マリーアントワネット⑭ ヴァレンヌ逃亡事件の理由や詳細 革命後王妃の人生の明暗を分ける逃亡劇は本当にドラマティックです。フェルゼン伯爵との不倫の関係は?

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フランスの美女

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18世紀末、フランス王室の財政は破綻(はたん)し、国民は飢えに苦しんでいました。

そして、バスティーユ襲撃からフランス革命が勃発。

パリでは反乱がおこり、王家にとっては一気に不利な状態へと傾いていきました。

 

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民衆は国王一家のパリ移転を要求しました。

そのため、王宮はヴェルサイユからパリのチュイルリー宮殿へと強制的に移されたのですが、この時の民衆の気持ちは国王一家がパリに住み、自分たちと共存していくということを歓迎していたのです。

ですが、王妃マリー・アントワネットはその状況を認めることができませんでした。
チュイルリー宮殿に移ってからもマリーアントワネットは人前にはろくに姿をあらわしません

 

半囚われのような生活につくづく嫌気がさしてきたマリーアントワネット。

彼女にとっては、民衆によって強制的に奪われた「自由」が何よりも大切なもので、

半幽閉のようなチュイルリー宮殿での生活が耐え難いものだったのでしょう。

 

「なんとか自由を取り戻したい」

チュイルリー宮殿に移されてから約3年弱、フランス革命が頂点に達しようとしていた時アントワネットは、
「破滅するか、残されている唯一の道を進むか、どちらかしかありません」
と身内へ手紙に書き、恋人のフェルゼン伯爵が持ちかけた亡命の計画に乗るのです。

それはフランスの王妃としてそれはなんとも愚かな決断でした。

 

 

◆ヴァレンヌ逃亡事件 その計画の理由や詳細は?

 

王妃のためならば自分の命に代えてでもと、フェルセン伯爵はマリーアントワネットが希望する国外逃亡に全ての情熱を捧げます。

 

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スウェーデン貴族 ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵

池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』にも登場していますね

 

この外国逃亡計画は、外国の諸侯と王妃に信頼されていたブイエ将軍、ショワズール公、

また、フェルゼンの女友達などの協力を得て、綿密かつ大胆な計画となりました。

 

その計画の内容は

国王一家をシャロンシュールマルヌ → サントムヌールアルゴンヌを経て、

メッツにいるブイエ将軍のもとに送り、そこからオランダ、ベルギーにいるオーストリア軍と合流するというものでした。

 

メッツまでの道のりには『ブイエ将軍に軍資金を送る』という口実で、各所に連絡所が作られました。

国王の馬車はその連絡所を通って行けば、安全にメッツに到着するはずでした。

 

この亡命計画の準備にすべての情熱をかけたフェルセン伯爵

 

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逃亡に必要な資金集めに始まり、大型馬車の注文、逃亡中の食糧、偽のパスポートの準備、信頼を寄せられる護衛兵の選抜などに尽力を尽くしました

そして、逃亡は1791年6月20日夜と決まり、
吟味に吟味を重ねた準備も無事に完了しました。

 

その頃、マリー・アントワネットは「姉へのプレゼント」という口実で、旅行セットの複製を作らせていました

 

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画像は現在ルーブル美術館に保管されている、王妃マリー・アントワネット愛用の旅行セットです。

 

本当は亡命先に持っていくためでした。

一人では持ちきれないほど重い愛用の旅行ケースが王妃と一緒に姿を消したならば、すぐに逃亡と気づかれてしまうからです。

ですが、その複製の旅行セットは決行の日に間に合いませんでした

 

怪しまれるのを覚悟の上で事前に亡命先に送るか?

国外逃亡の時点で馬車に積み込むか?

それとも慎重に慎重を期して、チュイルリー宮にそのまま残しておくか・・・?

