マリーアントワネット② 悲劇を暗示する結婚式にまつわる五つの不吉。また、肖像画によって違う彼女の本当の容姿(顔)は?

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今回ブログでご紹介するのはマリー・アントワネットの生涯①幼少期~

からの続きです。

マリーアントワネットのフランスとの政略結婚の詳細と、

その結婚にまつわる未来を暗示するような五つの不吉。

そして、結婚後のヴェルサイユの宮廷での生活についても触れていきますね。

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よろしければお先にこちらのブログ記事もどうぞ

↓  ↓  ↓

マリーアントワネットの生涯① 幼少時代~ウィーンの宮廷での生活とモーツアルトからのプロポーズ♪母マリアテレジアの方が美女だった!?

では、引き続きマリーアントワネットの人生を追っていきましょう

◆フランスとの政略結婚

マリー・アントワネットのウイーンにおける家庭的で愛にあふれる幼少期の生活は、

彼女がわずか10歳の時、父である皇帝が亡くなったことにより一変します。

マリーアントワネットの母マリア・テレジアは、夫亡き後も長男をすぐに皇帝の座において、国の安定を図るために奔走します。

その中で、フランスとの友好関係を確固たるものにするために、

アントワネットに次期フランス国王、ルイオーギュスト(ルイ16世)との政略結婚をさせることを決めるのです。

当時故郷であるオーストリアは、現在のアメリカ並みの強大な軍事力と広大な領土、
そして国際的影響力を持つ大国としてヨーロッパに君臨していました。

北方の新興国であるプロイセンの勢力が拡大してくると、フランスとの同盟関係をより強固なものとして、自国の防衛と安寧を図ったのです。

もともと、マリーの誕生まもない1756年のヴェルサイユ条約調印で、
外交政策の切り札として、彼女をブルボン家へ嫁がせることが画策されていたのでした。

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少女時代のマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)

こちらはフランスに贈られたマリー・アントワネットの肖像画。

今でいうお見合い写真のようなものですね

豪華なレースと繊細な刺繍が施された清楚なドレスを身にまとったアントワネットは、

とても気高く、目や口元からは芯の強ささえ感じます。
その一方で母、マリア・テレジアは彼女のことを、

「怠慢で忍耐力に欠け、軽率。総じて判断力に乏しい」と心配していたようです。

◆お見合い写真ならぬ『お見合い肖像画』の真実! マリーアントワネットの本当の容姿は?

ところで、上の肖像画、

実際のアントワネットの印象とずいぶん違うと思いませんか・・・?

実は彼女の顔。肖像画ごとにかなり違っているのです
実は歴史のなかに数多く残されているマリーアントワネットの肖像画とされているものは、

物により顔が別人のように違っているのです。

特にウィーンでの幼少時代とフランスに嫁いでからの肖像画は、

何か違和感というか・・・

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こちらはウィーン時代のマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)。

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こちらはフランスに嫁いでからのマリー・アントワネット。

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ウィーン時代。

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そして、フランス・・・

いかがでしょうか

明らかに年齢を重ねたという変化ということでは、説明しきれないレベルの別人感があると思いませんか?

その秘密は何だろうって探っていくと、

答えは『あご下の長さ』です。
フランスに嫁いでからのマリーアントワネットの顔は、明らかにあご下が長くなっているのです!

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こちらは革命派のルイ・ダヴィットによる、処刑場に送られる時のマリーアントワネットのスケッチ画になります。

横顔を見るとわかりやすいと思いますが、彼女の顔は鼻の形やあごにかなり特徴がありますよね。

面長であごに特徴あり。

これこそがマリーアントワネットの本当の顔だったようです。

ですが、肖像画でここまで顔を変えちゃうのってなんだか不思議・・・?

