「ヴァレンヌ逃亡事件」は一気に国王一家と民衆の立場を変えてしまいました。
この時、民衆は気づいてしまったのです。
「国王がいなくても自分たちは生きていける」
「フランスに王政は必要ない。」と。
ヴァレンヌ逃亡事件の詳細についてはよろしければこちらのブログ記事もどうぞ![]()
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マリーアントワネット⑭ ヴァレンヌ逃亡事件の理由や詳細 革命後王妃の人生の明暗を分ける逃亡劇は本当にドラマティックです。フェルゼン伯爵との不倫の関係は?
国王でありながら国を離れ外国に逃亡しようとしたルイ16世に対し、
6月25日、国民議会は王権の停止を布告しました。
結果、ルイ16世は国王であることには変わりはありませんでしたが、この事件をきっかけにその権威を失墜し、議会と市民の中に王政廃止、共和政実現の声が強くなっていきます。
同日6時、国王一家はパリに連れ戻され、テュルリー宮殿で再び暮すようになります。
ですが、国王一家の監視は以前より一段と厳しくなり、半ば幽閉された状態となってしまうのです。
そんな中、フランスで起きた革命に強固反対するオーストリアとプロシアが、連合軍を組んでフランスに戦いを挑んできたのです![]()
なんとしても自由を諦めきれないマリーアントワネット。
フランスが彼女の祖国であるオーストリアに宣戦布告したということを知ると、
敵国であるオーストリアにフランスの戦術を通報し続けるのです。
マリーアントワネットの望みはフランスがこの戦争で負け続け、連合軍によって開放されることでした。
ところが、敗北に苛立った民衆は、再び恐怖の血でフランスを染めていくことになるのです・・・![]()
新たな時代をつくりあげることに全ての情熱をかけていた革命家たちは民衆を扇動し、
連合国に対抗するよう結束を呼びかけます。
そして、平等を訴える民衆の声はますます高くなり、革命は日を追うごとに危険性を帯びていくようになります。
議会と市民の中で王制を廃止し、共和政を実現すべきであるという動きが強くなっていくのに対し、
ジャコバン=クラブ内の右派であるバルナーブらは、王制を廃止するのではなく、憲法の下で国王を戴くという立憲君主政を構想します。
そして、ジャコバン=クラブが分離してフイヤン派を結成するのです。
国王ルイ16世がその構想を受け容れていれば、後の処刑は免れたのかもしれません・・・
ですが、ルイ16世(及び王妃マリーアントワネット)はヴァレンヌ逃亡事件に全く懲りず、
その後もオーストリアなど外国と密かに連絡を取り、立憲君主政さえ受容しない姿勢を取っったのです。
その結果が後の国王と王妃の処刑ということに繋がっていくのです・・・
この記事の目次
◆ますます過激化するフランス革命 追い詰められていく王妃マリーアントワネット
1792年6月20日『サン・キュロットの示威行動事件』が起きます。
武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んできたのです。
その人数は1万とも2万とも言われています![]()
拒否権を乱発する国王に対する圧力としてジロンド派が黙認したという側面はありますが、
この事件はパリでは武装蜂起がいつ起きてもおかしくないという危険な状況であることを示しています。
王政の廃止を最初に主張したのはジロンド派でしたが、既に革命は彼らの予想を上回るスピードで展開を始めていたのです。
6月20日事件、自由を表す赤いボンネットを被せられた王。
群衆に詰め寄られるルイ16世は 「拒否権氏」と野次られました。
チュイルリー宮殿に入ってきた民衆につめよられる国王夫妻。
群衆に襲撃されたチュイルリー宮殿。
王制を廃止し共和政を実現するという新しい制度のために、断固として戦おうと結束する群集。
群衆に追い詰められ、テーブルの後に避難する王妃と子供たち。
恐ろし気な画像ばかりでごめんなさい・・・![]()
マリーアントワネットの生涯にはこの後美しい肖像画なんかはもうないのですが、
そんな中でも少しでも美しい夢のある画像もご紹介していけたらって思っています![]()
王家と一般市民の間にまるで格差がないかのように詰め寄られた王妃マリーアントワネットは、屈辱に唇を震わせながら窓辺に立ちます。
王妃と子供たちに危害があったら一大事と護衛がテーブルで遮り、
それ以上近寄れないようにしたため助かりましたが、血迷った多数の群集が彼女らに怪我を負わせても全く不思議ではないほど緊迫した状態でした。
この『サン・キュロットの示威行動事件』は、その場はなんとか切り抜けられましたが、
王権の威力が下降線を辿っているということは明らかでした。
◆8月10日事件 事実上のフランス革命『8月10日の革命』の詳細
1792年8月10日。
国王一家が暮らすチュイルリー宮殿に再び群集が押しかけます。
それまで護衛にあたっていた国民衛兵が土壇場で革命軍に寝返り、あくまでも王家に忠実な約950人のスイス人傭兵のみが必死に抵抗します。