愛用の旅行セットを前に、マリーアントワネットは迷っていました。

 

彼女が実際にどの決断をしたのかは、記録をたどってもはっきりわかっていません。

ですが、逃亡をしぶる王を説得し、愛する家族とフランス王政の運命までもフェルゼン伯に委ねたアントワネットのことですから、この愛用の旅行セットもまた一緒に運命の馬車に乗せたのではないでしょうか?

 

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マホガニー製のケースに、銀と陶磁器の食器類が並んでいます

さすがマリーアントワネット。旅行セットといえど、けた外れの高級感と量感に圧倒されます・・・

 

王妃の頭文字「M」「A」を組み合わせた紋章が刻印されたお皿やティーポット、カップ、手鏡、化粧水の瓶など、50余りの旅行の携行品が一分の隙もなく収まっています

全ての食器や小物類のサイズに合わせて旅行ケースが作ってあるところもすごいですね

 

革命前のような穏やかな時代の旅でしたら、どこかの宮殿に泊まれるのでしょうが、

今回の逃亡はそういうわけにはいきません。

 

また、当時は現在の旅行のようにホテルにすべてが完備されていて安心して使えるということにはなっていなかったと思うので、旅先でも何不自由なく過ごせるような内容になっているのでしょうね

 

 

◆ヴァレンヌ逃亡事件 運命の決行の夜

 

6月20日、逃亡決行の夜。

その日はいつもと変わらぬ生活を衛兵たちに見せるために、リュクサンブーク宮殿に暮していた王弟、プロヴァンス伯爵夫妻とゲームを楽しんでいました

 

そして頃を見計らい、プロヴァンス伯爵夫妻はリュクサンブーク宮殿へと戻ります。

彼らも同日に、別のルートで国外脱出を企てていたのです。

彼らの亡命先はドイツのコブレンツで、そこは亡命貴族が多数暮していました。

 

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王弟 プロヴァンス伯

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プロヴァンス伯爵夫人

 

結果、無事にコブレンツに逃れることのできたプロヴァンス伯は、

その後革命を生き延び、1815年の王政復古でルイ18世を名乗ることになります

 

マリーアントワネットたち国王一家も急いで逃亡のための偽装をします

ロシア貴族のコルフ侯爵夫人一行に成りすまします。

国王 :丸い帽子とかつら、地味なコートを着た従僕デュラン。
王妃 :シンプルなドレスにヴェールつきの黒い帽子、地味な黒いコートを着た子供たちの家庭教師マダム・ロッシュ。
エリザベート王妹 :地味な服に帽子をかぶった子供たちの養育係。
王太子:プリンセスのドレスを嫌々着、アグラエと言う名の女の子。
王女 :平服。
トゥルゼル夫人 :コルフ男爵夫人。
フェルセン :御者。

 

6月20日深夜12時30分頃(本当は明けて21日ということになります)、王子と王女、トゥルゼル夫人、エリザベートがまずテュイルリー宮殿から脱出しました。

そして12時の鐘が鳴る頃国王が到着し、それから間もなくして王妃が到着しました。

国王は王妃の無事な姿を見て「会えてよかった」と安堵します。

まず、国王一家は四頭立ての辻馬車に乗りました。

 

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チュイルリー宮殿を離れる国王一家

 

明けて21日朝1時50分過ぎ、パリ市門サン・マルタンでベルリン馬車に乗り換えることになっていました。

御者はフェルセン伯です

 

ところが、パリの街をよく知らないためか?御者という立場に不慣れなためか?

遠回りをしてしまい、ここで二時間もの貴重な時間を使ってしまいました

この時点ですでに予定より遅れ、結果、致命傷になってしまうのです・・・。

 

約二時間の遅れで逃亡用の豪華な大型馬車に乗り換えた国王一行。

そしてその後に、逃亡中の必需品を乗せたもう一台の馬車が続いていきます。

 

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当初フェルセン伯は、逃亡には軽くて足の速い馬車を使い、

疑惑をそらすために国王と王妃は別々に行動することを勧めていました。

あくまでも目立たず、一刻も早く国境をこえるためです。

 

