ダイアナ妃の生涯⑨日本来日でのドレスやファッション 世界中のダイアナフィーバーの影で産後うつに?母となったプリンセスの成長の日々

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ダイアナ妃の生涯

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今回のダイアナ妃の生涯⑨では、世界中で巻き起こったダイアナフィーバーの光と影についてご紹介したいと思います。

 

華やかなスポットライトの影で苦しみながら成長をしていくダイアナ妃の日々を追っていきましょう。

 

ダイアナ妃 (プリンセス・オブ・ウェールズ)

 

◆こちらのブログ記事でダイアナ妃の生涯(人生)幼少期から追ってご紹介しておりますのでよろしければ合わせてどうぞ♪

↓  ↓  ↓

 

ダイアナ妃の生涯①幼少期と少女時代、学生生活 子供の頃から美少女!名門貴族スペンサー家の三女 離婚した両親や優秀な姉弟の狭間で揺れ、活発で心優しい性格がわかる少女時代のエピソード

 

ダイアナ妃の生涯②少女からレディへ 義母との関係は?独身時代は幼稚園教諭のアルバイトをしながらロンドンで憧れの一人暮らしで青春を謳歌したダイアナ結婚前の暮らし

 

ダイアナ妃の生涯③チャールズ皇太子との出会い 姉セーラの恋人だった彼と初恋に落ち、花嫁候補となったのは運命のいたずらが重なって成就したものだった

 

ダイアナ妃の人生④チャールズ皇太子との交際からプロポーズ、婚約までの道のりと有名なサファイアの婚約指輪☆ニックネーム「シャイ・ダイ」の誕生とマスコミとの戦い

 

ダイアナ妃の人生⑤婚約発表から結婚前夜まで センセーショナルな黒のドレスと婚約指輪 ダイアナとチャールズが最高に幸せだった6ヶ月

 

ダイアナ妃の生涯⑥結婚式 世紀のロイヤルウエディング ドレス、ティアラ、ヘアメイク…全てがお伽話のプリンセス!7億5千万人が祝福したイギリス王室史上最高の花嫁

 

ダイアナ妃の人生⑦王室ハネムーン(新婚旅行)と新婚生活 夢から覚めたダイアナ妃とチャールズ皇太子 正反対の性格の二人に早くも訪れた危機

 

ダイアナ妃の生涯⑧妊娠・マタニティファッションと王子の誕生 過食症・つわり・マスコミに悩まされ王室の「問題児」となった苦悩と反逆の日々

 

 

ダイアナ妃が王室に嫁いだ1980年代のイギリスは、「鉄の女」と呼ばれたマーガレット・サッチャー首相のもと、政治、経済ともに、大英帝国のかつての威信を取り戻すべく邁進していた時代でした。

 

また、文化面でも、ビートルズ以来となる英国発のポップグループが世界を席巻する「第二次ブリティッシュ・インヴェージョン」が訪れます。

 

そんな中「ダイアナ妃」も間違いなく「強いイギリス」を象徴する存在でした。

 

 

1981年から1986年にかけてその人気はピークに達し、連日のようにテレビや雑誌に登場したダイアナ妃。

 

世界的な「ダイアナフィーバー」の中、その光輝く姿の影に隠された現実の彼女の苦悩に、世界はまだ気がつく事は出来なかったのです。

 

◆ダイアナ妃の英国王室の慣例を打ち破った型破りの出産

 

ダイアナは、出産に関してもこれまでの英国王室の慣例を打ち破りました。

 

これまでの王室のしきたりでは、王族の出産は、人目につかなかないようバッキンガム宮殿内で行われていましたが、20歳の妊婦は、現代的な医療設備の整った病院での出産を希望します。

 

これに関して、女王とチャールズ皇太子が議論した結果、ダイアナの意志を尊重して、ウェスト・ロンドンのセント・メアリー病院での出産が決まります。

 

伝統に基づき、バッキンガム宮殿で出産するべきだと考えていた女王が、自分の意見を通さなかったという事もまた異例でした。

 

ダイアナの入ったセント・メアリー病院のリンド病棟の最上階は、ダイアナ専用になっていたとはいえ、病室はパイプベッドに最低限の家具しかない普通の質素な病室で、トイレも病室の外にしかありません。

 

ダイアナは完全な自然分娩を希望していましたが、16時間にも及ぶ難産となり、最後は痛み止めを注射して無事に長男のウィリアム王子を出産します。

 