多少美しく描いて欲しい!っていう気持ちはわかるような気もしますが

その答えは、

幼少期の肖像画は、嫁入り前ということで大きく修正されるものだったからなのです。


当時の王族の結婚は、皆お見合い結婚になりますよね。

その際、当時はまだ写真がありませんでしたから、お見合い写真のよう肖像画を使っていたのです

そして、現代の私たちも、お見合いや就職なんかに使うプロフィール写真はかなり修整することが多いかと思いますが、

あれをアントワネットも肖像画でもやっていたのです

お顔というのは、実はあまり目立った特徴がないことが『美人』と言われることが多いかと思うのです。

オーストリア公女時代のマリーアントワネットの肖像画は、その悪目立ちするお顔の特徴は全て修正され、可愛らしい、完璧な美貌に描かれていたのです

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ちなみにルイ15世は孫のルイ16世の花嫁候補のアントワネットがどんな娘か、実物を検分に行ってきた大使に、まず真っ先に「胸は大きかったか?」と聞いたそう・・・。

現代でこそメザイクとか画像修正ソフトなんかで、もう本人の面影すらない写真がバンバンでまわっていますよね

実際、婚活なんかでも、プロフィール写真と実物が違いすぎるというクレームはよく耳にします。(男性の方がうるさいようですが、男は本能的に目から入るので仕方がないのでしょうね。)

でも、そんな昔からお顔の画像修整が行われていたことに驚きです!
そしてそんなお見合い肖像画の技術に長けた画家がいたなんて・・!

これは史実であり、マリーアントワネットに限られたことではなく、

何世代も続いていた習慣だったのだそうです。

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1770 年4月、ウィーンから届いた未来の王太子妃、

マリー・アントワネットの肖像画を親族に披露するフランス国王ルイ15世。

中央で椅子に腰掛けているのがルイ15世、その左で立っているのが王太子。
彼の弟のプロヴァンス伯、アルトワ伯、国王の3人の王女のアデライド、ヴィクトワール、ソフィの姿も見られます。

王太子とマリー・アントワネットの挙式を一ヶ月後に控えた、ある日のヴェルサイユ宮殿での出来事でした。




余談ですが先日、中国の男性がスマホで顔を修正した女性の写真を見て一目ぼれ

メールのやりとりを繰り返し、かなり思い入れが入った後、ようやく対面が叶った際、

あまりにも別人の容姿の女性がやってきて、何とも言えない怒りの感情から思わず殴ってケガをさせたっていうニュースを見ました

どっちが悪いかって話でしたが、私はどっちも悪くないと思います(笑)。

当時も肖像画のイメージでお見合い結婚をして、現実に驚いた王族たちが多く存在しているのと思うと、いつの時代も人間の本質というか、根っこにあるものは変わらないことが多いような気がします。

(彼らの場合は結婚してからも恋愛するパターンが多いので、結婚にそこまで期待していなかったのかもしれませんけどね。)

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ちなみに、こちらのマリー・アントワネットの肖像画は、どこかのクラブのマダムのよう。

彼女の肖像画はどこか「すれっからし」感を感じさせるものも多いと思います。
ですが、誰もがうっとりすると賞賛されている身のこなしの優雅さは間違いないようです。

こちらがルイ16世20歳の頃

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これも修正されてる・・・?

歴史の流れにもどりましょう。

1770年4月21日、マリア・アントーニアはオーストリアを出発して、フランスへと向かいます。

フランスのブルボン王家との政略結婚によりわずか14歳の若さで、

まだ会った事すらない夫が待つ異国へ嫁ぐことになったのです。

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輿入れの際に乗っていったガラスの馬車

素敵すぎる~

5月7日にはストラスブールにて「皇女引渡しの儀」があります。

マリー・アントワネットは、その儀式が行われるストラスブールまで、ヴァッハウ渓谷のメルク大修道院、ランバッハ修道院に泊まっています。

引渡しの儀は、オーストリアとフランスの国境であるライン河の中洲の、

女王メディアの館でとり行われました。

◆マリーアントワネットの結婚にまつわる第一の不吉とは?

当時、ストラスブール大学の学生であった後の文豪ゲーテがいました。

ゲーテはこの歴史的である輿入れの儀式が行われる式場を見たくて、そこの門番にワイロを渡し中に入りました。
そして、その大広間に飾られていたギリシャ神話の『王女メディア』をテーマにしたゴブラン織りのタペストリーを見て思わず息を止めるのです。

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王女メディア(イーヴリン・ド・モーガン画)

二人の子を殺害した王女メディアのタペストリー・・・不吉な祝いの装飾。

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わが子を殺そうとするメディア(ウジェーヌ・ドラクロワ画)