ですが、王妃は家族全員が乗れる広くて豪奢なベルリン馬車に乗ることを主張しました。

(大きくて豪奢ということは、結果遅いということになります)

結局フェルゼン伯は不安を覚えながらも、意志を曲げない王妃の言うとおりにベルリン馬車を用意したのです

 

ただでさえ豪奢な馬車は重いというのに、そこに銀食器、衣装箪笥、食料品、

そして喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれました

 

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ルイ16世の風刺画

 

華やかなベルサイユで絢爛豪華な日々を送った家族、いくら豪華とはいえ一つの馬車に詰め込まれるのですからこうなってしまうのは仕方のないことなのかもしれませんが、

およそ逃亡とは思えない内容に既になっていますよね・・・

 

パリ東にあるボンディの森で8頭の新しい馬が一行を待っていました。

そして、馬車を操っていたフェルセン伯はここで一行に別れを告げます。

王妃は望んでいなかったことですが、王がこれ以上フェルセンが近くに仕えるのを拒否したのです。

それは、準備を全て整えてくれたフェルセンが、万が一の時に危険だと考えた国王の希望でした。

 

逆らうことのできないフェルセン、ブリュッセルで再び国王一家に会うことを約束します。

これが永遠の別れになるとは思っていませんでした・・・。

愛する人を最後まで守れないフェルゼンの苦悩。

この後フェルゼンはここで離れてしまったことを一生悔やむことになります。

 

そして後に、フェルゼンにとって王妃マリーアントワネットの姿を最後に見たこの日が運命の日となるのです・・・。

(彼はその19年後の6月20日、スウェーデンの民衆によって無残に虐殺されてしまう運命にあります。)

 

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フェルセンは国王一家の馬車のそばに自分の馬を引き寄せ、何事かを囁くと、最後に大きな声で「さようなら、コルフ夫人!」と言いました

 

そして、国王一家を乗せた馬車は破滅への道を突き進んでいくのです・・・。

 

 

◆ヴァレンヌ逃亡事件 国王一家の破滅への道のり

 

6月21日。

もしこの先訪れる不幸さえなければ、この日は国王一家にとってとてもスリリングで楽しい時間となったに違いありません。

この先、選り抜きの衛兵隊が途中から護衛にあたることになっていたので、逃亡は楽しい旅の雰囲気でした

 

パリから42キロ、モーという町で一行は朝食を摂りました

メニューは牛肉の蒸し煮、グリーンピースとにんじんのゼリー寄せです

多くの人の監視で常に緊張を強いられていたチュイルリー宮殿を離れ呑気になった国王ルイ16世は、通ってきた道筋を特製の地図に書き込むなど、逃亡の道中を楽しんでいるかのようでした

 

まるでピクニック気分

漫画『ベルサイユのばら』でも、ルイ・シャルルが馬車の窓から景色を見てはしゃぐシーンがありますが、史実を見てもどうやら変わらない様子が窺えます

 

初夏の屋外での一日はずいぶん気持ちのいいものだったでしょう・・・

国王と子供たちは、途中で馬車を降り近くを散策しています
とても命がけの逃亡とは思えない悠長な時間を過ごしていたようです

 

その上、途中、馬車の車輪を柱にぶつけ二度ほど馬が転倒し、馬車を立て直すのにそれぞれ30分、また、馬具が壊れたりして1時間以上の時間を費やし、またもやここでも2時間近くを無駄にしています

 

◆一方、国王逃亡後のパリでは?

