モンテスパン夫人 太陽王ルイ14世に愛された愛妾。絶世の美女の人生は、黒ミサ、毒薬、女のバトル、没落・・・興味深いエピソードがてんこ盛りです。


今日はブログで太陽王ルイ14世に愛された絶世の美女についてお話しさせていただきますね。

彼女の名前はモンテスパン夫人。

あのフランス王ルイ14世に寵愛された女性の一人です。

『フランスの王の愛妾を3人挙げよ』と言われたら、

まずはポンパドゥール夫人と
モンテスパン候夫人の名前が出てくるのではないでしょうか?

そんな愛妾の真打ち(?)、美女モンテスパン候夫人の人生には、
興味深いエピソードがてんこ盛りなのです☆

早速そのお顔をチェックしてみましょう♪

Francois-Athenais

女性らしいボディライン、本当に綺麗で妖艶な印象・・・

彼女は顔が美しいだけではなく、スタイルも抜群

それに加えて『ウィットにとんだ会話』もできるという、

ほとんどパーフェクトな美女だったのだそうです

確かに肖像画を見る限り、絶世の美女であることは間違いないですね

ですが・・・一方では、

「決して感じのいい人ではないけれど、申し分ない顔立ちと体つき」

とも評されています。

あれ?性格悪い・・・

Montespan

モンテスパン侯爵夫人の肖像画

本名フランソワーズ・アテナイス・ド・ロシュシュアール・ド・モルトゥマール。

生没年は1640年~1705年。

父であるモンテマール候ガブリエルはとてもエスプリに富んだ貴族だったそうで、
フランソワーズは父からその『エスプリ』を受け継いでいました。

小さな頃からルーブル宮に出入りしていましたが、
20歳の時にオルレアン公妃アンリエッタ・アンヌの侍女になりました。

その二年後の1663年、婚約者が殺されてしまったため、

一歳年下の婚約者の弟モンテスパン候ルイと結婚します。
結婚後はルーブル宮の近くに邸宅を借り、宮廷に出仕していました。

美貌に加え会話の上手さ、高い芸術的センスなど、フランソワーズは本当に魅力に溢れていました
公的なイベントにも積極的に参加し、その魅力を全面にアピールしていたようです(主に男性にだそうです

その後、モンテスパン侯夫人は王妃マリー・テレーズの侍女になります。
初めは二人は親友のように気が合っていたそうです。

また当時の国王の愛人だったルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールとも親友だったのだそうです。

次第に野心家のモンテスパン夫人は、ルイーズから公妾の座を奪おうと考えるようになります

なんとか国王の愛人になりたいと、虎視眈々と機会をうかがっていようです

そして1666年、ルイ14世に出会い、その魅力でルイ14世の寵愛を受け始めます。

豊かな金髪の巻き毛、青い瞳、なめらかな白い肌、真珠のような歯、小さく愛らしい唇・・・そうした彼女の美貌はいうまでもなく、

かつ快活で、才気があり、優れた話術と辛辣なユーモアを持ったモンテスパン夫人に王は急速に惹かれていきました。

o0255033213242967285

豊かなブロンドの巻き毛と輝くばかりの妖艶さ・・・

わざと数日間王に会うことを避けて、その心をじらすような手練手管は、彼女にとっては朝飯前でした

激しく情熱的な性格、傲慢なまでに威厳のある態度、そして辛辣なまでに機知に跳んだ会話をもって、王の心をどんどん魅了

そしてルイ14世は、ついにモンテスパン夫人を寵妃にするのです。

20091123_734017

モンテスパン夫人が王の寵妃となったと聞いた時、

彼女の父は「ありがたい、いよいよ福の神の御到来だ 」と言ったのだそう。

夫であるモンテスパン侯爵は妻が国王との庶子を産んだ際、

黒衣を纏って妻の貞操に対して喪に服し、国王を怒らせたというエピソードがあります。
浮気な妻をなお愛する、ウィットにとんだ優しい旦那様だと思います・・・

ですが、夫人は表向きそんな夫に冷笑を浴びせ、内心は邪魔になる夫に激昂していたよう

やがてモンテスパン侯爵は、借財を払うだけの代償を得て領地に引きさがり、妻を恋しつつ余生を送ったのだそうです

公妾の座をかけた女たちの戦いが始まります

当時の寵妃、ルイーズはお金にも地位にも贅沢にも興味が無く、ルイの愛だけで満足という王侯貴族の愛人にしては希有なタイプの女性でした。

モンテスパン侯夫人はルイーズより才気走ったところをアピールし、自分を公妾にするようせまります。

8163da276d1e4695d304595cfb9905fd

無欲の愛妾
ボージュール公 ルイーズ・フランソワーズ・ド・ラ・ヴァリエール

こんなに優しそうな愛妾の肖像画、他に見たことない・・・

ルイーズは美しい肌とブロンドの髪、青い目、甘い笑顔、

若々しい魅力にあふれた優しげな風情に、王が惚れ込んでいたようです。

Louise5

とても柔らかで穏やかな女性だったといわれています

純粋で信仰があつく、浪費家でもなく、お金や称号に関心がありませんでした。

ルイーズは、ただただ、王の愛のみを求めていたのです

ですが、すでにルイーズへの興味が薄れ始めていたルイは、

ルイーズとモンテスパン候夫人を同じお城に住まわせたりしました。(デリカシーなさすぎですよね)

