ポンパドゥール侯爵夫人の生涯⑦晩年と最期の死の時 後世に残した遺産 浪費と贅沢でロココ文化を生み出し、フランス革命の火種に?名言「私の時代」を駆け抜けた人生のフィナーレ

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ポンパドゥール夫人の生涯 最終回⑦

 

今回のポンパドゥール夫人の生涯を追うこちらのブログでは、最期にポンパドゥール夫人の死、そして、彼女の生涯での浪費や後世に残した遺産など、全力でその生涯を華やかに駆け抜けたポンパドゥール侯爵夫人の人生のフィナーレをお届けいたします。

 

ポンパドゥール夫人ことポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソンの晩年の肖像画(1721年12月29日 – 1764年4月15日)

 

◆以下のブログ記事にてポンパドゥール夫人の生涯(人生)をご紹介しておりますのでよろしければ合わせてどうぞ♪

↓  ↓  ↓

 

ポンパドゥール夫人の生涯①幼少期 ニックネームは「レネット(王妃ちゃん)」 平民でありながら貴族のように誰からも愛された完璧過ぎる美少女!

 

ポンパドゥール夫人の生涯②国王ルイ15世の愛妾への道 チャンスは待つものではなく掴むもの!夢を諦めなかった平民出身の小悪魔ブルジョワ娘のシンデレラ・ストーリー☆

 

ポンパドゥール夫人の生涯③ヴェルサイユ宮殿での愛妾生活 現在も人気の髪型など「ア・ラ・ポンパドゥール(ポンパドゥール風)」ブームを巻き起こしロココのファッションリーダーに

 

ポンパドゥール夫人の生涯④「鹿の苑」の女主人 ルイ15世の愛人から友人へ …「欲しいのは陛下のお心だけ!」ライバル達とのヴェルサイユでの戦い

 

ポンパドゥール夫人の人生⑤政治と宗教 王の公妾でありながらオーストリア女帝マリア・テレジアも認めた敏腕政治家としての功績

 

 

七年戦争が始まった頃から、もともと体が弱かったジャンヌ(ポンパドゥール夫人)の健康状態は悪化し始めます。

 

そして、七年戦争の敗北による失意で、ジャンヌはさらに衰えて行きました。

 

もともと身体の弱かったジャンヌですが、愛妾となってから何度か経験した流産や、宮廷生活と政治を巡る度重なる心労やプレッシャーで心身共に限界に達していたのです。

 

しかし、人前では平静を装い陽気に振舞っていたジャンヌ。

彼女の残された日々は、とうとう自分との闘いの日々となったのです。

 

今回のこちらのポンパドゥール夫人の生涯を追うこちらのブログ最期の章では、ポンパドゥール夫人(ジャンヌ)の晩年とその最期、また、何かと批判された贅沢や浪費、そして彼女が後世に残した遺産や功績についてご紹介いたします。

 

◆病状の悪化とマリア・テレジアからの贈り物

 

1757年、激しい頭痛に襲われ、しばしば気絶するようになったジャンヌは、35歳で初めて遺言状を作成しました。

 

自分の死を予感し徐々に弱って行く中、1759年にオーストリアの女帝マリア・テレジアから思いがけない贈り物が届きます。

 

それは、最新流行の直線型書き物机で、それに宝石や彫金などの加工が施された大変豪華な品物でした。

 

マリア・テレジアは、ジャンヌが外務大臣を弱腰のベルニス師からショワズール公爵に代えた事を喜び、その気持ちをこの贈り物に表していたのです。

 

ジャンヌは女帝に宛てて直々の礼状を差し出す許可を得ると、その署名に「ジャンヌ・ド・ポンパドゥール」と記しました。

 

「ポンパドゥール侯爵夫人」と署名しなかったところに、ジャンヌの女帝への心酔が現れていますね。

 

自らの体調悪化と七年戦争で苦戦を強いられている最中に届いたこの憧れの女性からのプレゼントに、ジャンヌはどれだけか勇気付けられた事でしょう。

 

 

◆女性として 最後のライバル

 

ジャンヌの晩年にも、最愛王とも呼ばれたほど女性に目が無く好色だったルイ15世の情事は相変わらず続いていました。

 

1762年、王はロマン嬢という美しい黒髪の女性を見初めます。

 

「鹿の苑」入りを拒んだロマン嬢は、王が買い与えた小さな家で男の子を産みました。

それを知ったジャンヌは、身分を隠してこっそりロマン嬢を見に行たといいます。

 

ブーローニュの森で赤ん坊に授乳する眩しいロマン嬢の姿を見たジャンヌはひどく落ち込みました。

王との間に子に恵まれず、日に日に衰えていくジャンヌにとって、おそらく、それ以上の敗北はなかったのでかもしれません。

 

その時、悲しげなジャンヌを励ましたのはまたもや親友のミルポワ夫人でした。

 

「王様は子供の事など気にかけておられませんわ。既に大勢い過ぎますから」

 

ミルポワ夫人の言う通り、しばらくするとロマン嬢は王から遠ざけられ、その息子も若くして亡くなります。

 

