ダイアナ妃の生涯⑩慈善事業への目覚め HIV感染者やエイズの子供達を直接抱きあげた写真の功績 占星術で新たな目標を見つけたダイアナの自立への道

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ダイアナ妃の生涯

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今回のこちらのブログでは、ダイアナ妃の生涯(人生)⑩として、彼女に大きな影響を与えることになる義妹のセーラ妃と占星術ペニー・ソーントンとの出会いと、新たな目標を見つけたダイアナの自立への道をご紹介してみたいと思います。

 

 

ダイアナ妃 (プリンセス・オブ・ウェールズ)

 

◆こちらのブログ記事でダイアナ妃の生涯(人生)幼少期から追ってご紹介しておりますのでよろしければ合わせてどうぞ♪

↓  ↓  ↓

 

ダイアナ妃の生涯①幼少期と少女時代、学生生活 子供の頃から美少女!名門貴族スペンサー家の三女 離婚した両親や優秀な姉弟の狭間で揺れ、活発で心優しい性格がわかる少女時代のエピソード

 

ダイアナ妃の生涯②少女からレディへ 義母との関係は?独身時代は幼稚園教諭のアルバイトをしながらロンドンで憧れの一人暮らしで青春を謳歌したダイアナ結婚前の暮らし

 

ダイアナ妃の生涯③チャールズ皇太子との出会い 姉セーラの恋人だった彼と初恋に落ち、花嫁候補となったのは運命のいたずらが重なって成就したものだった

 

ダイアナ妃の人生④チャールズ皇太子との交際からプロポーズ、婚約までの道のりと有名なサファイアの婚約指輪☆ニックネーム「シャイ・ダイ」の誕生とマスコミとの戦い

 

ダイアナ妃の人生⑤婚約発表から結婚前夜まで センセーショナルな黒のドレスと婚約指輪 ダイアナとチャールズが最高に幸せだった6ヶ月

 

ダイアナ妃の生涯⑥結婚式 世紀のロイヤルウエディング ドレス、ティアラ、ヘアメイク…全てがお伽話のプリンセス!7億5千万人が祝福したイギリス王室史上最高の花嫁

 

ダイアナ妃の人生⑦王室ハネムーン(新婚旅行)と新婚生活 夢から覚めたダイアナ妃とチャールズ皇太子 正反対の性格の二人に早くも訪れた危機

 

ダイアナ妃の生涯⑧妊娠・マタニティファッションと王子の誕生 過食症・つわり・マスコミに悩まされ王室の「問題児」となった苦悩と反逆の日々

 

ダイアナ妃の生涯⑨日本来日でのドレスやファッション 世界中のダイアナフィーバーの影で産後うつに?母となったプリンセスの成長の日々

 

 

1961年7月1日に生まれたダイアナ妃の星座は蟹座です。

 

蟹座の長所は、ロマンティックで感受性に優れ、母性本能が強く愛情豊か、困った人がいると迷わず手を差し伸べます。

 

逆に短所は、嫉妬深く孤独が苦手、過去を引きずり劣等感が強く、嫌な事をされると根に持って忘れません。

 

 

常に夫の愛を必要とし、その背景には少女時代の両親の離婚があったダイアナは、典型的な蟹座女性だったと言えるでしょう。

 

そして、夫チャールズへの愛が失われつつある時、ダイアナはある占星術師と出会います。

 

そして、ダイアナという星は、新たなステージへと導かれて行くことになるのです。

 

 

◆別々の道を歩き始めるダイアナとチャールズ夫婦

 

1984年、次男のハリー王子誕生後、ダイアナとチャールズの結婚生活は、とうとう会話すらなくなるほどのどん底状態に陥って行きます。

 

ダイアナが、チャールズに対する尊敬と信頼を失ったように、チャールズの心からも、ダイアナへの愛は失われて行きました。

 

ダイアナの頑固さや癇癪が一時的な物ではなく、彼女の生まれ持った気質であり、自分が考え求めていた皇太子妃像とは全くかけ離れていたのだと気づいた時、チャールズはダイアナに対して心のシャッターを降ろしてしまいました。

 

そして、彼女を無視する事にしたのです。

 

その後、チャールズは公務よりも、自分の領地であるコーンウォール公領の仕事に没頭し始めます。

公領の農業発展のため、チャールズは土地の住民と共に1日15時間、農場労働者として働きました。

 