チュイルリー宮殿前での戦闘の様子。
スイス傭兵隊の一斉射撃で白煙が上がり、手前には捕虜の虐殺も描かれています。
その間に国王一家はテュイルリー宮殿を抜け出し、さほど遠くないところにあった立法議会に逃げ込みます。
立法議会は現在ジュー・ド・ポームがある場所に当時は置かれていました。
庭園で隔てられているだけでそう遠くではないため、国王及びその家族は宮殿から徒歩で向かいました。
その際、マリーアントワネットは側近のランバル公爵夫人とトゥルゼール公爵夫人も一緒に連れて行くように主張しましたが叶いませんでした。
残されることになった貴婦人たちは絶望して震え上がったといいます。
ですが、王妃マリーアントワネットは暴徒の群れに護衛軍が負けるはずがないと思っていたようで「戻ってきます」と言い残して去っていきました。
これが王妃とランバル公妃の永遠の別れとなってしまうのです![]()
国王一家が逃げ込んだ立法議会。
革命家と民衆は一致団結して、王制廃止と共和国樹立を叫び襲撃を続けます。
この時、マルセイユから連盟兵が援助のためにパリにやって来ました。
彼らは士気を高めるためにある歌を歌っていました![]()
それは、4ヶ月ほど前のオーストリア軍との戦いの時、兵士たちを鼓舞する目的で作ったという歌だったのです。
そのマルセイユの連盟兵が道中歌ったという歌が国中に響き渡り、
後にフランス国家『ラ・マルセイエーズ』となったのでした![]()
『 ラ・マルセイエーズ( La Marseillaise) 』 を発表披露する作詞・作曲のルージェ・ド・リール。
『ラ・マルセイエーズ』歌詞 一番
いざ進め 祖国の子らよ
栄光の日は やって来た
我らに対し 暴君の
血塗られた軍旗は 掲げられた
血塗られた軍旗は 掲げられた
聞こえるか 戦場で
蠢いているのを 獰猛な兵士どもが
奴らはやってくる 汝らの元に
喉を掻ききるため 汝らの女子供の
コーラス
武器を取れ 市民らよ
組織せよ 汝らの軍隊を
いざ進もう! いざ進もう!
汚れた血が
我らの田畑を満たすまで
国家とは思えない恐ろし気な歌詞と思っていましたが、この革命がルーツだったのですね![]()
この襲撃事件でついに国王ルイ16世は権利停止を宣言されます。
王政廃止によりルイ16世は王権を剥奪され、ただの『ルイ・カペー』となったのです。
それまでは立憲君主国という道も残されていました。
ですが、ヴァレンヌ逃亡事件や外国との密通などの行為が完全に裏目となったのです。
民衆の心は完全に国王から離れてしまっていました。
王権を剥奪された一家はその後タンプル塔へと幽閉されます。
この武装蜂起は、事実上の革命であったために『8月10日の革命』とも呼ばれ、フランス革命は新段階に入るのです。
タンプル塔に連行されるルイ16世と家族。
◆タンプル塔に幽閉された国王一家と『九月虐殺』
8月10日の事件の余韻はしばらく残り、パリは興奮状態を維持していました。
襲撃者たちの多くはそのまま動員登録が行われて前線に出征していきましたが、残された人々は熱狂的な革命熱をもてあましていました。
そしてその後、戦況の悪化と外敵がパリの城門まで迫っているという誤った情報を受けたことにより再び暴走し『九月虐殺』を引き起こすことになります。
そして、マリーアントワネットの心優しい友人、ランバル公妃も九月虐殺の被害者となってしまうのです・・・
『九月虐殺』の詳細とランバル公妃の壮絶な最期についてはこちらのブログ記事もどうぞ
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マリーアントワネット⑧ ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ 革命後もアントワネットと共に生きた悲劇の美女。9月虐殺による凄惨な最期とは?
チュイルリー宮殿で王妃の肖像画は途中で中止され、未完成のまま。
タンプル塔に到着した国王一家。
タンプル塔ではチュイルリー宮殿での暮らしより厳重な監視のなかで送ることとなり、
国王一家が脱出できないようにと幽閉後は塀を高くされました。
窓にも鉄格子と日よけがあったために寒さもとても厳しかったようです![]()
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ヴェルサイユからチュイルリー宮殿に移った時点でもマリーアントワネットにとってはかなり厳しい環境での生活だったかと思いますが、この先のタンプル塔での生活はチュイルリー宮殿なんて比べようもありません![]()
いよいよ彼女の人生は本当に悲惨なことになっていくのです・・・
次回のマリーアントワネットの生涯⑯では、タンプル塔に捕えられたマリーアントワネットと国王一家の生活についてご紹介してみたいと思います。
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