 

そして出産後、わすが23時間で退院しただけでなく、誰の力も借りず、ウィリアムを抱いて自力で病院の外まで歩いて出てきたダイアナ。

 

 

侍医のピンカー医師やマスコミが仰天する中、息子を抱いたダイアナの表情は、イギリス王室の王位継承者を産んだ母としての誇りに光輝いていました。

 

 

◆ダイアナ妃は「産後うつ」だった?出産後のうつ病

 

ウィリアム王子の出産後、ダイアナ自身が「めろめろのパパ」と言ったように、チャールズは公務を減らし、出来る限りダイアナとウィリアムとの時間を作るようになりました。

 

結婚後ずっとバランスを崩していた心の安らぎをようやく取り戻し、家族と共に穏やかな日々を送るダイアナ。

 

待望の第1子、ウィリアム王子を抱いたダイアナの母になった喜び溢れる笑顔♡

 

こらのお写真は1983年、自宅であるケンジントン宮殿で息子ウィリアム王子と2ショットで微笑みあうダイアナ妃の姿になります。

 

しかし、安定の日々もつかの間、しばらくすると疲れによるホルモンバランスの崩れのため、過食症が再発してしまったダイアナは、重いうつ状態に陥ってしまいます。

 

そんな中の1983年3月、ダイアナとチャールズはオーストラリアへの初めての公式海外訪問を迎えます。

 

この時、ダイアナは「ウィリアムが一緒でなければ行かない」と頑なに言い張りました。

 

これまでに前例のないこの要求は、マスコミにも知られ大騒ぎとなり、旅行の実現自体が危ぶまれる問題にまで発展します。

 

この騒動に助け舟を出したのは、当時のオーストラリア首相マルコム・フレイザーでした。

フレイザー首相から「どうぞ王子も連れて来るように」という手紙が届いたのです。

 

確かに、訪問がキャンセルになって困るのはオーストラリア側ですものね・・・。

さすが首相、賢明な判断です。

 

これに喜んだ二人はニュージーランド訪問も予定に加え、家族揃っての6週間の旅が実現します。

 

そしてエリザベス女王は、今回もまた反対する事はありませんでした。

 

女王は、うつ状態にあるダイアナが精神的にバランスを崩す事を、何よりも懸念していたためです。

 

◆オーストラリアでの熱狂「ダイアナフィーバー」

 

オーストラリアに到着すると、以前のウェールズでのフィーバーを上回る熱狂がダイアナを迎えました。

 

初日のアリス・スプリングスからブリスベンへと、行く先々で総勢百万人もの人々が話題のダイアナを一目見ようと押しかけ、全世界の新聞が、ダイアナの一挙手一投を一面で報じます。

 

摂氏35度の暑さと過食症による吐き気の中、世界の自分に対する狂乱ぶりを実際に見、体感して、ダイアナは不安に押しつぶされそうになります。

 

 

これまでのダイアナならば、このまま最後まで泣き通して終わったかもしれません。

 

しかし、この時のダイアナは逃げませんでした。

 

行事をこなしながら、ダイアナは「王室の一員になるとはこういう事なのだ」と、次第に認識し始めます。

 

そして、愛する息子ウィリアムと同じ空の下にいるという事が心の支えとなり、また、ウィリアムの成長について人々と楽しく会話することが出来た事で、ダイアナは無事にこの訪問の全日程を乗り切ることができたのです。

 

1985年10月31日、オーストラリアメルボルン訪問中の一枚。

 

ウエディングドレスを手がけたデザイナー、デヴィッド・エマニュエルによるエメラルドグリーンに、大きなボウがついたワンショルダーのゴ−ジャスなドレスをまとい、晩餐会でチャールズ皇太子と華麗にダンスを披露しました。

 

ダイヤとエメラルドのチョーカーをヘッドバンドにされたコーデが80年代風で、見事なアクセントになっていますよね♡

 

 

この頃のダイアナ妃のお写真を見ていますと、まだ夫チャールズに愛されることを願い、信じていらっしゃったように見えます。

彼女のとっても嬉しそうな表情が、今見ますとなんだか切ない気持ちになってしまいます・・・。

 

結果、大成功に終わったこのオーストラリア訪問をきっかけに、ダイアナの中で明らかに何かが変わりました。

 

