皇妃エリザベートの生涯⑤晩年と最期の刺殺事件による死因の真相 常に喪服で過ごした晩年 どこまでもつきまとう絶望と悲しみの中で訪れたシシィ人生最期の時


今回のブログではオーストリア皇妃エリザベートの人生(生涯)⑤

シシィの晩年と死、人生最期の時のことをご紹介してみたいと思います。

◆エリザベートの人生(生涯)につきましては、以下のブログ記事にて色々ご紹介しておりますので、合わせてどうそ♪

↓ ↓ ↓

皇妃エリザベートの人生①幼少期~結婚 子供時代は変わり者?最も幸せだったシシィの15年間 ルートヴィヒ2世との関係も

皇妃エリザベートの人生②結婚後の生活 姑との確執と夫とのすれ違い 子供を奪われたシシィの宮廷での悲しき日々

皇妃エリザベートの生涯③美容法 美貌への目覚め 身長172㎝体重46㎏ウエスト50㎝ 脅威のプロポーションを維持した美魔女シシィの飽くなき美への追及

エリザベートが晩年、どんな晴れやかな場面でも喪服に徹していた事は、その美貌と徹底した美容法や、莫大な浪費などのエピソードと並んで有名です。

また、エリザベートと親交のあったフランス皇妃ウジェニーは、晩年のエリザベートについてこう回想しています。

「魂が別世界を漂っているようで、なんだか幽霊と一緒にいるみたいでした」

ここでは、そんな抜け殻のような日々を送った皇妃エリザベートの晩年を中心に、その最期の瞬間についてご紹介いたします。

◆シシィ生涯最良の日

皇妃エリザベートの生涯の中で、特別な存在となったのがハンガリーです。

オーストリア皇妃となってすぐ、エリザベートはフランツ・ヨーゼフと共に公務でハンガリーを訪問します。

バイエルンの実家で習っていたハンガリー語を生かし、自ら馬に乗って式典に参加したエリザベートは大人気となり、エリザベート自身も開放的な風土のハンガリーに魅了されました。

帝国からの独立を目指すハンガリーは、その独立の第一歩としてオーストリア皇帝がハンガリー王も兼ねる二重帝国の成立を求めていました。

そして、プロイセンとの戦争に負けたオーストリアは、ハンガリーの協力を求めざるを得なくなり、妥協策としてこの和協を承認。

ここにオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立します。

この裏側では、後のハンガリー首相となるアンドラーシ伯爵と深い友人関係を築いていたエリザベートが、夫に働きかけハンガリーのために尽力した功績が大きいと言われています。

1867年6月8日、ハンガリーのマーチャーシュ教会で、ハンガリー国王の戴冠式が絢爛豪華に行われました。

エリザベートも民衆からの歓呼の中ハンガリー王妃に即位します。

この時、エリザベートは30歳。

その生涯で最も輝いた瞬間でした。

◆生涯最大の悲劇

エリザベートがハンガリー語を熱心に勉強していた頃、6歳の一人息子ルドルフは、姑ゾフィーの方針で厳しい軍事教育を受けていました。

子供達の中でエリザベートの繊細な気質を最も強く受け継いでいたルドルフにとって、この体育会系のスパルタ教育はとても耐えられないものでした。

愛する一人息子の苦しみを伝え聞いたエリザベートは、夫に頼み込んでルドルフの教育係を変更させる事に成功します。

しかし、このことがルドルフの救済であったと同時に悲劇の始まりでもあったのです。

エリザベートが自ら選んだ教育係の影響で、ルドルフは成長するに連れ「自由主義的」な思考が強まり君主制に疑問を持ち始めます。

それは、皇帝である父との対立を意味していました。

そして父への反抗からルドルフは反体制的な記事を新聞に書き始め、夜な夜な街の酒場へ繰り出すような生活に浸って行ったのです。

このことがあり、父により帝国の要職から遠ざけられ、母は旅行に明け暮れ、相談する事も出来ず、ルドルフの孤独はどんどん深まって行きます。

そして、1889年1月30日、ルドルフは男爵令嬢マリー・ヴェッツェラを道連れに、マイヤーリングの城館で拳銃自殺を遂げてしまうのです。

彼はたったの30歳でこの世を去ったということになります。

エリザベートは哀れなルドルフの遺体を前にこう言いました。

「私の翼は燃え尽きてしまった」

自分と性分が似ていた息子の苦悩に気づかなかった事に、エリザベートの精神は打ちのめされました。

そして、これ以来、エリザベートは決して喪服しか身に着けないようになったのです。

喪服で乗馬をするエリザベート、横乗りスタイルは相変わらずです。

また、晩年のエリザベートは上記の写真のように扇で顔を隠している写真が多いですが、これは急に写真を盗み撮りされそうになって咄嗟に顔を隠したとのことですが、長年の間違った美容法が原因で容姿が著しく衰えたのを隠すためともいわれています。

また、姑のゾフィーに「歯が黄色い」ことを指摘されコンプレックスになっていたため、肖像や写真も全て口をきっと噤んでいて歯を見せて笑っているものは一枚もありませんでした。

◆夫フランツ・ヨーゼフとの奇妙な愛の形

旅から旅への放浪生活を30年近くも続けていた皇妃エリザベート。

じゃあ夫フランツ・ヨーゼフとの夫婦仲は悪かったのかと言えばそうではないのです。

エリザベートはアンドラーシ伯爵と恋人同士と思われるほど親密で、ハンガリーで生まれた三女マリー・ヴァレリーは伯爵との子ではないかとも噂されました。

しかし、マリー・ヴァレリーはフランツ・ヨーゼフそっくりに成長したため、その説は否定されます。

また、馬術を習った騎手ミドルトンとも噂になりましたが、婚約者がいたミドルトンとはそれ以上の関係にはなりませんでした。

そして、夫フランツ・ヨーゼフはと言えば、執務室に妻の肖像画を飾って仕事をするほどエリザベートを愛していました。

そんな夫に対して妻としての役目を果たせていない事を少なからず申し訳なく感じていエリザベートは、なんと自ら夫に愛人を紹介したのです。(より自由になりたいという彼女の願望を果たすためでもありました。)