 

一方パリでは、6月21日午前7時、従僕が国王の寝室に入りベッドに誰もいないのを発見しました

王妃の部屋も子供たちの部屋も同様に誰もいません

このことはたちまち広がり、8時にはパリ中に警鐘が鳴り響きました。

 

シャルル・ド・ラメットは

「24時間後にフランスは燃え上がり、敵軍が攻め込んでくるかもしれない」と叫びました。

 

『国王は絶対逃亡しない』と言い張っていたラファイエットは、

共犯にされるのを恐れ『国王は誘拐されたのだ』と言い出しました。

立憲派は、ラファイエットの説に飛びつき、王の無罪を主張しました。

 

 

ジャコバン・クラブではダントンとロベスピエールがラファイエットの責任を追及しました。

民衆の半分は、国王の逃亡は以前から噂されていたのでさほど驚きませんでしたが、

一方で『国王がいなくなったら太陽が昇らなくなるだろう』と不安に怯える民衆もいました。

 

怒った民衆はすぐに宮殿になだれ込み、ルイ16世の胸像を叩き壊し、早くも退位を要求するなどいきり立っていました。

また、ある者は国王の裏切りに自制心を失い「国王」の名を付けた商店や旅館を襲い、看板を取り壊したりしました。

 

パリでの大砲の音は逃走中の馬車の中の国王一行の耳にも聞こえたようで、

王は何通か遺書を書いたりもしたそうです。

ですが、しばらくすると追っ手がついて来ていないことがわかり、緊張が解けた安堵から気が抜けていったといいます

 

国民議会はまだ国王の居場所がわからない為、国王一行に『パリへ帰るように』とする議決書を持たせた使者をフランス各地に派遣しました。

 

 

◆ヴァレンヌ逃亡失敗 国王一家ついに逮捕

 

国王一行がシャロンに着いたのは21日午後4時。

この小さな田舎町の人々はパリからの旅人の姿を見るのが好きで、

国王一家の豪華な馬車に群がりました

駅長は国王に気付いていたようですが、忠誠心から何も言わなかったといいます。

 

ですが、馬車がシャロンを出発してから三十分もすると、国王がシャロンを通ったという噂が一気に広がるのです。

フェルゼンの危惧していた事態が起ころうとしていました・・・。

こうなるともう当たり前ですよね・・・

 

 

午後2時半にシャロンから12キロの地点で、護衛するはずのショワズール公の軍隊と待ち合わせていましたが、最初から出発が遅れた上に途中ものろのろと旅行気分で行ったのですから当然間に合うはずもありません。

午後5時、ショワズール公は計画が失敗したと思い、待ち合わせの場所を離れリュクサンブールに向かってしまいました

 

そして、ちょうどそのショワズールの撤退と入れ違いに国王一行の馬車が現れました

ショワズールがいないことに一行は目の前が真っ暗になりました・・・

仕方なく、この先にあるサント・ムヌーという小さな町まで引き続き馬車を走らせましたが、

そこでも護衛にあたる兵の姿が見えません

 

待機していた衛兵隊は、あまりの遅れに予定が変更されたに違いないと勝手に判断し、部署を離れてしまったのです

(軍服でうろうろしている彼らを住民たちが不審に思い始め、いずらくなったのも解散した理由の一つです。)

 

そして、その頃にはフランス中に国王逃亡のニュースが走り、本人の乗った馬車よりも速くサント・ムヌーに届いていたのです。

ヴェルサイユで華やかな日々を送った家族が、一台の馬車の中で恐怖に恐れおののきながら送ったであろうこの時間を思うと、運命の悪戯と残酷さを感じずにはいられません・・・

 

護衛もなく、不安にかられながらサント・ムヌーを通り過ぎようとしていた二台の馬車は、目立って立派でした。

それを不審に思った人物がいました。
サント・ムヌーの駅長の息子ドルーエです。

この28歳のドルーエが歴史を大きく変えることになるのです。

 

ドゥルーエは、この豪華な馬車の隅に乗っている太った従者が、アッシニア紙幣に印刷されている国王の肖像画と同じ人物あることを確信しました。

そう。勘が鋭い彼は、国王一家が国外逃亡を図っているに違いないと感づいたのです。

 

 

国王一行の馬車は運命の場所ヴァレンヌに向かっています・・・。

そして、一行を捕えるためにドゥルーエも早馬でヴァレンヌに向かいました。

ヴァレンヌでは若干18歳のローラン大尉が国王一行の護衛にあたるために待っていましたが、やはり、約束の時間を大幅に過ぎても一行は現れません。

 