また、公領の生活の参考にするために、スコットランドの離れ小島で、エビ漁師や羊飼いとして島民たちと共に汗を流します。

 

また、自邸のハイグローヴ館の庭にも農園を作り、有機農業の研究にいそしんだチャールズは、あるインタヴューで「植物に話しかけて成長を助けている」と語った事で「変人」と呼ばれるようになってしまいます。

 

これはちょっと気の毒ですよね。

 

情緒不安定で荒れまくってしまうダイアナに治療が必要だったように、チャールズとっては、こういった農作業などが平常心を保つための心理療法でした。

 

チャールズはケンジントン宮殿からハイグローヴ館にオフィスを移し、とうとう二人は実質的に別居状態になります。

 

そして、ハイグローヴ館から20キロも離れていない場所に住むカミラ夫人(カミラ・パーカーボウルズ)との関係が、再び親密になって行くのでした。

 

◆ダイアナの義妹 セーラ妃の登場

 

1986年7月23日に、チャールズの弟アンドリュー王子と結婚してヨーク公爵夫人となった「ファーギー」ことセーラ・ファーガソンは、ダイアナより2歳年上で、チャールズのポロチームの監督ロナルド・ファーガソンの娘でした。

 

ダイアナとセーラが親しくなったのは実は結婚前の1980年、ダイアナ19歳、セーラが21歳の頃。

ダイアナが10代のころからの顔見知りだったのです。

 

二人には共通の友人がいて、趣味なども合ったことから、すぐに毎週ランチをする仲になったのだそう。

 

年が近く、遠い親戚にあたり、また母親同士が学校の同窓生、さらにお互い両親が離婚しているという事もあり、すぐに意気投合しました。

 

こちらは1981年、チャールズのポロの試合でのダイアナとセーラの2ショットです。

ダイアナがチャールズと結婚する直前の頃で、並んでポロ競技を観戦しています。

 

こちらのお写真も同日、ポロクラブにてお散歩するダイアナとセーラです。
この時はまだ二人とも結婚前でしたが、ダイアナはチャールズ皇太子との結婚式を2週間後に控えていた時になります。

初々しいですね・・・ダイアナの脚が長い!!!

 

ダイアナは結婚式にもセーラを招待しました。

 

その後、ロイヤル・アスコット競馬の招待客として育ちのいいお嬢さんを紹介して欲しいとエリザベス女王から依頼された時、ダイアナはセーラを推薦します。

 

そして1985年6月、アスコット競馬の昼食の席で出会ったセーラとアンドリュー王子のロマンスが始まりました。

ダイアナ妃はセーラ妃のキューピットだったのですね。

 

セーラとアンドリュー王子

 

それをきっかけに頻繁に会うようになったダイアナとセーラ。

王室で孤立し、ふさぎこんでいるダイアナを見てセーラは言いました。

 

「さあ、元気を出して!私たちはヴィクトリア朝に生きているんじゃないのよ。普通のレストランで友達と会いたいなら、そうするといいわ。今は1985年よ!」

 

こちらは1983年にウィンザーにてポロの試合を観戦しながら談笑するダイアナとセーラです。

80年代ムード溢れる柄ファッションとサングラススタイルが、「いかにも当時の若者」といった感じですよね。

 

1986年の3月にアンドルー王子と婚約し7月に結婚するセーラ、ダイアナ妃とウィリアム王子と共に、当時海軍に入隊していた未来の夫の仕事場を訪問した時の一枚。

 

1986年7月のセーラ妃の結婚式のお写真です。

 

セーラ妃のウェディングドレスはダイアナ妃のドレスのボリュームにはわずかに及ばないものの、80年代らしいとても贅沢なものでした。

 

イギリスのオートクチュール・デザイナー「リンカ・シーラッチ」によるこのウェディングドレスは、アイボリーのシルク生地には新しい家紋にちなんだマルハナバチ、錨、バラが刺繍され、トレーンの長さは約5m、ヴェールは6mほどでした。

 

また、トレーンにはふたりのイニシャルAとSの文字を絡み合わせたデザインが銀のビーズで縫いつけられていました。

 

セーラ妃の結婚式でのダイアナ妃とチャールズ皇太子。

 

明るく活発、社交的な性格のセーラ妃は、王室に入ってからも積極的に王室生活をエンジョイします。

 

そんな彼女の姿を見て、ダイアナはこれまで自分が些細な事に深刻に悩みすぎていたと気がつくことになります。

 

