ドイツで1、2を争う大金持ちのドンネルスマルク伯爵に狙いをつけました。
ラ・パイヴァのほうが11歳年上だったのですが、見事、ドンネルスマルク伯爵を籠絡。
だいぶお年を召してからの画像ですが、とってもハンサムだったそうですよ
1856年、ラ・パイヴァはまだチュルリーやルーブル宮にいくまでの馬車道だったシャンゼリゼに目をつけ土地を買い、宮殿と言えるレベルの豪華賢覧な『ラ・パイヴァの豪邸』が建設されます。
邸の建設は金に糸目をつけず、
『パリ一豪華に』という彼女の希望通りに建てられました。
早速ラ・パイヴァの邸宅の中をチェックしてみましょう
こちらが贅をつくしたラ・パイヴァの邸宅。
人目を惹く豪華な鉄門。
イタリアルネッサンス風のサロンに通ずる、正面階段の壁はアルジェリアから運ばせた、当時でも珍しい黄色オニックスが使用されました
インテリアにまでジュエリーを使っちゃうなんていくらなんでも豪華すぎる~
美しく優雅な螺旋階段~
パリのオペラ座のホールの天井画を描いたポール・ボドリーによる天井画。
邸宅の所々の装飾も、当時の名だたる職人達に依頼しているのですね
天井の装飾がデコラティヴ豪華ですね
サン・ミッシェルの噴水広場の彫刻を担当したアンリ・アルフレッド・ジャックマールの彫刻を施した暖炉。
暖炉の上の大理石彫刻だけで、2mもあるそう
緑オニックス、金の賦取り、銀の彫刻・・・
暖炉など所々にジュエリーをふんだんに使っています
香水入りの水がでる蛇口つきのクリストフル製の浴槽
寝室に続く、アラブ風装飾浴室の大風呂には3つの蛇口があり、水、湯、そして3つ目の蛇口からは牛乳とシャンパンが流れでてきたそうです
うらやまし~
赤ビロードの椅子をすべらすと、ジンクの風呂桶が現れる構造。
金製の3つの蛇口。
ラ・パイヴァの浴槽
ため息の出るほど贅のつくされたパイヴァの邸宅は、まさに千夜一夜物語の世界
1855年から始められた工事は、10年余をかけて1866年に完成。
数年前、死にかけた時にラ・パイヴァが語った夢がついに実現した瞬間でした
写真画像出典:ameblo.jp
ひとりの娼婦の大成功を象徴する邸。
ナポレオン3世時代の文化人は、こぞって彼女の邸宅に招かれたがりました。
エリーゼ宮裏門から歩いて近いこの邸にはナポレオン3世の義弟も仮住まいしたこともあり、ナポレオン1世兄弟の末裔やメリメ、ゴンクール兄弟、テオドール・ゴーチエ、ガンべッタ等、文化や政治関係者が頻繁に出入りした活気あるサロンとなりました。
しかし、彼女のサロンは著名人が集まりつつも、
上流階級からは成金趣味と嫉妬の入り混じった眼で見られ、実際いつまでも彼女を嫌っている人もいたようです。
でも、一体なぜ?
ドンネルスマルク伯爵はドイツ人、ラ・パイヴァはロシア人であったにもかかわらず、
ここまでパリに執着して暮らしていたのでしょう?
ドンネルスマルクはパリにいても心はドイツにありました。
そしてラ・パイヴァはチュイルリー宮やフォーブル・サンジェルマンに対する自分を受け入れなかった過去から生まれた憎悪と復讐心があったわけで、
二人のもくろみは一致していたのです。
シャンゼリゼのラ・パイヴァの豪華な邸宅は、実際ドイツの諜報活動の重要な拠点であり、
二人の目的はフランスの帝国の崩壊だったのです
後にドイツを統一することになるビスマルク首相とドンネルスマルク伯爵は親友で、
ラ・パイヴァは夫と共に、スパイ活動をしていたそうです。
そしてついに、普仏戦争が勃発。
敗戦したフランス政府は、莫大な戦争賠償金を支払うことになりました。
フランスへの復讐の念願が叶った二人は、1871年正式に結婚。
新婦ラパイヴァは52歳、
新郎のドンネルスマルク伯爵は41歳。
晴れてラ・パイヴァはドンネルスマルク伯爵夫人となったのです
彼からの結婚のプレゼントはポンシャルトラン城と、
当時のフランス皇后ウージェニーが一番大切にしていたネックレスでした。
こちらが第二帝政の皇后ウージェニー。
美しいですね
ラ・パイヴァがgetしたのはこちらのネックレスでしょうか・・・?
