皇妃エリザベートの人生②結婚後の生活 姑との確執と夫とのすれ違い 子供を奪われたシシィの宮廷での悲しき日々

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皇妃エリザベートの人生②

結婚後の生活 姑との確執と夫とのすれ違い 子供を奪われたシシィの宮廷での悲しき日々

 

 

◆前回、エリザベートの人生①からの続きになりますのでよろしければこちらのブログ記事も合わせてどうそ。

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皇妃エリザベートの人生①幼少期~結婚 子供時代は変わり者?最も幸せだったシシィの15年間 ルートヴィヒ2世との関係も

 

 

1854年4月24日、ウィーンのアウグスティーナ教会で、皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベートの結婚式が執り行われました。

 

7万5千人の来賓客が見守る中、式典は華々しく行われ、ウィーン中が若い2人の門出を祝福しました。

しかし、宮廷での新婚生活は、エリザベートが予想もしなかった落胆の連続だったのです。

ここでは、生き生きとしていた少女が、徐々に諦めと逃避の人生へと迷いこむ原因となった結婚生活について追って行きます。

 

◆自由のないウィーンでの宮廷生活

 

ウィーンの宮廷でエリザベートを待ち受けていたのは、姑ゾフィーによる監視の毎日でした。

 

姉ヘレネに代わって急きょ結婚が決まったエリザベートには、嫁入りまでにお妃教育を受ける充分な時間がありませんでした。

 

そんな全くしつけのなっていない嫁を見て、ゾフィーは自分がこの田舎娘を立派な皇妃に育て上げなければという危機感に駆られます。

 

ゾフィーは一日中エリザベートにはりついては挨拶から立ち居振る舞いまで、帝国流の作法を事細かく指導し、エリザベートが少しでも間違えればきつく叱りつけました。

 

また、エリザベートの周囲の女官たちは全てゾフィー派の人物で固められ、エリザベートの行動は、彼女たちからゾフィに筒抜けでした。

怖すぎです。

 

◆皇帝の母ゾフィー・フォン・ハプスブルクとは?

 

エリザベートを苦しめた姑ゾフィーとは、一体どういう人物だったのでしょう。

ゾフィー・フォン・ハプスブルクは、1805年、バイエルン王マクシミリアン1世の娘として生まれました。美少女の誉れ高かったゾフィーは、19歳の時、オーストリア皇帝の次男フランツ・カールと結婚します。

 

フランツ・カールはお世辞にも美男とは言えず、覇気もない青年でした。当然ゾフィーは失望し、両親までこの結婚に躊躇したと言うのですから、よっぽどのダメ男だったんですね。

 

しかし、芯の強い女だったゾフィーは、夫には早々に見切りをつけて、長男フランツ・ヨーゼフの皇帝即位に向けての教育に心血を注ぎ始めます。

 

そして1848年、ついに愛するフランツィが18歳の若さで即位すると、実質的な権力者となり「宮廷内ただ一人の男」と呼ばれるほど影響力を及ぼす存在となるのでした。

 

 

◆何もかも真逆だった嫁エリザベートと姑ゾフィー

エリザベートとゾフィーは同じヴィッテルスバッハ家の出身で、エリザベートにとってゾフィーは叔母に当たります。

 

しかし、同じ家系の出身でありながら、2人は何もかもが正反対でした。

エリザベートはヴィッテルスバッハ家の人間らしく変わり者で、古い慣習を嫌い、何よりも自由を尊重する先進的な考え方の持ち主でした。

 

感受性豊かで、ルートヴィヒ2世と同様、精神的に弱い部分があったと言えます。

一方、ヴィッテルスバッハ家本家出身のゾフィーはいたって常識人。

 

絶対君主制を信じて疑わず、反乱や革命運動などを全否定していました。

 

つまり時代遅れの頑固者ですね。

しかし、それゆえに精神力の強さにかけては半端がなかったのです。

 

 

◆嫁姑戦争勃発

 