それにしてもジャンヌにいつも適切な助言をしてくれるこのミルポワ夫人。

やはり持つべきものは良き女友達ですね。

これを機に、ジャンヌは王の情事について悩む事を止めました。

 

 

◆晩年 近づく死の影とモーツァルトの訪問

 

1763年12月29日、ジャンヌは42歳の誕生日を迎えます。

 

その頃、オーストリアのザルツブルクから来た6歳の少年がヴェルサイユを訪れていました。

少年の名は「ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト」。

そう、あのモーツアルトですね。

 

当時、天才的なピアノ演奏で神童と噂されていたモーツァルト少年は、1762年にウィーンのマリア・テレジアの前で演奏を披露し、この時、将来のフランス王妃マリー・アントワネットと出会いプロポーズしたというエピソードは有名です。

 

マリーアントワネットの生涯① 幼少時代~ウィーンの宮廷での生活とモーツアルトからのプロポーズ♪母マリアテレジアの方が実は美女だった!?

 

ジャンヌはモーツァルトをエリゼ宮に招きました。

モーツァルトの父レオポルトは、友人に宛てた手紙にこの時の晩年のジャンヌの様子をこう書いています。

 

「威風堂々として、知性の輝きを放っておられました」

 

この当時、夜一人になると泣いていたというジャンヌ。

天才モーツァルトの美しい演奏は、人生最後の年を迎えたジャンヌの心を大いに癒したに違いありません。

 

◆ポンパドゥール公爵夫人の死 最期の時

 

「いつ死ぬのでしょう?」

ジャンヌは当時人気のあった占い師、ボンタン夫人にそう尋ねました。

 

この時のジャンヌは、既にもう自分にとって死だけが安息への道だと考えていたのでしょうか。

 

1764年2月29日、ショワジー城で急激な偏頭痛に襲われ高熱を出したジャンヌはついに床に伏します。

 

ずっと側についていた王はその死期が近づいている事を確信し、ヴェルサイユ宮で死ねるのは王侯のみというしきたりを破ってジャンヌを宮殿に戻しました。

 

4月13日、危篤状態に陥ったジャンヌは王に尋ねます。

 

「もう懺悔をした方がいいでしょうか」

 

王は頷き、これがルイ15世とポンパドゥール夫人の二人が共に過ごせた最後の時間となりました。

 

1764年4月15日、ショワズール公爵ら盟友が見守る中、ふと退室しようとした司祭にジャンヌは声をかけます。

 

「お待ちください、司祭様、私もご一緒に」

 

午後7時30分、ジャンヌは息を引き取りました。

死因は結核でしたが、王は病気が移ることも厭わず、自らポンパドゥール夫人を看病していました。

 

最期の時まで薄化粧をして紅をさし、ユーモアをも欠かさなかった名女優の舞台についに幕が降ろされたのです。

 

◆ポンパドゥール夫人の遺品に見る莫大な浪費と贅沢

 

生前のジャンヌは、莫大な浪費を国庫から支出させていると、重税にあえぐ庶民だけでなく、貴族からも不評を買っていました。

 

七年戦争の敵、口の悪いプロイセンのフリードリヒ2世は、ジャンヌを「金の亡者」と呼んでいました。

 

ジャンヌの浪費は彼女が死後に残した膨大な遺品に現れています。

 

画家のブーシェの作品を始めとする絵画、版画は99点に及び、中世の貴重な原稿を含む書物は三千冊以上に上りました。

 

また、シルクやサテンなど高価な織物のドレス類は衣裳ケース9箱に収められ、ケース一箱につき22着のドレスとペチコートが入っていました。

 

その他にも、各邸宅で使用されていた山ほどの家具と工芸品、宝石、銀器、馬車、植木なども含め、これらの遺品を相続した弟のマリニー侯爵ことアベルは、遺品を収納するためにパリに二軒の邸宅を購入しなければならない程でした。

 

1766年に始まった競売は一年間続き、パリの見物名所になったと言います。

 

 

◆ポンパドゥール夫人の浪費①娯楽と芸術、文化

 

ジャンヌは王の愛妾になった時こう言い放ったといいます。

「私の時代が来た」

名言ですね。

 

そしてその言葉通り、元々芸術への関心が高かったジャンヌは、国王という財力を手に入れると、いよいよその欲求に歯止めが効かなくなります。

 

ジャンヌが1747年に立ち上げた「小部屋劇場」は、その後、組み立て式の大きな舞台へと規模を拡大し、これにかかった費用が七万五千フラン(約3千7百5十万円)。

(参考:飯塚信雄著「ポンパドゥール夫人 ロココの女王では1フラン5千円で計算されています。」)

 

そして、1シーズンの上演費用が五十万フラン(約2千5百万円)。

これの莫大なオペラの運営費は1753年まで続いていったのです。

 

また、ジャンヌはありとあらゆる美術品を集めるコレクターでもありました。

 

1751年の1月から6月までの半年間だけで、ジャンヌは宝飾品商デュヴォーから、クリスタル製シャンデリア、ブロンズの花瓶、マイセン磁器、めのう製裁縫箱、水晶香水入れ、金製鳥籠などなど、総額一万四千フラン(約7千万円)以上の品物を購入しています。

