ダイアナ妃の人生⑤婚約発表から結婚前夜まで 婚約指輪、センセーショナルな黒のドレスとグレースケリー、ダイアナとチャールズが最高に幸せだった6ヶ月

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今回のダイアナ妃の人生(生涯)⑤では、チャールズ皇太子との婚約発表から、あの正規の結婚式前夜までのダイアナの約6ヶ月間の婚約期間について詳細やエピソードなどをご紹介してみたいと思います。

 

こちらのお写真は1981年、結婚式が7月に決まった二人のスコットランドのバルモラル城に滞在中のものです。

レディ・ダイアナ・スペンサーはラバーブーツとカジュアルなセーター姿でお目見え。

まだ可愛らしい雰囲気ですね♡

 

◆こちらでダイアナ妃の生涯(人生)追ってご紹介しておりますのでよろしければ合わせてどうぞ♪

↓  ↓  ↓

 

ダイアナ妃の生涯①幼少期と少女時代、学生生活 子供の頃から美少女!名門貴族スペンサー家の三女 離婚した両親や優秀な姉弟の狭間で揺れ、活発で心優しい性格がわかる少女時代のエピソード

 

ダイアナ妃の生涯②少女からレディへ 義母との関係は?独身時代は幼稚園教諭のアルバイトをしながらロンドンで憧れの一人暮らしで青春を謳歌したダイアナ結婚前の暮らし

 

ダイアナ妃の生涯③チャールズ皇太子との出会い 姉セーラの恋人だった彼と初恋に落ち、花嫁候補となったのは運命のいたずらが重なって成就したものだった

 

ダイアナ妃の人生④チャールズ皇太子との交際からプロポーズ、婚約までの道のりと有名なサファイアの婚約指輪☆ニックネーム「シャイ・ダイ」の誕生とマスコミとの戦い

 

 

1981年、チャールズ皇太子のプロポーズを受けたダイアナについて、社交界では「ダイアナはチャールズ本人ではなく皇太子という地位に恋していた」と噂する声もありました。

 

また、チャールズ皇太子についても「ただ単に皇太子妃の条件が揃っていたダイアナを選んだ」という見方が多いのも事実です。

 

その後、二人が辿った結婚生活から見れば、それらの意見もやはり一つの真実だったのでしょう。

 

しかし、二人が純粋に愛し合っていた時があったという事も、また確かな事実だったのです。

 

たとえ、それがほんの束の間の事だったとしても・・・。

 

 

◆プロポーズを受け、未来のプリンセスへの幸福に包まれたダイアナ

1981年5月22日に撮られた一枚。テトベリーを訪問中の未来のプリンセスを一目見ようと、この日、大勢の人々が詰めかけました。

 

「姉は幸福に満ち溢れて、光り輝いていました。」

ダイアナの弟チャールズは、チャールズ皇太子と正式に婚約した時のダイアナの様子をこう振り返っています。

 

ダイアナの両親は娘のこの偉業に歓喜し、チャールズの元恋人であった姉のセーラ(長女)は、主役の座を奪われた事に多少のジェラシーを覚えながらも妹の幸せを祝福しました。

セーラらしいですね。

 

一方、現実的性格の姉ジェーン(次女)は、ダイアナの今後の王室での生活を少なからず心配します。

これもまたジェーンらしい愛の形です。

 

プロポーズから2日後、ダイアナは母フランシス(実母)と義父ピーター・シャンド=キッドと共にオーストラリアへと旅立ちました。

 

このお忍びの家族旅行を知っているのはチャールズ皇太子ただ一人。

 

お陰でダイアナはマスコミに知られる事なく、牧場や海辺の家で、のんびりと親子水入らずの時を過ごします。

 

滞在中、チャールズからの連絡がない事も、婚約をして心に余裕が出て来たダイアナは、あまり気を揉まなくなりました。

 

 

オーストラリアから帰国すると、ダイアナのフラットにチャールズから豪華な花束が届きます。

 

これ、本当はサプライズのつもりだったのですが、結局、事前に王室からダイアナに連絡が入ってしまい、全くもってサプライズに出来なかったちょっと残念な男チャールズ。

 

とはいえ、ダイアナへの愛情を表現しようとした努力は認めてあげたいところですよね。

 

 

◆婚約発表までの2つの事件

結婚式を控えた1981年6月16日、アスコット競馬場でのレースの後、ウィンザーで撮られた一枚。

メディアはダイアナを追いかけ続けていました。

 

ダイアナとチャールズの婚約期間中、ある悲しい事件が起こりました。

 

ダイアナが見守る中、チャールズが愛馬アリバーを走らせていると、突然アリバーが心臓麻痺を起こし急死してしまったのです。

 