部下達が苛立ち始めたので、仕方なく一旦解散しどこかで眠ることを許可しました。

その後午後10時半に集合命令を出しましたが、居酒屋や眠りに行った部下達をもう一度集めることは不可能でした

 

午後11時半、ようやく国王一行がヴァレンヌに到着。

疲れきった一行は馬車の中で眠っていました。

その時、ふいに馬車が止まり一行が目を覚ますと闇の中で男が叫びました。

「止まれ。お前(御者)の乗せているのは国王だ」
一行は呆然としました。

 

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既にドゥルーエはヴァレンヌに到着していて、地元の町長が馬車に停止を命じたのです。

町長はこのような重大な事の責任を取ることを躊躇していましたが、

傍らにいたドゥルーエがこれは間違いなく国王一行なのだから通行させてはいけないと強く主張しました。

 

ドルーエに「引き留めないと反逆罪だぞ」と脅されていた町長は、

旅券をチェックして「よろしい」と許可を与えましたが、もう旅を続けるには遅いから一休みしていかれてはどうかと勧めます。

 

国王一行の馬車は既に群衆に包囲され身動きがとれません。

しばらくすればブイエ将軍かショワズールの部隊が助けに来るのではないかと期待した国王は、この招待を受けることにしたのです。

 

1791年6月21日、深夜にパリを抜け出した国王一家は、

それから約24時間後にフランス北部の国境に近い村ヴァレンヌで捕らえられました。

巨額の逃亡費用も用立てたフェルゼンの献身的な努力もむなしく・・・。

 

ローラン大尉はこの騒ぎに動転し、逃げ出してしまいました
残された兵士達も寝ていたり酔っ払ったりしていて何の役にも立ちません。

 

ヴァレンヌの町中が目を覚ましました。

「ソース」という名前の食料品店の二階に部屋が設けられ、国王一家に簡易ベッドと粗末な食事が出されます。

疲れきった子供たちは眠ってしまいました。

 

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王妃が破滅を自覚したであろうバレンヌの夜。

彼女が援軍の将に口にしたのは、「フェルゼンは無事だと思いますか」と恋人を気遣う言葉だったといいます。

 

国王一家の長い長い夜が明け、

村中の人々がソースの家の回りに集まっています。

 

午前6時半、国王の足跡を探し当てた二人の使者が「パリに帰還するように」との国民議会からの要求書を持ってヴァレンヌに到着しました

一人はラファイエットの副官であるロメーフ。

彼はテュイルリー宮殿にいるときから国王一家と言葉を交わすこともあり、アントワネットも好感を持っていました。

 

ロメーフは「できれば国王一家を逃げさせたい」という密かな願いがあり、

足跡を捕らえてからも出来るだけゆっくりヴァレンヌに行こうとしていたのですが、

同行の革命に熱心なバイヨンはとにかく一行に早く追いつこうと必死でした。

 

ロメーフは国民議会からの要求書を、震えながら王妃に渡しました。

王妃は「なんですって!あなただとは思いませんでした」

と驚きました。

 

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要求書を読んだ国王。

そこには「王の権利は国民議会によって停止されられた」という内容が書かれていました。

王妃は『無礼極まりない』と怒りましたが、国王は王妃に『フランスにはもはや王はいない』と寂しく言ったといいます。

 

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『ルイ・カペーの逮捕』

 

国王一家は近くにいるであろうブイエ将軍の救助を待とうと、出来る限りの時間稼ぎをしました。

国王は疲れているのでパリに立つまで2、3時間の休息が欲しいと言いました。

内心王党派のロメーフはこれを受け入れましたが、バイヨンが拒否「パリへ、パリへ」と群衆を煽ったのです。

 