ダイアナの心に、王室で生きて行く一つの「自信」が芽生えたのです。

 

 

ですが一方で、今回の訪問もチャールズの心中は実は複雑でした。

 

そう、やはりここでも、主役はチャールズではなく明らかにダイアナだったのです。

 

皇太子妃としての一つ自信が芽生え、ようやく成長し始めることができたダイアナでしたが、ウェールズ訪問で火がついた夫チャールズのダイアナに対する嫉妬の炎が、少しつづ、大きくなって行くのでした・・・。

 

◆永久に平行線を辿る夫婦 ダイアナ妃とチャールズ皇太子

自宅のケンジントン宮殿でくつろぐロイヤルカップル、ダイアナ妃とチャールズ皇太子。

当たり前ですがご自宅が宮殿ってすごいですよね・・・インテリアとか、くつろぐのでしょうか??

 

こちらのお写真は幼いウィリアム王子がケンジントン宮殿の庭を探検する様子を見守るダイアナ妃とチャールズ皇太子の一枚です。

 

長男ウィリアム王子の誕生によって修復されたかに見えたダイアナとチャールズの夫婦関係ですが、残念ながら二人の根本的な性格の不一致に変化はありませんでした。

 

公務に対する二人の姿勢の違いも相変わらずで、1982年11月、ロイヤル・アルバート・ホールで毎年行われる戦没者慰霊祭に、ダイアナは「疲れているから行きたくない」と言い出します。

 

ちなみに、こちらは結婚直後1981年11月4日にヴィクトリア&アルバート博物館でのイベント時のダイアナ妃のお写真なのですが、公務中に若きプリンセスが居眠りをしちゃうというハプニングのレアな一枚。

「プリンセスはお疲れ!?」とメディアは報道しましたが、結婚から約3ヶ月、特殊環境に嫁いで色々あり疲れるにきまっていますよね・・・。慌てたパレスは翌日にダイアナ妃の妊娠を発表したのでした。婚約、結婚、妊娠、出産、うつと彼女に人生はこの頃本当に色々あり疲れているのも当然ですよね。

 

ですが、イギリス王室にとって神聖な行事であるこの式典に皇太子妃が欠席するなど、よほどの理由がない限りは許されません。

 

口論の末、結局ダイアナはこれまでのように泣き喚き、怒ったチャールズが一人で出かけて行くという残念ながらいつものお決まりの展開に・・・。

 

ですがその後、自分のしでかした事の重大さに気づき、怖くなり、慌ててチャールズの後を追ったダイアナ。

 

なんとか15分遅れで式典に到着したのですが、このダイアナの無礼に会場の人々は驚きを隠せまない結果となってしましました。

 

そして、夫婦の問題を重く見た王室は、1983年1月、二人にリヒテンシュタイン公国でのスキー休暇を与えます。

 

ですが・・・フランツ・ヨーゼフ公爵らとスキーを楽しんでいた時、カメラマンに向かってポーズを取るようにとチャールズから頼まれたダイアナは、それを不機嫌な表情も露わに拒否します。

 

マスコミの目の前で繰り広げられたこれらの出来事に、世間では二人の関係について「不仲説」などの様々な憶測が飛び交い始めます。

 

◆次男ハリー王子の誕生

 

夫婦仲が悪化する一方で、長男出産後お互いに「子供を持つ喜び」を知ることができたダイアナとチャールズは、長男のウィリアムが生まれてすぐ、次の子作りの計画を始めます。

 

 

そして1984年2月13日、ダイアナの第2子妊娠が発表されると、それをきっかけに、ダイアナはピンカー医師の協力のもと、ウィリアムの産後から長く続いていたうつ病からようやく立ち直ることができたのです。

 

また、ダイアナとチャールズの関係もこの頃は良好な状態が続いていました。

 

そんな全てが良い方向へと向かっていた9月15日午後4時20分、次男のヘンリー・チャールズ・アルバート・デイヴィッド、通称ハリー王子が誕生。

 

第2子ハリー王子の洗礼式後の公式ポートレイト撮影では、王室に代々伝わるガウンを着た王子を抱き、まるで女神のような微笑を浮かべていたダイアナ妃。

 

ダイアナは今回もウィリアムの時と同じセント・メアリー病院で出産し、翌日にはハリーを連れてケンジントン宮殿に戻ります。

 

 

しかし、今回の次男の出産では前回と違っている事が一つだけありました。

 