そして、ダイアナは忘れていた気持ちを思い出したのです。

20代の若い女性らしい、生き生きとした気持ちを。

 

◆セーラ妃との放蕩生活

 

王室に入って以来、年の離れた女官たちしか話し相手のいなかったダイアナにとって、セーラは初めての同世代の友人でした。

 

1987年、エリザベス女王公式誕生日を祝う空軍の祝賀飛行。

バッキンガム宮殿のバルコニーにてアンドルー王子、セーラ妃、ダイアナ妃。

 

王子と結婚したからと言って、今までの生き方を変えようとしない強気のセーラに感化され、25歳のダイアナも、これからは自分の人生を楽しもうと決意します。

 

1986年ウィンザーのポロクラブにて、お喋りが止まらない二人の可愛らしいお写真。

20代の女性らしくお喋りしながら楽しそうに笑っているダイアナ妃とセーラ妃。

この頃には既に、ダイアナとチャールズ関係は冷えていたと報じられていましたので、王室で辛い日々を過ごすダイアナにとって、セーラは心の拠り所だったのかもしれませんね。

 

「私の行動が皇太子妃にふさわしくないとチャールズが思ったからって、それがどうだっていうの?」

 

ダイアナはそう言って、セーラの友人の芸能人や上流階級の派手なボーイフレンドたちと、頻繁にパーティーへと繰り出すようになりました。

また、随分とひらきなおりましたね・・・。

 

独身時代とは違って、すっかり洗練され魅力的な女性になったダイアナは、チャールズが一緒の時でも構わず次々と相手を変えてダンスを踊り狂い、男たちに飲みものを運ばせます。

 

セーラの結婚式の前日には、セーラはロイヤルファミリーの女性メンバーとして初めて、バチェロレッテ・パーティー(女性版・独身最後のパーティー)を敢行。

 

アンドリューのバチュラーパーティー(独身最後のパーティー)に、セーラとダイアナ、コメディアンのパメラ・スティーヴンソンの三人で、なんと!婦人警官のコスプレをして乗り込もうと計画します。

 

結局、アンドリューたちとは会えず、そのままクラブで飲んで騒いだ三人。

 

ですが、バッキンガム宮殿外で騒ぎを起こし、本当の警察ともめるはめになったそう・・・。

 

誤解が解けると、一行は会員制の高級クラブ「アナベル」に繰り出し、その後、自分のバチェラー・パーティーから戻ったアンドルー王子を、バッキンガム宮殿から締め出したりしたとか。

 

このバチェロレッテ・パーティーでのことは、警官の扮装をする事は違法行為に繋がるため、その後、訴えられかねない問題にまで発展してしまいました。

他にも、スキー場でのセーラとのバカ騒ぎや、アスコット競馬で友人ルル・ブラッガーのお尻を傘でつつく行為がマスコミに報道されたり、

 

1987年ダイアナとセーラ、スイスのクロスタースにて一緒にスキー旅行で撮られた一枚。

セーラが王室入りし、晴れて「義姉妹」となった二人は、よくお互いの家族と一緒にスキー旅行に出かけていました。

 

雪の中で転びかけるダイアナ妃と、それを支えるセーラ妃。王室メンバーとはいえ若い無邪気な二人の様子が微笑ましいですね♡

 

チャールズ皇太子は、このクロスタースでの写真撮影中、雪の中でバトルの真似ごとをした2人に良い顔をしなかったのだそう。

 

こちらは1年後の1988年のスキー旅行で撮影されたお写真です。

前年のスキー旅行時と全く同じ立ち位置で笑い合う二人の姿から、本当に仲が良いんだということが伝わってきますよね。

 

また、ある夏には、エリザベス女王のスコットランドの居所バルモラル城のゴルフコースで、2人はディナーで着た長いイブニングドレスのまま四輪バイクを乗り回し、果ては、エリザベス皇太后のベンツで暴走・・・これにはアン王女が怒ってしまったそう。

 

さらに、故マウントバッテン卿の孫アマンダ・ナッチブルの結婚式に欠席するなど、チャールズのみならずイギリス王室全体が、そして国民までもが眉をひそめるようになるこういった皇太子妃ダイアナとセーラ妃の暴走は、1987年頃まで続きました。

 

 

◆ダイアナ妃とセーラ妃の「不仲説」の真実は?