ブイエ将軍は現れません・・・

群衆の怒声と熱気に恐れをなした町長や町議員、商店主が出発を懇願したため、

国王はついに観念し、仕方がなく一家は車中の人となりました。

一行は六千人の武装市民と国民衛兵に囲まれてヴァレンヌを出発したのです

 

その後、二十分と立たない内にヴァレンヌにブイエ将軍の騎兵中隊が現れました・・・。

国王がすでに屈服したと知らされた彼は、そのまま踵を返し、国境を越えて亡命しました。

もうあと二十分。

たった二十分長く国王達が留まっていれば、歴史は違う方向に向かっていたのかもしれません。

 

ヴァレンヌ。あとわずかの距離でベルギーというところで国王一家の未来は打ち砕かれました。

 

もし逃げ切れていたら・・・

旅行気分にならずに急いでいたら・・・

馬車を小さくし、荷物をもっと減らしていれば・・・

 

このヴァレンヌ逃亡事件は、この先のマリー・アントワネットや国王一家の運命を決定づけてしまうだけに、どうしても『もし・・・』と考えてしまいます

 

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ですが、すべての人間に『たら・れば』は存在しないのです。

それは当然マリー・アントワネットの人生にも同じです。
なぜ捕まったのか、捕まらなければならなかったのか、

これはもう「運命」としか言いようがないのでしょう。

 

 

 

◆逮捕されてしまったアントワネットと国王一家はどうなったのでしょう?

 

6月22日 ヴァレンヌ出発

 

パリからヴァレンヌまでの旅は24時間でしたが、その帰還には3日を要しました。

その帰還の長い間、国王一家は屈辱を味わいつづけることになるのです。

一睡もできなかったまま着替えもせず、一行はヴァレンヌを出発します。

 

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6月の太陽は、馬車の屋根を焼け尽くすように直射し、大気からは乾いた埃が舞い上がります。

ですが、道中次第に増えていく民衆の罵詈雑言を浴びるくらいなら、蒸し風呂のような馬車の窓を締めきって閉じこもっていた方がましでした。

 

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しかも、宿駅ごとに町長が出てきて国王に挨拶をしたがりました。

そのたびに国王は「自分はフランスを去るつもりなどなかった」と言い訳しなければなりませんでした。

 

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マリー・アントワネットは屈辱に唇を噛みしめていました・・・

 

国王一家にとって地獄のようなパリ帰還。

それは、フランス王政の終焉、太陽王ルイ14世を頂点とするブルボン王朝の葬列のようでした・・・。

 

6月22日夜、ようやくシャロンに到着しました。

市民達が石の凱旋門の前で一行を待ちうけていました。

 

シャロンのこの凱旋門は21年前、マリーアントワネットがガラス張りの宮廷馬車に乗って、オーストリアから輿入れしてきたときに作られたものです。

当時浴びた歓呼の声が、今では罵声に変わっていました。

国王一家はとりあえずここで眠ったり、着替えたり、食事をとることができました。

 

6月25日、

道中の各地に「国王に礼を尽くすものは撲殺。国王に非難を加えるものは縛り首。」との警告ビラが貼られたため、パリは国王一家を沈黙をもって迎えました。
国王の逃亡を聞かされたとき、民衆の多くは『国王がいなくても太陽がのぼった』と言って驚いたほど素朴でした。

ですが、この素朴な信頼がただちにはげしい怒りに変わるのです。

そして、その種子をまいたのは国王自身でした。

 

「ヴァレンヌ逃亡事件」は一気に国王一家と民衆の立場を変えてしまいました。
この時、民衆は気づいてしまったのです。

「国王がいなくても自分たちは生きていける」

「フランスに王政は必要ない。」

と。

 

6月25日ただちに国王でありながら国を離れようとしたルイ16世に対し、

国民議会は王権の停止を布告します。

同日6時、国王一家パリに連れ戻されました。

 

このヴァレンヌ逃亡事件での緊張と恐怖により、マリーアントワネットの髪は老婆のような白髪に変わってしまったという有名なエピソードがあります。

 

ですが、髪のしくみを考えればこれは迷信です。

フランス革命から後の牢獄生活までのストレスで徐々に増えていったのでしょう・・・

処刑時のアントワネットは白髪だったといいます。

 

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チュイルリー宮殿で再び暮すようになった国王一家の監視は、以前より一段と厳しくなり、半ば幽閉された状態となります。

以後の国王一家は「民衆にとっては裏切り者、革命にとっては玩具」となってしまいます。

 

◆マリーアントワネットとフェルセンの恋の真実(真相)とは?