ショックに打ちひしがれる二人。

 

しかし、愛馬を亡くした悲しみが癒える間も無くチャールズには公務が待っていました。

 

「私がいない間、レディ・ダイアナの面倒をよく見てくれ。いいね、くれぐれも頼んだよ」スタッフにそう念を押して、チャールズは公務へと発って行きました。

 

 

一方、バッキンガム宮殿では二人の挙式に向けた準備が極秘かつ迅速に進められていました。

招待客のリスト、料理の手配、そして婚約指輪の準備。

 

ダイアナは、王室御用達の宝石商「ガラード」が取り揃えた指輪の中から、周囲に眩いダイヤモンドが散りばめられた大粒のブルーサファイアのリングを選びました。

 

。彼女は婚約指輪に、14カラットのダイヤに囲まれた18カラットのサファイアをガラードのジュエリーカタログから選んだ。

 

 

ですがその後、この婚約指輪が実はガラードのカタログにも載っている既製品だったという事が判明し、驚いたエリザベス女王は猛反対します。

 

とはいえ、今さら指輪を変更する時間はなく、結果、ダイアナは「お金さえ出せば誰でも買える指輪」で婚約発表に臨む事になったのです。

 

後にダイアナの息子ウィリアム皇太子が結婚の際にキャサリン妃に受け継がれたあの有名なサファイアのリングには、実はこのような背景があったのですね・・・!

 

どこからどうみても素敵すぎてため息のでるようなリングですが、このエピソードを知りますと、既製品ということで王室の結婚「ロイヤル」なエンゲージリングにはちょっと相応しくなかったもかもしれませんね。

(ダイアナという付加価値がついて、今は他にはない特別なリングになりましたが。)

 

しかし、この婚約期間に起こった二つの事件、愛馬の死も既製品の指輪もダイアナの心を曇らせる事はありませんでした。

この時のダイアナは、それ以上に幸せの中にいたのです。

 

 

◆光り輝く笑顔が溢れた婚約発表の日

 

「女王陛下ならびにエディンバラ公爵の愛息プリンス・オブ・ウェールズと、スペンサー伯爵ならびにシャンド=キッド令夫人の令嬢レディ・ダイアナとの婚約をここに発表できますことは、まことに喜びの極みであります。」

 

ダイアナが友人と気ままな暮らしを送っていたコールハーン・コートを去った翌日の1981年2月24日、バッキンガム宮殿にて式部官のマクレーン卿が二人の婚約を正式に発表しました。

 

この婚約は満場一致の笑顔で承認され、その後、婚約指輪を披露するためにバッキンガム宮殿の庭に姿を現したダイアナとチャールズ。

 

1981年2月24日、チャールズ皇太子とダイアナの婚約発表。

こちらの写真は発表後、バッキンガム宮殿の敷地内で撮影されたもの。

 

鮮やかなロイヤルブルーのスーツに身を包み、左指に婚約指輪を見せながらカメラに向かってポーズを取るダイアナは、まさに「幸せそのもの」。

 

記者会見で「殿下を愛しておられますか」という記者からの問いに、ダイアナは「もちろんです」と即答します。

 

チャールズの答えは「まぁ、そういうことだね」。

 

この時、イギリス全体がお祝いムード一色に染まり、バッキンガム宮殿ではエリザベス女王から宮殿のスタッフたちまで、皆がピンクのシャンパン(ロゼシャンパン)で二人のバラ色の未来を祝福しました。

 

この日婚約発表の日の幸せは、昨夜、お別れするルームメイトたちに「お願いだから、電話をちょうだい」と書き残した辛さも、もう二度とヤング・イングランド幼稚園で働く事はないという寂しさも、一気に忘れさせてくれた事でしょう。

 

結婚の前年の1980年、ダイアナは保母として働いていました。

 

◆バッキンガム宮殿での至福の時間

結婚を控えた1981年7月に撮られた写真。

絶え間ないマスコミはダイアナを疲弊させ続けてていました。

ポロの試合で、「しつこいパパラッチ”が20歳のダイアナを泣かせた」と、当時ワシントン・ポスト紙が報道。

ですが、いよいよ結婚式を数日後に控え、さらにスポットライトを浴びる生活が正式に始まることになるのです。

 

婚約発表の後、ダイアナは皇太后の住居クラレンス・ハウスで祖母のファーモイ男爵夫人から、イギリスの皇太子のお妃としての教育を受けるものと思われていました。

 

しかし、意外にもダイアナはすぐにバッキンガム宮殿へと移されます。

 