ゲーテは結婚にはおおよそ相応しくないその絵の内容に「なんだこれは!」と叫び憤慨したといわれています。

皆「絵の深い意味など誰も考えませんよ」と彼をなだめますが、

ゲーテこの不幸で恐ろしいとされる婚礼の絵を、この歴史的輿入れという晴れ舞台に飾っているとは無神経で無知ではないかと憤慨しています。

また同時に、『このことはマリー・アントワネットの未来を予言しているのではないか』という不安に駆られました。
そして、その不安はそれから23年後に的中してしまうことになるのです・・・。




儀式ではフランスに忠誠を誓うため、オーストリアから所有してきたものをすべて残していかなければなりません。

この輿入れ式は同時に祖国との別れの儀式でもあったのです

身に着けているドレスや宝石。慣れ親しんだ使用人も可愛い犬も全てです

そして、フランスのお洒落な衣装に装います

そしてここで、名前もマリア・アントーニアから、マリー・アントワネットと改められます。

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1770年5月7日、ストラスブールに到着したマリー・アントワネット。

      

ストラスブールはマリー・アントワネットを盛大に歓迎しました。

アントワネットの到着には薔薇の回廊のような通りを用意し、あたりはミサのように美しい明かりに照らされます

輿入れ式の後、マリー・アントワネットは凛然とした様子で、ガラスの馬車に揺られストラスブールの街を去っていきます。

ですが、ゲーテはこの歴史的な出来事を、マリー・アントワネットの悲惨な最期で幕切れるフランス革命の序章として生涯忘れることがなかったといわれています。

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ゲーテ。

ストラスブールからさらに1週間旅を続け、5月14日、コンピエーニュの森に着いたアントワネット。

そこで国王ルイ15世を始めとするブルボン王家の人々に迎えられました。
マリー・アントワネットは、未来の夫の祖父ルイ15世に向かって、優美に腰をかがめ、挨拶したといわれています。

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コンピエーニュの森。

アントワネットとルイ16世が、初めて会った顔合わせの場所です。

とっても美しい場所ですが、宮殿ではなく森だったとは意外ですね。

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フランスでのマリー・アントワネットの出迎え。

60歳の美男子で、しかも女性が大好きだったルイ15世。

愛らしい孫の嫁を大歓迎し、抱き起こし、両頬にキスしました。
そして、アントワネットの未来の夫、王太子ルイ・オーギュストを、彼女の前に引き出します。

祖父に似ず、お世辞にも美男子といえない内気な少年は、堅苦しく、気まり悪気に立っていましたが、祖父にせかされてようやく型通りに花嫁にキスしました。
馬車にアントワネットは、ルイ15世と王太子にはさまれて乗りましたが、話しかけるのはルイ15世ばかりで、王太子は黙りこくったままでした
そして、いよいよヴェルサイユに到着

1770年5月16日、ルイ=オーギュスト(のちのルイ16世)との結婚式は、祝賀花火が打ち上げられ、さらに舞踏会の間が建設されるなど盛大に執り行われ、宴もこの日のために特別に建設されたオペラホールで催されました。

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ヴェルサイユ宮殿の王族の礼拝堂。

こちらでマリーアントワネットの結婚式が行われました

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歴史的なロイヤル・ウェディングは何時間にもわたり続きました。

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ルイ16世とマリー・アントワネット結婚式

◆アントワネットの結婚にまつわる第二の不吉な出来事とは・・・?

結婚式の前に、ブルボン家代々に伝わる宝石である、

カトリーヌ・ド・メディシス(カトリーヌ・ド・メディチ)、スコットランド女王メアリーの宝石がアントワネットに贈られました

ですが、カトリーヌ・ド・メディシスは毒薬を使う魔女のような王妃、

女王メアリーは陰謀の末に処刑されています。

不吉な宝石の贈り物・・・(宝石には様々な念が入りますからね)。

またしてもアントワネットの結婚に不吉な暗示が・・・。

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マリー。アントワネットの婚礼ドレス(復元)

ダイヤモンドと真珠で覆われたウェディングドレスを着たマリー・アントワネット

ヴェルサイユ宮殿王室礼拝堂で、参列者は6000人以上。

ヴェルサイユ市内、近郊の農民、パリ市民などがつめかけます。

◆さらに、アントワネットの結婚にまつわる第三の不吉な出来事が・・・

『結婚証書』での儀式の時、最初に君主ルイ15世の署名「ルイ」、次に王太子が署名、3番目に王太子妃が「マリ-・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ」と署名しました。