そもそも、出会った時からゾフィーにとってエリザベートの印象は最悪でした。

なにしろエリザベートは、ゾフィーお気に入りだったヘレネからフランツィを横取りしたとんでもない娘。

 

しかも自分が手塩にかけたハンサムで聡明なフランツィから絶大な愛を注がれているのです。嫉妬心が湧き上がって来たのも無理はないでしょう。

エリザベートの方も、厳しすぎる姑に対しての憎しみが芽生えて行きます。

 

最初こそ泣き暮らしていたエリザベートですが、しばらくすると愛馬で遠乗りに出かけるなど、ゾフィーに反抗する態度を見せ始めます。

 

そして、この行動が宮廷内の人々の反感を呼び、エリザベートは徐々に宮廷で孤立して行く事になるのでした。

 

 

◆すれ違い夫婦エリザベートとフランツ

 

エリザベートは、姑ゾフィの厳しさや宮廷の堅苦しさから、夫フランツ・ヨーゼフが救ってくれるものだと信じていました。

 

ところが、フランツはエリザベートの予想以上のマザコンだったのです。

若いフランツと、その片腕となって広大な帝国の治世に協力する母親はまさに一心同体。

 

エリザベートの入り込む余地はありません。母親の言いなりの夫にエリザベートはがっかりし、この結婚は失敗だったのではないかとまで考え始めます。

フランツの方はと言えば、マザコンとは言えエリザベートを心から愛していた事は間違いありませんでした。

ただ、 幼少の頃から皇帝になるべく育てられたため、TPOをわきまえる達人だったのです。

 

妻と過ごす時間には妻を愛し、仕事の時は母を尊重する事に、フランツは何の疑問も持っていませんでしたが、16歳のエリザベートは、そんな夫の立場を理解するには幼すぎました。

 

 

◆姑ゾフィーに奪われた子供たち

 

1855年、エリザベートは第一子となる女児を出産しました。

 

ところが、喜びも束の間、初孫は自分で育てると主張する姑に、赤ちゃんを奪われてしまいます。名前も姑と同じゾフィーと名付けられました。

 

続いて1年後、次女ギーゼラが生まれますが、この子もまた、ゾフィーの手許へと連れ去られて行きます。

 

ギーゼラが生まれてすぐ、フランツ・ヨーゼフとエリザベートにハンガリー訪問の話が持ち上がります。何とかして子供たちをゾフィーの手から取り戻したいエリザベートはゾフィーの猛反対を押し切って、子供たちを旅に同行させました。

 

その結果、長女ゾフィーがハンガリー滞在中にチフスで亡くなってしまうのです。

姑ゾフィーのエリザベートへの不信感は決定的になり、1858年、待望の世継ぎルドルフが生まれるやいなやエリザベートの手から取り上げます。

 

エリザベートの方も、自分のわがままから長女ゾフィーを亡くした罪悪感で、以前のように子供たちを取り戻そうという気力を失ってしまいました。

 

 

◆唯一自分の手で育てた三女マリー・ヴァレリー

ルドルフ誕生から10年後、三女マリー・ヴァレリーが生まれます。

 

この時にはゾフィーの権勢も流石に衰えており、エリザベートは初めて自分の手で子育てをする事が出来ました。

エリザベートはギーゼラとルドルフには母親としての実感が持てませんでしたが、エリザベートの事を母と慕っていたのも、このマリー・ヴァレリーただ1人だったのです。

 

 

◆まとめ

 

今回は、皇妃エリザベートの新婚生活を中心にご紹介しました。

 

エリザベートとゾフィーの嫁姑問題は、現在にも通じるものがありますね。ただ、家の規模が大き過ぎました。

 

エリザベートは、まだ恋に恋しているような少女でした。

 

その理想が次々と壊されて行く日々に、繊細なエリザベートの心は耐えられなかったのです。

 

エリザベートは、ハプスブルク家の嫁となるには、あまりに平凡な少女だったのでしょう。

 

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