 

最後にマリーアントワネットとフェルセンの恋について考えてみたいと思います。

マリーアントワネットとフェルセンとの恋は『ベルサイユのばら』によってよく知られているエピソードですが、

はたして、二人の仲は実際にはどんなものだったのでしょうか?

 

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アントワネットとフェルセンの関係の真相については、その謎が数多くの伝説を生んできました。

はっきりと不倫の関係だったとする説。

もしくは騎士道精神の下、アントワネットを愛し慕いながらも最後まで一線は越えなかったという説。

主にこの二通りの説があります

 

実際に残されている資料をみると、

『不倫関係については確証はない』というのが正確な答えです。

 

ですが、フェルセンが命をかけて王妃および国王一家を救う為に奔走したのは事実です。

また、二人の内密の手紙には彼らの感情がはっきりと見られますし、

フェルセン伯爵とその身近な人々との書簡にもそれが読み取れる内容が書かれています。

 

フェルセンは妹のソフィー・ピパーに宛てた手紙に、

「一生結婚しないと決めた。それは自然に反することだ・・・本当に愛している人以外と結ばれることはできない・・・だから誰とも結ばれたくない」と書いています。

二人の関係をを解き明かす資料となり得たフェルセン本人の日記は処分されてしまったそうで、真実は残念ながら藪の中です。

 

いずれにしも、命がけで最後までアントワネットを助けようとしたフェルセンの愛は真実だったに違いありません。

 

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ですが、疑問は逆のほうにあります。

王妃マリーアントワネットのほうはどれほどの感情だったのでしょうか

 

マリー・アントワネットは王太子妃として嫁いでから子供に恵まれるまでの8年間の間に、

いわれのないゴシップや悪意ある噂の為にすっかり国民から嫌われてしまいます。

浪費家で遊び歩いているというイメージに加え、義弟との不倫を噂されたり、ポリニャック夫人とのレズビアン関係がゴシップとしてバラまかれたり・・・

 

フェルセンは彼女がプチ・トリアノンに出入りを許した一番近しい友人の輪の一人だった事も確かで、王妃のお気に入りとして、やっかみとからかいの目で見ていた人達が多くいた事も事実のようです。

 

けれど、実際のマリーアントワネットはお気に入りの外国人貴族と不倫に走るタイプだったかというと、かなり違うように思うのです

マリーアントワネットの一つの特徴として、男性遍歴(浮気)が極めて少ないということがあげられます。

 

以前にもブログ記事で取り上げましたが、マリーアントワネットは男性と恋愛するというよりは、どちらかといえば女友達と女子会をしている方が好みだったのではないでしょうか。

よろしければこちらのブログ記事もどうぞ

↓  ↓  ↓

 

マリーアントワネット⑧ ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ 革命後もアントワネットと共に生きた悲劇の美女。9月虐殺による凄惨な最期とは?

 

マリーアントワネット⑨ ポリニャック伯夫人 アントワネットを操り一族を繁栄させたしたたかな悪女。その美貌とランバル夫人との関係、運命の最期、「ベルばら」でもおなじみの娘の生涯は?