しかも宮殿でのダイアナの部屋はチャールズの部屋のすぐそば。

 

マスコミはこの事実を知らず、こうして、ダイアナとチャールズはこの年の7月に決まった結婚式まで誰にも邪魔されることなく二人きりの時間を過ごせる事になったのです。

 

チャールズが宮殿にいる時、ダイアナは常に言葉とスキンシップで愛情を表現していたといいます。

チャールズもこの可愛らしいダイアナの影響で、次第に明るく生き生きと若返って行きます。(結構年の差婚ですものね。)

 

チャールズが公務で留守にしている間、ダイアナはまだ宮殿内で自由に過ごす事が出来ました。

 

テレビを見たり、ウォークマンで音楽を聞いたり、ジーンズ姿で宮殿で働くスタッフに会いに行ってスタッフを驚かせたり・・・

 

そして、チャールズが公務から帰ってくると、固く抱擁しキスを交わす二人。

 

その姿に「こっちの方が赤面してしまったよ」と、チャールズの側近だったスティーヴン・バリーは後に語っています。

 

 

◆内気で野暮ったい少女「シャイ・ダイ」から洗練された優雅な「プリンセス」への華麗なる変身

 

バッキンガム宮殿での新生活に慣れてくるにつれ、ダイアナは自分の立場に徐々に自信を持ち始めます。

 

そんなダイアナの最大のコンプレックスは以外にも、自分の「ルックス」でした。

 

ダイアナはテレビや写真に映る、太った自分の姿に衝撃を受けたのです。

 

確かにややふっくらめ・・・?この方が可愛い気もしますが♡

 

そして、ここからダイアナの決死のダイエットが始まります。

 

厳しく食事を制限し、母校ウェスト・ヒース校のダンス講師ウェンディ・ミッチェルを宮殿に招いてバレエのレッスンに励みます。

 

それだけでなく、ダイアナは「ヴォーグ」のオフィスを訪れ、ファッションやメイク、ヘアスタイルについてのアドバイスも受けました。

 

また、元モデルのグレース・コディントンが身のこなしやカメラの前でのポージングまでダイアナに徹底指導。

 

これには、結婚前にヴォーグで働いていた姉ジェーンの人脈が大きく物を言いました。

ジェーンはいつの日も本当に頼りになるお姉さんですよね。

 

この努力の結果、74センチだったダイアナのウェストは結婚式までに58センチまで細くなります。

 

そして、内気で野暮ったい少女「シャイ・ダイ」は姿を消し、洗練された優雅なレディ「プリンセス・ダイアナ」ひと生まれ変わったのです。

 

 

◆黒いドレスとモナコ、グレース・ケリー王妃との出会い

 

独身時代、洋服に無頓着だったダイアナにとって、まず服を揃える事は急を要する問題でした。

 

ヴォーグの協力のもと、ダイアナは多くのデザイナーの服を揃えて行きます。

 

その中で、エマニュエル兄妹の服を気に入ったダイアナは、ウェディング・ドレスのデザインを彼らに依頼しました。

 

そして、婚約発表後、ダイアナにとって初めての公式行事となる1981年3月、ロンドンのチャリティ・ガラ用のドレスの制作も彼らが引き受けます。

 

それがあのセンセーショナルな黒のドレスでした。

 

 

肩紐のない胸元と背中が大きく開いた大胆な黒い舞踏会用のドレス。

 

若いダイアナのこの瑞々しい姿は、当時、日本のニュース番組でも取り上げられるほどでした。

 

車を降りたダイアナの魅力に群衆は圧倒され、ため息をつき、チャールズも婚約者の美しさに鼻高々でしたが、保守的な人々は「肌を露出しすぎて下品」だと批判し、皇太后も気分を害したと言います。

 

お年寄りには少々刺激が強すぎたドレスだったんですね。

この黒ドレスはやはり結果、大失敗となり、散々批判されて一時はワーストドレッサーになってしまいます。

 

ですが、このドレスはその後ダイアナ妃が「ファッションリーダー」としての階段を
駆け昇る最初の一歩となったことは間違いありません。

 

ちなみにこのドレス、彼女の死後「ケリー・テイラー・オークション」にかけられ、192,000ポンドで落札されています。

 

買い手はチリの「ファンダシオン・ムゼオ・デ・ラ・モーダ」というファッション博物館だそうですが、日本の私たちは、チリは遠すぎてなかなか見に行けませんよね・・・(涙・・涙・・)

 

そして、このチャリティガラのパーティーにはもう一人の主役がいました。

 

モナコのグレース王妃、そうあのグレース・ケリーです。

 

 