実は、チャールズは今回は女の子を望んでいたのです。

 

ハリー王子の誕生を知った時、チャールズはこう言いました

「何だ、男か」。

 

ウィリアム同様、ハリーの事も大変可愛がったチャールズとしては、おそらく、何気なく言った一言だったのかもしれません。

 

しかし、この一言でダイアナの中にわずかに残っていたチャールズへの愛と尊敬が、完全に吹き飛んでしまったのです。

 

こちらケンジントン宮殿で肖像写真のためにポーズをとるダイアナ妃とチャールズ皇太子のロイヤルカップル。

かつてはこんな時期もありました・・・。

お似合いの夫婦で世界中から祝福されて結婚した二人でしたが、とうとう完全に心が離れてしまいました。

 

そして、彼女はチャールズを自分の理想通りに変えるという事は不可能なのだとようやく悟ります。

 

「それならば自分が変わろう」。

これからは、自分の足で自分の人生を歩いて行こう、二児の母となったダイアナは、そう心に決めたのでした。

 

◆ダイアナ妃の来日での「ダイアナフィーバー」

 

結婚後英国王室の華となったダイアナ妃は、実際は王室の大変な問題児ではありましたが、表向きは多くの海外訪問で王室外交に大きく貢献しました。

 

1983年のオーストラリア・ニュージーランドの訪問の後、同じく英連邦のカナダに訪問。

 

1983年6月29日、カナダ、エドモントンをご訪問中の一枚。

ユーコン準州クロンダイクの伝統的コスチュームを身にまとったダイアナ妃、とっても素敵ですよね♡

1985年にはイタリアを訪問し、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世とバチカン市国で謁見します。

 

1985年8月、ウィリアム王子&ハリー王子を連れてチャールズ皇太子とイタリアを訪問した時のダイアナ妃のお写真です。

バチカンでローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とご対面されました。

 

同じ年に訪問したアメリカでは、レーガン大統領に招かれたホワイトハウスでジョン・トラボルタとダンスを披露。

 

こちら、1985年11月、アメリカ訪問中のホワイトハウスのディナーでの一枚。

「ヴィクター・エデルスタイン」のブラックのドレスに身を包み、俳優のジョン・トラボルタと踊るダイアナ妃のお写真。まさに「サタデー・ナイト・フィーバー」です!

 

そんな世界中での「ダイアナフィーバー」真っ盛りの1986年、5月8日の夜から6日間の日程ついにダイアナ妃が日本を訪れました。

 

ニュースやワイドショーで日本でも大人気だったダイアナ妃の来日に日本中が大興奮。

 

京都、大阪、神戸、東京と、ダイアナ妃を一目見るため、大勢の人々が沿道に集まりました。

 

 

来日時素敵なファッションで私たちの目を楽しませてくれたダイアナ妃。

 

彼女の日本での6日間の滞在期間中、日本人に最も鮮烈な印象を与えたのは、やはりこちらの日の丸を意識した白地に赤のドット柄のワンピース姿のダイアナ妃だったのではないでしょうか。

 

 

こちらは、1986年5月に初来日し、京都の二条城を訪問した時のお写真です。

京都府等から贈呈された京友禅本振袖「瑞祥鶴浴文様」をワンピースの上からまとって満面の笑顔を私たちに見せてくれました♡

 

 

京友禅のお着物を羽織って楽しそうに笑う当時の美しいダイアナ妃の姿はあまりにも眩しく、今も記憶に残っていらっしゃる方は多いかと思います。

 

同5月9日、京都の料亭で開かれた安倍外相夫妻(安部首相は当時は外務大臣だったのですね。)主催の夕食会では、ピンクのカクテルドレスで和食を楽しまれています。

 

お箸にもチャレンジされていらっしゃいますね。

 

当時24歳のダイアナ妃、薔薇色の頬、淡いピンクドレスでパッ花が咲いたよう・・・♡美しすぎます♡♡♡

 

1986年05月10日、東京・元赤坂の迎賓館での歓迎式典では、参列した人に笑顔でごあいさつを♡

 

同日、オープンカーでパレードするダイアナ妃とチャールズ皇太子。

 

 

同日、英国フェア開催中だった三越・日本橋本店をご訪問時の一枚。

チャールズ皇太子は「日本人は貯蓄をするのであまり買わないのでしょう」とおっしゃっていたそうですよ。

 