 

歴史の中のフランス王室の女性を調べていると、

王の愛妾という立場であっても隠れて浮気することなんて当たり前

浮気現場を王本人に見つけられてしまったり・・・と、本当に乱れた恋愛劇ばかりなのです

 

ですがアントワネットは主にフェルセン伯爵だけが噂に上った男性なのです。

当時これは極めて男性遍歴が少ないと言えるでしょう。

 

結婚当初、夫のルイ16世は性的に不能でしたので、アントワネットは他の男性と浮名を流しまくってもおかしくはないのです。
実際フランスにはそういった王妃も過去にいましたが、アントワネットは浮気を繰り返すようなことはしていません。

嫁いで20年余、本当に穏やかな夫婦生活だったのです。

 

 

◆不倫相手?それとも忠実なる騎士?

 

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ハンス・アクセル・フォン・フェルセン 肖像画

 

マリーアントワネットは様々な小説や映画や漫画などの題材にされていますが、

その中でフェルセンの描かれ方も二通りですよね

 

一つは浮ついた王妃のハンサムな不倫相手

そしてもう一つは、彼女に一途な愛を捧げた麗しき騎士

 

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ソフィア・コッポラ監督の映画『マリー・アントワネット』では不倫相手。

 

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『ベルサイユのばら』では彼女に心を捧げる騎士でした

 

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映画「マリー・アントワネットの生涯」

こちらはアントワネットの映画の中で知名度が低いですが個人的にかなりツボです

主演のノーマ・シアラーは「風と共に去りぬ」のスカーレット役を辞退して、このマリー・アントワネットに賭けていたのだそう

 

お陰でヴィヴィアン・リーにスカーレット役がまわり、彼女は世界的な知名度を得ます。
人の人生の選択というものは本当にわからないものです・・・。

 

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フェルゼン役にはタイロン・パワー
美男で有名な彼が、素敵にフェルセンを演じています。

 

絵面も美しいこちらの映画、人物像が「ベルばら」の世界そのもの
逞しく男前、誠実、潔白、そして静かながらに情熱的・・・

王妃の為ならばと命さえも差し出す純潔の麗しき騎士

 

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当然私は宝塚もアントワネット・フェルセン派

(そういえば、女優の大地真央さんは宝塚時代はフェルゼン、舞台ではアントワネットと両方演じていらっしゃるのですね。)

 

史実として知られている実際のフェルセンは、アントワネット以外に恋人がいたり様々な疑惑があることが事実です。

 

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ですが、革命勃発後、ポリニャック伯夫人をはじめ多くの人が王妃を見捨てていく中、

フェルセンはわざわざテュイルリー宮殿で幽閉されている国王一家の元に馳せ参じました。

 

亡命失敗後もあきらめず彼らを救うために手を尽くし、この行為はやはり命がけでした。

アントワネットへの思いの強さはこの行動から明らかだったといるでしょう。

故国からの命令があったとはいえ、他国の王家に対してここまでする必要はないのではないでしょうか?

 

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フェルセンの肖像画は作品により結構お顔がちがいますが、

どれもソフトなお顔立ちです。

 

フェルセンはハンサムでかなりもてましたし、愛人は何人かいたそうですが生涯独身を貫いています。

 

それはアントワネットをただ一人の女性として愛したからといわれていて、

王妃亡き後は性格まで激変し、冷たく非情な権力者となり民衆を憎むようになります。

そして、彼を憎んだ民衆に虐殺されその生涯を閉じるのです。

 

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不倫にしても、騎士にしても、

どちらにしてもアントワネットへの思いは本物だったと思える事実があります。

 

2016年~2017年、東京六本木で開催される

 ヴェルサイユ宮殿監修『マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実』

こちらの展示会でアントワネットとフェルセンの手紙の内容が解き明かされているそうですので、私ももちろん行く予定ですよ

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マリーアントワネット展が六本木で開催☆ ドレスや肖像画、私室のバーチャルリアリティなどヴェルサイユ宮殿監修の本展示会は見逃がせない!ラデュレのコラボグッズやチケット情報も♪

 

次回のマリーアントワネットの生涯⑮では、ヴァレンヌ逃亡失敗後のマリーアントワネットと国王一家の生活、タンプル塔に捕えられるまでの経緯についてご紹介してみたいと思います。

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