その時、マリー・アントワネットが署名した際、彼女は不注意か緊張のせいか、誤ってジョゼファの「J」の上に大きな染みを付けてしまったのです。

更にアントワネットの最後の「ette」が目立つ程、右下がりになって、

ジャンヌの最初の「e」もハッキリ見えない署名となってしまいました。

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アントワネットがサインした婚姻証書。

このエピソードは池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』でも取り上げられていましたので、ご存知の方は多いかと思います。

この結婚証書に付けられた染みは、まるで未来のブルボン王朝とマリー・アントワネットの不幸を暗示する、不吉な前兆のような出来事となったのです。

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こちらは結婚を記念して作られた、神話が描かれた扇です。
ルイ14世の時代から、結婚式や子供の誕生のお祝いには特別な扇を作る習慣がありました。

ブルボン王朝が威勢を誇っていた時代は、フランスはどの国よりも上質の扇を製作し名を博していました。
マリー・アントワネットも好んでいたアクセサリーです

5月23日には、オペラ劇場で「アタリー」を上演

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王太子が特に好きな宗教悲劇でしたが、マリー・アントワネットは暗い内容で退屈で仕方なかったようです

◆第四の不吉は本当に恐ろしいものでした・・・

結婚祝いの最後を飾ったのは5月30日のパリ市主催の花火でした。
その日、国王も王太子も連日の祭典で疲れ果て、パリまで行く元気がなく早めに休みました。マリー・アントワネットは王女アデラィッドと馬車に乗り、夜8時頃にパリへと向かいます。

花火はルイ15世広場(現在のコンコルド広場)で行なわれることになっており、早朝から群集が集まっていました。

セーヌ川には飾り立てた船が何隻も浮かび、広場の噴水にはワインが並々とそそがれ、周囲には無数の松明が灯され、祭典気分は最高潮でした

マリー・アントワネットの乗った馬車が、サンクルーとパリをつなぐセーヴル橋に差し掛かった頃、花火の音が聞こえました。

アントワネットは胸をときめかせながら、もうじき広場に到着すると喜びに顔をほころばせたその瞬間、馬車が止められたのです。

見ると人々が叫び声をあげながら逃げ回っています。

群集は右往左往し、転倒する人が続出。

そうした人の上を飛び跳ねながら、誰もが安全な場所へと急ぐ・・・


大きな火事が発生したのです。

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ルイ15世広場での祝賀花火。

急遽、ヴェルサイユに戻ったマリー・アントワネットは、この惨事で132人もの犠牲者が出たことを知り愕然とします・・・。

結婚証明書に続くこの大惨事。不吉な予告があった結婚式と祭典と思わざる得ませんね。

◆最後に、アントワネットの結婚にまつわる第五の不吉な出来事

最期に、王大子妃時代のマリー・アントワネットの肖像画をご覧ください。

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「へーベーに扮した王太子妃マリー・アントワネットの肖像」

ギリシャ神話のゼウスとヘーラーの娘で、青春の女神、婦人の美徳ともいわれる女神へーべーは、酒宴の席で神々に舞踊と神酒ネクタルをする役目を担っています。

この神話は、「へーベーの母ヘーラーと夫ヘラクレスの和解」、「青春の女神へーベーの婦人としての美徳」、「大鷲に姿を変えたゼウスとガニメデス」が主なストーリーの内容です。

左でヘーベーをみる大鷲。

これが、アントワネットの嫁入り前の『ハプスブルグ家の紋章』を意図しているともいわれています。

「皇女引渡しの儀」でオーストリアの全てを残して嫁いだのですから、ブルボン家にはあまり好ましくないですよね。

そして、アントワネットはフランスに嫁いだ後、ヴェルサイユ宮殿で結婚生活を送ることになります。
14歳の幼いマリーにとって、ベルサイユ宮殿の暮らしはさぞかし戸惑いが多かったに違いありません。

そのことについては次のブログ記事で、引き続き詳しく触れていくことにしますね

↓  ↓  ↓

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