その女性は、フランツ・ヨーゼフお気に入りの女優カタリーナ・シュラットでした。

1886年、エリザベートはカタリーナが肖像画のモデルとなっている所へ夫を案内するという、二人の出会いの場を自ら演出しました。

その後も宮廷で二人がこっそり会えるよう手配するなど何かと二人の事を気にかけますが、時には女らしく嫉妬して「おでぶさん」と、カタリーナの悪口を言ったりしました。

自らお相手を紹介したにもかかわらず・・・これは、エリザベートの女心が垣間見れるエピソードですよね。

夫のために愛人を用意するという行動は「奇妙な女性」と呼ばれたエリザベートならではの夫への愛情表現、そして、より自由に好きなことをするための選択だったのでしょう。

◆嫁姑戦争の終わり

1867年、フランツ・ヨーゼフの弟でメキシコ皇帝だったマクシミリアンが革命軍によって処刑されます。

この知らせに、さすがの姑ゾフィーもショックで意気消沈し、それ以来、あれほど絶大だった宮廷でのゾフィーの影響力は次第に薄れて行きました。

そして1872年、ゾフィーがとうとう肺炎で病床に伏します。

その時、ゾフィーを懸命に看病したのが、長きに渡ってゾフィーと対立して来たエリザベートだったといいます。

二人はここで初めて和解しますが、その看病の甲斐もなくゾフィーはあっけなくこの世を去って行ったのです。

享年67歳でした。

その後1886年、バイエルンの幼馴染ルートヴィヒ2世が謎の死を遂げると、その2年後には父マクシミリアンが亡くなります。

そして1890年、ハンガリーからアンドラーシ伯爵の病死の知らせが届きました。

その後も、姉ヘレネ、母ルドヴィカ、妹ゾフィーと、エリザベートは愛する人々を次々と失って行きます。

姑ゾフィーが亡くなった事で、エリザベートがウィーンを避ける理由がなくなったにも関わらず、エリザベートは変わらず旅を続けました。

これまでエリザベートは自分の居場所を求めて旅をしていましたが、愛する家族を亡くしてからは、まるで生きる意味を失ったかのように彷徨い続けて行くのでした。

◆永遠の旅路へ

その日、エリザベートとハンガリー人の女官のスターライ伯爵夫人は、1時40分の船でモントルーへと戻るため、船着場へと急いでいました。

前日、スイスのレマン湖畔にあるロスチャイルド男爵夫人の別荘を訪問したエリザベートは、これまで徹底してきたダイエットを忘れたかのように、久しぶりに満腹になるまで食事を堪能しました。

それからジュネーブでショッピングを楽しんだ後、ホテルで一泊します。

そして今日、ホテルを出たエリザベートは、船着場へと向かう並木道で一人の男とぶつかりました。

衝撃で思わず仰向けに倒れたエリザベート。

スターライ夫人が慌てて近づき助け起こします。

立ち上がったエリザベートは「胸が少し痛むような気がする」と言いながらも、再び船着場へと歩き始めますが、船に乗った後、再びめまいに襲われ倒れてしまいます。

「いったいどうしたんでしょう」

その言葉を最後に、エリザベートの意識はなくなりました。

1898年9月10日2時20分、こうして皇妃エリザベートの60年の生涯はあまりにも突然に幕を閉じました。

◆事件の真相

エリザベートの死因は、細く鋭いヤスリで胸を刺された事による刺殺でした。

犯人は、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニ。

ルケーニの当初のターゲットはフランスのオルレアン公でしたが、オルレアン公が現れなかったため、ターゲットをエリザベートに変えたのです。

エリザベートの旅はお忍びのはずでしたが、知らぬ間にジュネーブ滞在中と言う事が新聞に掲載されていたのです。

この時代、既にパパラッチが存在していたということで驚きますね。

貴族を激しく憎んでいたルケーニにとって、ターゲットは貴族であれば誰でも良かったと言います。

刺されてからもエリザベートが船着場まで歩けた理由は、刺された傷口があまりにも細かったため出血に時間がかかったからだったということでした。

フランツ・ヨーゼフはウィーンのシェーンブルン宮殿の執務室で妻の訃報を受け取りました。その時、フランツ・ヨーゼフは知らせを持ってきたパール伯爵にこう言ったといいます。

「わたしがシシィをどれほど愛したか、そなたにはわかるまい」

この言葉は、もしかするとパール伯爵ではなくエリザベートに向けた言葉だったのかも知れません。

◆まとめ

皇妃エリザベートの生き方は、よく言えば自由奔放、悪く言えば身勝手でわがままだったと言えます。

唯一政治に関与した二重帝国の成立ですら、その根底にはハンガリーを嫌っていた姑ゾフィーへの反抗心があったという事は間違いありません。

全ての責任から逃げ、旅をし続けて暮らしたエリザベートを批判する人は多く存在しました。

しかし、それはエリザベート本人にとっても、実施は予期せぬ幾つもの偶然が重なった、運命のいたずらの結果だったのではないでしょうか。

エリザベートを責める事は、あまりに酷と言えるでしょう。

そんなエリザベートの障害にあまりに突然に訪れた苦しみのない「死」は、神様から彼女への最期の贈り物だったのではないでしょうか。

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