1987年、エプソム競馬場で行われたダービーを観戦中のダイアナ妃とセーラ妃。

風に飛ばされそうな帽子を押さえながらのダイアナ妃の笑顔がチャーミングですね♪

 

ダイアナ妃とセーラ妃はこのように大変仲が良かったとはいえ、やはり若く、デリケートな女性同士。

 

まだまだ内面的にも、そして王室という特殊な環境での立場などについてもやはり不安定なところがありましたので、それが時に「ライバル関係」をもたらすこともあったようです。

 

セーラ妃は結婚直後の1986年、飛行機のパイロットの資格を取ってエリザベス女王を感心させます。

 

また、チャールズ皇太子とアンドリュー王子の父であるエディンバラ公フィリップ殿下のお気に入りの無蓋の馬車でのドライブにも挑戦して大いに気に入られました。

 

また、セーラ妃はスキーや乗馬など、王室好み、そしてダイアナ妃があまり得意でないスポーツを上手にやってみせたそうです。

 

ダイアナ妃は後に伝記作家のアンドリュー・モートンこうに明かしています。

 

「(セーラ妃は)ロイヤルファミリーみんなを魅了するのがとても上手だった。お陰でわたしはまるでダメな人間みたいに見えたの」。

 

義理の姉妹で、ロイヤルファミリーになった時期も年齢も近かった2人、当然のようにマスコミで「不仲だ」、「お互いを敵視している」などと書かれることも多かった二人。

 

セーラは後に「女性はお互いに敵対するように仕向けられ、比べられる。そのやり方を見ていると、みんながダイアナと私がライバル関係にあると見せようとしていたのを思い出すわ。私たちはどちらもそういう風には感じていなかった。」

 

「時々ケンカをすることはあったけれど、敵対意識をむき出しにすることはなかった」と語っています。

 

これまでのお写真を見てもわかるように、ダイアナ元妃とセーラ妃はライバルというよりも、やはり姉妹のような関係だったのかと思います。

 

こちらは1987年、ダイアナ妃とセーラ妃のカラフルファッション対決。
今でもファッションアイコンとして語り継がれ続けているダイアナ妃ですが、セーラも負けてはいなかった様子です。(きもちいつもダイアナ妃の方が華やかな気がします。)

 

このように同じ時期を英国王室で過ごしたダイアナ妃とセーラ妃、二人は次第に結婚生活にも王室にも失望しはじめ、そのことで、さらにお互いを支えとするようになっていきました。

 

1987年、ウィンザー城内のセント・ジョージ礼拝堂のクリスマスのミサでの2人。
神父さんと話しているセーラ妃にダイアナ妃が何か目配せしているのは、「隣に座ろう」という合図かもしれませんね。

「ロイヤルメンバー」として常に世界中から注目を浴びならも、決してお茶目な一面を失うことがなかった二人。

 

その後、それぞれに激動の人生を歩むことになるダイアナとセーラ。

王室や国民が眉をひそめるようになった暴走行為も含め、共に笑い合ったこれらの日々が、ある意味、彼女たちにとってのかけがえのない青春時代といえるのかもしれませんね。

 

◆占星術師ペニー・ソーントンとの出会い

 

「あなたがこの夏に行う事の全てに対して、あなたは代償を払う事になるでしょう」

1987年、ダイアナの放蕩生活について、こう予言した人物がいました。

 

占星術師のペニー・ソーントンです。

 

ダイアナを暴走させたのがセーラならば、当時イギリスの上流階級の間で人気の高かったこの占星術師ペニー・ソーントンとダイアナが出会うきっかけ作ったのもまたセーラでした。

 

 

1986年春、セーラはアンドリューと出席したとあるパーティーで、同じく出席者だったペニーから、占星術で多くの人々を不幸な結婚生活から救ったという話を聞きます。

 

翌日、電話でセーラからその話を聞いたダイアナは、自らペニーに電話しました。

きっと藁にもすがる思いだったのでしょうね。

 

電話したその日にハンプシャーのペニーの家を訪れたダイアナは、堰を切ったように心のうちの全てをぶちまけました。

 

翌週、ペニーはダイアナの運勢が書き込まれた星図を持ってケンジントン宮殿を訪れます。

 

作家でもある42歳のペニーの占いは、誰にでもわかりやすい言葉を使い、その人の中に潜む力を目覚めさせ、自信を持たせるという科学的なものでした。

 

ペニーは、ダイアナに幸せは必ず訪れるが、それはダイアナ自身にかかっている、そしてそれは絶望からは生まれないと語ります。

 