群衆の視線にさらされ緊張するダイアナの様子を見たグレース王妃は「心配しないで。」と声をかけ、ダイアナを安心させたと言います。

 

伝説にのこる美女ふたりの、エピソード、実際の詳細はこんな感じだったようです・・・。

チャールズ皇太子の婚約相手当時19歳「ダイアナ」が公式の場に初登場のこの日、実際の真相は、ダイアナは予定していたドレスが届かず、仕方なくサイズが一回り小さいあの黒いドレスを着ざるを得ないハメに陥っていたのです。

そして「胸の部分が露出し過ぎる」ということで、恥ずかしさのあまり顔から火が出る思いで、見るからに肩を落としてションボリとしていたのだそうです。

 

このダイアナの様子を見たグレース公妃は、ダイアナを化粧室に呼び込んで「どうしたの?」と優しく声をかけます。

すると、ダイアナは張りつめていた緊張感が緩んだのか、グレース公妃の前で泣き崩れてしまったのだそうです。

 

さて・・・この時、グレースケリーは号泣しているダイアナに向かって一体どんな言葉をかけたのでしょうか?

 

実はなんと、こう言ってのけたのだそうです。

 

「あなた、心配しないで。これからもっと悪くなるだけだから。」

 

達観していると言うか、なんといいましょうか・・・

アメリカからモナコ王室に嫁いで実際に多大なる苦労をされていたグレース王妃ですから、この時のダイアナの状況やこの先の彼女に待つ運命がよく見えていたのかもしれません。

へたに優しい言葉をかけて励ますよりも「王室に嫁ぐということはそういうこと。覚悟しておいたほうがいいわよ。」というメッセージでダイアナを勇気付けたのでしょうか。

 

そして、このグレースケリーの言葉を聞いたダイアナは、ようやく結婚に向けて肝が据わったということだったのだそうです。

 

そして、この二人の会話が交わされた翌年の1982年の9月14日。

グレース・ケリーは自動車事故でその53年の生涯を閉じることになるのです。

ダイアナ妃も最終的にグレース公妃同様に不慮の自動車事故で亡くなったということを考えますと、なんだか二人には運命的な悲しい縁があったのかもしれないですね。

 

◆大好きですのでグレースケリーのお写真も色々どうぞ♪

1956年4月18日、結婚式で笑顔を見せるグレース・ケリーとモナコ公国のレーニエ3世。

 

グレース・ケリーと息子のアルベール2世

 

アルベール王子とカロリーヌ王女

グレースケリーは美しく、王女も王子もまた可愛いです♡

 

グレース王妃はモナコのバラと言われました。

 

 

こちらがロンドンのチャリティ・ガラでのダイアナとグレース王妃のお写真になります。

 

その後、時は流れて・・・この光輝く幸福の中にいる美女二人が共に「自動車事故」で亡くなるとは、この時誰も想像すらできませんし、やはり何か?二人には数奇な運命を感じてしまいます。

 

◆結婚へのプレッシャー

 

 

結婚式へ向け、シーツをつなぎ合わせてベールをひきずる練習に励んでいたダイアナですが、急激な環境の変化は、知らず知らずのうちにダイアナの心を追い詰めていました。

 

また、セント・ポール寺院でのリハーサルを重ねる度に、ダイアナは事の重大さに恐れをなして行きます。

 

そして、次第に情緒不安定の症状が現れ始めたのです。

 

ダイエットのための食事制限の反動で過食気味になったり、ポロの競技場でカメラマンの前で急に泣き出したり、結婚式の数日前に急に挙式を取りやめると言い出したり・・・。

 

その度にチャールズは慌てて駆けつけてダイアナを慰め、群衆の目から守りました。

 

公務で海外へ出かけている間も、ひんぱんに電話をかけてダイアナを気遣います。

 

この時期、二人は確かに愛し合っていたのです。

もしかしたら、何かのきっかけさえあれば、この二人は良い夫婦になっていたのかも知れません。

 

 

◆まとめ ダイアナの期待

 

結婚式の前夜、何百万人もに見られるプレッシャーに押しつぶされそうになっていたダイアナに、チャールズからのカードが届きます。

 

そこにはこう書かれていました。

「きみのことをとても誇りに思っている。明日、僕は祭壇の前できみを待っている。彼らをじっと見つめて、悩殺してやりたまえ!」

ダイアナは、愛情あふれるこのカードを読んで、ようやく眠りにつくことができました。

 

結婚さえすれば、マスコミの激しい攻勢もカミラ夫人の影も、きっと消えてなくなるはずだと、あと数時間後に訪れる、歴史的な結婚式に期待しながら・・・。

 

ダイアナ妃の生涯⑥へ続きます。

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