晴れてドンネルスマルク伯爵夫人となったラ・パイヴァは、かつての上流階級のトップであったウージェニー皇后の秘宝を手にして、きっと勝利に酔いしれたことでしょうね・・・
(すごい嫌な女って感じですが・・・)
ちなみに、ラ・パイヴァはジュエリー(宝石)をこよなく愛した女性としても有名です
数年前に私はNHKのジュエリーの特集番組で彼女を知ったのですが、
彼女のジュエリーに対する執念に、一種恐ろしいものを見てしまった気持ちがしたものです・・・
写真画像出典:mikimoto.com
王侯貴族たちの肖像画の中のジュエリーをご覧ください
ラ・パイヴァは、
「宝石以上に自分に喜びを与えてくれる物も人も存在しない」
と、投げやりに告白していたといいます。
彼女の魅力に夢中になった男性達が素晴らしいパリュールを贈りました。
ドンネルスマルク伯爵は、彼女の大きな欲望を満足させるために全財産を売り払いました。
中でも、彼女に贈った世界で他に類を見ない100カラットのイエローダイヤモンドは、
伯爵の彼女に対する激しい愛を象徴しています
なのになぜ・・・?
それは、彼女の性格の基盤をつくった若い時代に娼婦として人生を過ごしてきたことが影響しているようです。
金銭を媒介とし男性とベッドを共にしている女性は、心が確実にすり減っていくのです。
その心のすり減っていく部分を補填する「愛」が必要となるのですが、
その愛の対象は、普通の男性の愛では決して満たされないのだといわれています・・・
これほどまでに男性に愛されながらも、ラ・パイヴァは生涯ジュエリー(宝石)にしか心を開かなかったそうです。
実際に敵の多い人生だったのででしょうけれど・・・
ジュエリーだけが彼女の信じられる唯一の存在であり、彼女の慰めだったというと、
栄耀栄華を極め、大きな愛も手に入れたというのに、
彼女の心のすり減ってしまった部分の大きさとその深淵を感じずにはいられません。
彼女の夢だった豪華な邸宅も、実は娼婦の時代、男性に馬鹿にされ蔑まれ捨てられたその場所に『今に見てろ』という恨みと憎悪の気持ちから建てたのだそう
ここまでくると、もうあっぱれとしか言いようがありません・・・
何かの傷を糧にしてがむしゃらに生きているときも美しくなるものなのかもしれませんね。
(私はジュエリーやお城が大好きなので、彼女の血の通ったジュエリーや邸をいつか見てみたいって思います。)
その後、伯爵夫妻は1878年、フランス当局にスパイの嫌疑をかけられ、国外に追放されました。
しかたなく二人はシャンゼリゼ通りの大邸宅を捨て、ドイツのノイデック城へ移り住みました。
結局パイヴァの夢の豪邸に暮らせたのはたったの5年間でしかありませんでした。
二人が移り住んだノイデック城。
そのあまりの壮麗さから「オーバーシュレージエンのヴェルサイユ」と呼ばれたそう
それでもラ・パイヴァはフランスへの憎しみと挑戦を決して諦めませんでした。
しかし1882年かねてから患っていた心臓病のため64歳で死去。
夫のドンネルスマルク伯爵はラ・パイヴァの死体を水槽にアルコール漬けにして保管し続けたそうです。
それはドンネルスマルク伯爵が再婚してもそのままだったといわれています。
いかがでしょうか?
女の権利というようなものは一切なかった時代、路傍にたたずんでいた女が、
パリを舞台に宝石、お城、芸術、美しい物をこよなく愛し、
ポーランド、ロシア、英、仏、独語を巧みにこなし、男達をひざまずかせた。
こんな女性が存在していたことに驚きをかくせません。
ラ・パイヴァの人生に想いをはせると、その「業?」が彼女の女っぷりを押し上げていたんじゃないかと思うのです。
「業」っていうとあまりいい印象がない言葉に思えますが、
まばゆいばかりの豪邸やジュエリー、ファッションに目の色を変えていたラ・パイヴァからは、
何か?悪と美の濃厚な香りがぷんぷんと漂ってきて、それが私にはとても魅力的にもうつるのですが、皆さまはいかがでしょうか?
ただ美しいだけの善良な女性なだけでは、美女としての物足りなさを感じます。
一番大きな家に住み、一番豪華な馬車に乗り、一番大きなジュエリーを身に着けて、一番素敵なドレスを着たい。
こんな気持ちをうっかり出してしまうと、人から眉をひそめられるてしまうけれど、
でも、こんな女性特有の「業」は、その女性の凄みのような迫力、そして神秘性を宿すための大切なエッセンスのように感じます。
女の心の底にある業や情念、残酷さ、そんなものを備えた美女だからこそ、
他には決して代わりがいない唯一無二の女性になれるような気がするのです。
人はそんな女性の神秘性と魅力に取り込まれ、美女の人生には思いもかけないような世界へのいざないがあるのかもしれません。
私たちも歴史の美女の人生から学んで、美女力に磨きをかけていきたいものですね
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