それ以来、ダイアナはペニーに頻繁に相談するようになり、その中で、ペニーはダイアナをこう導きました。

 

「結婚生活の苦労を逆にプラス思考に転換して、人助けに向けるべきです」

 

 

◆慈善活動への目覚め

 

占星術師ペニー・ソーントンとの出会いによって、ダイアナの生き方は180度転換しました。

 

ダイアナは、今まで仕事は面倒くさいものと思っていました。

 

しかし、ペニーの助力によりプラス思考になっていったダイアナは、仕事は自分を成長させるものだと気づきます。

 

彼女にとってのこれまでの王室での仕事は英国王室の制度から、「従順な妻」、「ファッションモデル」という役割だけを期待されてきました。

 

そんな、結婚後自尊心を全く持てなかった数年を経て、「一人でも立ち上がらなくては」と思い始めたのがこの1988年、ダイアナが27歳の時です。

 

そして、ダイアナが興味を示した王室での仕事は、慈善事業でした。

 

実際に学生時代から人の役に立つ事に喜びを感じていたダイアナは、皇太子妃という立場の社会への絶大な影響力に気づいた今、さらに本格的な取り組みを考え始めます。

 

「ウーマンエイド」という女性が女性を助けるという趣旨の新団体に関心を持ったダイアナは、実績のない団体への支援にいい顔をしない外務省など意に介さず支援を決定します。

 

また、自分の華やかさを存分に利用し、ロンドン・シティバレエ団などの寄付金集めに貢献。無名団体だった「老人ヘルプ」はダイアナが支援したとたんに有名団体へと成長しました。

 

そして、1980年代には、世界中を恐怖に陥れた未知の病気が登場します。

それは「エイズ(HIV)」。

 

当時、原因不明で治療薬のないこの病気に人々は怯え、最初の発症がゲイ・コミュニティからだったという事で、同性愛者への偏見と差別が高まりました。

 

ダイアナは、エイズの支援に積極的に関わります。

 

1987年、ロンドンのエイズ病棟を訪れたダイアナは、当時「触っただけで感染する」と恐れられていたエイズ患者と、素手で握手を交わしました。

 

1987年4月、手袋をつけずにHIV患者と握手しているダイアナ妃のこの一枚の写真が歴史を作ります。
この写真はHIVに対するアウェアネスを高めるメッセージとして拡散され、一般人が病気についての知識を学ぶことに大きく役立ちました。

 

エイズや同性愛者に関するダイアナの活動に、身内のスペンサー家から批判の声があがってもダイアナはひるまずに活動を続け、1990年には、アメリカのエイズの子供達の施設「グランマ・ハウス」で、エイズの赤ん坊を抱き上げ、その写真が世界中の人々の心を動かします。

 

 

ブラジルのエイズ患者施設を訪問したダイアナ。

こちらは、ゲッティイメージズが掲げる「写真で世界を変える」を実現した例の代表ともいえる1枚です。

当時誤解の多かったHIV感染者やエイズの子供達をダイアナが直接抱きあげ微笑んでいる写真を発信したことで、世界中の人々の偏見を覆した威力的な写真です。

 

一般の人々がエイズへの認識を深め、誤解と偏見を解く事に貢献したダイアナ。

 

その功績の大きさは、計り知れないものでした。

 

◆まとめ ダイアナの自立

 

1985年7月、イギリスとアメリカを結んで、アフリカ難民を救うために開催されたチャリティーコンサート「ライブエイド」が象徴するように、1980年代はチャリティーの時代でした。

 

ダイアナとチャールズも、ライブエイドのロンドン会場に来賓として出席しています。

 

そんな1980年代に皇太子妃となり、慈善事業という自分の道を見つけ、突き進んだダイアナは、まさに時代の申し子だったと言えるでしょう。

 

 

 

一方、チャールズも、人間の自然治癒力と自然医学を研究し、イギリスの保守的な上流階級から「オカルト信者」と言われながらも、信念を曲げずに癌治療への貢献に邁進しました。

 

ダイアナとチャールズは、やはり、根本的にはとても似たところも持っていたのだと思います。

 

しかし、二人は既に交わる事のない別の道を歩き始め、1980年代も、終焉を迎えようしていました。

 

ダイアナ妃の生涯⑪へ続きます。

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ダイアナ妃の生涯⑪20代後半 人生のターニング・ポイント1987年〜1988年 結婚生活の不仲や暗闇から光を見出したダイアナの再起を賭けた一年間

 

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