 

また、これとは別に、お抱えの芸術家たちから絵画や彫刻なども直接買い上げていたのです。

 

これらはすべてジャンヌの城館を飾るために購入された品々でした。

 

◆ポンパドゥール夫人の浪費②城館と旅

 

ジャンヌの所有する数々の城館にかかった費用も莫大なものでした。

 

ジャンヌが愛妾となってから亡くなるまでの二十年間で、城館の建設、増改築にかかった支出は合計約七百五十万フラン。

 

王は気晴らしのためにジャンヌの館をぐるぐると回っていましたが、館での豪華な食事、特別な衣装、趣向を凝らした余興などで、2、3日過ごすだけでも十万フランもの予算かかっていたのです。

 

さらに、遠出した海辺のルアーヴルへの旅では百万フランが費やされました。

 

また、ベルヴュー城が完成した時、ジャンヌは打ち上げ花火による盛大な落成式を計画していましたが、この建設に反感を持つ市民たちが続々とセーヌ川の対岸に集結し、ジャンヌは泣く泣くこの落成式を中止します。

 

また、ベルヴュー城での支出について、ジャンヌは友人への手紙にこう書いています。

 

「この支出は大したことではございませんのに、世間は大したことのように思っています。」
完全に金銭感覚が麻痺していたジャンヌでした。

 

 

◆ポンパドゥール夫人の浪費はフランス革命の火種に?遺産と後世まで受け継がれた功績

 

市民から「フランスで一番の重荷」と非難されていたジャンヌのこれら浪費が、フランスの財政を圧迫していたという事は間違いありません。

 

しかし、彼女の浪費は全て無駄遣いだったのでしょうか。

 

1751年にジャンヌの尽力で着工し、ジャンヌの死後1773年に完成した陸軍士官学校は、その後、かの皇帝ナポレオンことナポレオン・ボナパルトもここで学び、現在もフランス軍関係の諸機関が置かれて使用されています。

 

また、陶器好きだったジャンヌが、ドイツやオランダにも負けない品質の陶器をフランスでもと夢見て1756年に開いたセーヴル窯では「ポンパドゥール・ローズ」に代表される美しい色彩の陶器が制作され、繊細で割れやすかったにも関わらず今でも貴重なコレクションが残されています。

 

セーヴル焼の食器は現在も愛されていますね。

 

そして何より、ジャンヌが多くの芸術家のパトロンとなり庇護した事で、「ロココ」という一つの文化が生まれ、その作品は今も、そしてこれからも私たちの目を大いに楽しませてくれているのです。

 

「ロココ」といいますとマリーアントワネットの印象が強いかと思われますが、実はポンパドゥール夫人が生み出し、ロココが最も栄えたのも彼女の時代だったといいます。

 

マリーアントワネットの時代は戦争や作物の不作などですでにフランスの財政は傾き、破綻しかけていました。(またこのポンパドゥール夫人の時代での浪費のためとも言われています。)

 

また、ジャンヌは決して自分のためだけにお金を使ったわけではありませんでした。

 

身体の不自由な人々への支援を忘れず、庇護を約束した人には年金を支払い続けました。

 

そのジャンヌの年金支払いリストのトップにはこう書かれていたのです。
「9歳の時、将来、王の愛妾になると予言したルボン夫人に」

 

 

◆フランス国王ルイ15世の愛妾(公妾)ポンパドゥール侯爵夫人の生涯 まとめ

 

42年という短い人生を全速力で駆け抜けたポンパドゥール夫人ことジャンヌ・アントワネット。

 

彼女はその生涯の全てをフランス国王ルイ15世に捧げました。

 

では、王はジャンヌをどう思っていたのでしょう?

 

王は、ジャンヌとの老後のために、トリアノン宮にプチ・トリアノンの建設を始めました。

(後にマリーアントワネットが所有する館ですね)

 

マリーアントワネット⑪ プチトリアノン宮と王妃の村里(アモー)の全貌~トリアノンでの王妃のファッション、恋愛、贅沢と浪費。母になったアントワネットの子育てやその暮らしぶりは?

 

また、ジャンヌの死を覚悟した時、王は娘婿のスペイン王子に宛てた手紙に「二十年来の友人、確かな友情」と書き、そしてジャンヌの葬儀の際には、宮殿のバルコニーで棺が見えなくなるまで立ち尽くしていたと言います。

 

彼女の棺がヴェルサイユから出発する日は雨でした。

それを見たルイ15世は「夫人の旅路には、あまり良い天気ではないな」と寂しげに呟いたといわれています。

 

感情をなかなか表に出せなかった王ですが、きっとジャンヌを心から、深く愛していたのではないでしょうか。

 

そして、彼女が王から受けた大きな寵愛は、決して美貌や性的魅力だけによってのものではなく、彼女の人柄、深い教養によるウィット(機知)からくるものだったとジャンヌ自身も確信していたのではないかと思います。

 

そして、ジャンヌの死後、フランスは大革命へとひた走って行きます。

 

ジャンヌことポンパドゥール夫人の生きた時代は、フランス絶対王政の最後の輝きだったのかも知れません。

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