 

同日、相撲観戦、港区のホテルオークラの日英協会主催のレセプションに出席されています。

 

1986年05月12日は、歌舞伎座に。

歌舞伎座を後にするダイアナ妃。子どもたちからの花束に思わずにっこり♡

 

 

同日の夜は英国大使主催晩さん会にて華やかなペールブルーのイブニングドレス姿を披露してくださいました♡

 

こちらは翌日5月13日の宮中晩さん会でのお写真です。

 

昭和天皇主催による宮中晩餐会が、皇居・豊明殿で催され、鳥丸軍雪(GNYUKI TORIMARU)のデザインによるミッドナイトブルーのイブニングドレスで登場。

 

サファイアとダイヤモンドが煌めくベルベットのヘッドバンドは、サウジアラビアのファハド皇太子(当時)からウエディング・ギフトとして贈られたアスプレイ(Asprey)のジュエリーをリフォームしたチョーカーなのですが、この晩餐会ではヘッドアクセサリーとして着用されています。

 

ドレスの雰囲気にピッタリ合っていますよね♡

 

この時、天皇陛下からは九谷焼の壺、皇后陛下からは絹を贈られ、ダイアナ妃は「さっそく洋服を作ります」と喜ばれていらしたそうです。

 

またこの日のお料理は、フランス料理をベースに英国式の味付けにされたものだそうです。

 

 

 

滞在最終日のデイタイムは、ブラック&ホワイトのアウトフィットに合わせ、ダークグレイとナチュラルパールのネックレスをコーデ♡

 

こちらのロンドンのジュエラー「De Vroomen」のパールネックレスは、チャールズ皇太子からのプレゼントなのですが、ダイアナ妃が公式の場で着用したのは数えるほどだったのだそうですのでレアな一枚。

 

漫画ベルサイユのばらの作者の池田理代子が描いたダイアナ妃とチャールズ皇太子来日のテレフォンカードも☆

ダイアナ妃の絵はよく似ていてとっても雰囲気ありますよね♡

チャールズ皇太子はちょっと盛りすぎ・・・?

 

 

こうして、日本中に熱いダイアナフィーバーを巻き起こし惜しまれながら帰国されました。

 

 

そしてこの同年、もう一つ、ダイアナ妃にとって重要な行事がありました。

 

それは、1982年に自動車事故で亡くなった、モナコのグレース公妃の葬儀です。

 

 

結婚前、慣れない公式行事で戸惑うダイアナを優しく励ましてくれたグレース公妃は、ダイアナにとって永遠の憧れの女性だったに違いありません。

 

◆ダイアナ妃とグレースケリーのエピソードはこちらのブログ記事にてご紹介しておりますので合わせてどうぞ。

↓  ↓  ↓

 

ダイアナ妃の人生⑤婚約発表から結婚前夜まで 婚約指輪、センセーショナルな黒のドレスとグレースケリー、ダイアナとチャールズが最高に幸せだった6ヶ月

 

◆まとめ ダイアナの成長

 

婚約から結婚、そしてウィリアム誕生までのダイアナは、何事も自分の思い通りにならないと気が済まない、まだ未熟な女の子でした。

 

日時計によりかかって座るダイアナ妃

 

 

しかし、英国王室の王位継承者である息子を生み、2児の母となったダイアナに芽生えた自信と責任感が、ダイアナを少しづつ成長させて行きます。

 

1986年、ケンジントン宮殿のダイニングテーブルでの会議の最中、書類を手にとるダイアナ妃。

 

公務のための衣装を考えるダイアナ妃の一枚。

ケンジントン宮殿のリビングルームでデザイナーのデイビッド・エマニュエルとエリザベス・エマニュエルに囲まれて、次の旅行のために衣装のデザインと生地を検討するダイアナ妃です。

 

次男のハリー誕生の際、チャールズが放った一言で、ダイアナは「私の中で何かが死んだ」と思ったといいます。

 

 

その時、チャールズに幻想を抱いていた夢見る少女は姿を消し、自分の目で現実を見据える大人の女性へと生まれ変わったのです。

 

ダイアナ妃の生涯⑩へ続きます。

↓  ↓  ↓

 

ダイアナ妃の生涯⑩慈善事業への目覚め HIV感染者やエイズの子供達を直接抱きあげた写真の功績 占星術で新たな目標を見つけたダイアナの自立への道

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