モンテスパン候夫人は、ルイーズに身のまわりの世話をするよう要求し、

ルイーズを女官のように扱ったのだそうです

そう、モンテスパン夫人は可哀そうなルイーズを、さんざんいじめていたのです

気弱なルイーズは文句ひとつ言わず彼女に従いましたが、

日に日に、みるみるとやつれていきました

1668年7月、南ネーデルラント継承戦争の祝勝会の主役は、すでにルイーズからモンテスパン夫人に代わっていました。

宮廷での愛憎劇にほとほと疲れ、いよいよ限界のルイーズは、

1671年に修道院に入ろうとしますが、ルイの説得で一度は宮廷に戻りました。

しかし、その3年後に引退を許されるのです。

その後、戒律が厳しいことで知られるカルメル派の修道院に入り、
シスター・ルイーズと名乗り、残りの36年の生涯を送ったのだそうです。

修道院の苦行に耐えられるかと尋ねられたルイーズは、
「私が宮廷で受けた苦しみに比べたらどんな苦しみにも耐えられます」と答えたのだそう・・・

また、ルイーズは宮廷を去るとき、王妃マリー・テレーズの前にひざまづき、その心を長らく苦しめたことを詫びたといいます。

マリーのほうも「ノルマンディーの野に咲く可憐なすみれ」のようなルイーズを必ずしも憎んではいなく、その後、精神的な慰めと休息のために度々彼女の修道院を訪れ、ねぎらっています

普通に見れば優しいルイーズの方を選びそうなものなのに・・・
やはり男性目線でさらに国王のレベルともなりますと、見た目ゴージャスで我儘な女性をはべらせたいものなのかもしれないですね

Louise2

ルイ14世とルイーズ。

優しそうな彼女の方がいいのにな・・・

1674年、ルイーズドラヴァリエールをついに追い落とし、

モンテスパン夫人は見事!念願のルイ14世の公妾の座に収まりました

tumblr_nspfssW3Ev1ub0k50o1_400

知るにつれて強欲で意地悪そうに見えてくるモンテスパン夫人の肖像画・・・

モンテスパン侯爵夫人は、政治には関心がありませんでしたが、宮廷で絶大な権力を振るうようになります。

いまや、国王の心を完全に独占しきっている女性

そんな気性のはげしい彼女の怒りにふれることを、だれもが恐れる有様。

宮廷の毎日の生活に大きな影響力を発揮していくのです

モンテスパン夫人の住居は

「宮廷、快楽、富、そして大臣や将軍たちの希望と恐怖の中心となった」

とサン=シモンが回想録の中で記しています。

高級品と芸術に卓越したセンスを発揮したモンテスパン夫人は、

壁を絵画で飾り、彼女の居室を王宮の「エスプリの中心」としました。

彼女は、モリエール、ラ・フォンテーヌ、詩人フィリップ・キノーなど、芸術家たちの擁護にも熱心でした。

20091123_734008

芸術を愛し、国王から庇護されたモンテスパン夫人。

王は最も近い部屋に彼女を住まわせ、自分専用の入口を設置させました。

モンテスパン夫人は宮廷内で女王のようにふるまうようになり、お金に糸目を付けず豪華な宝石やドレスを注文しました

外国の使節の中には、影の薄いマリー・テレーズより、目立っているモンテスパン夫人を王妃だと誤解する者までいたそうです。

c45663a979d10458ac7f824b12ae3c83

王妃・マリー・テレーズ

ルイーズ・ヴァリエール嬢がマリー王妃の怒りに触れなかったのに対し、

遠慮なく王妃よりも贅沢をし、王妃より豪華な部屋をもったモンテスパン夫人、

当然王妃にはものすごく嫌われていました

また、宮廷内でも横柄なモンテスパン夫人の態度にちらほら敵が現れはじめます・・・

当然と言えば当然ですが、美しさも知性も、それだけのものをもっていながら本当にもったいないことですね

ecd43b87db6c7efdb7b0ba0945c4e0fd

王はモンテスパン侯爵夫人には常に寛大でしたが、

王妃を軽んじる言動に対しては、
「王妃が主人だということをわきまえ忘れぬよう。」と咎めることもあったようです。

また、モンテスパン夫人もヴァリエール嬢と同様、ほぼ絶え間なく妊娠し、

王との間に七人の子供をもうけています。(モンテスパン侯爵 との間にも二人子供がいます)

そのうちの六人が1673年に国王によって王の正当な子供として認められています。

20091123_734005_t

モンテスパン侯爵夫人とその子供

1675年 アンドレ-シャルル・ブール

20091122_733941_t

モンテスパン侯爵夫人とその子供 作者不詳

王を自分のものとしたモンテスパン夫人の天下は、13年間にも及びました

しかし、

やがてかつてラヴァリエール嬢が味わった悲哀と屈辱が、

この栄華を極めるモンテスパン夫人の身にもめぐってこようとは、一体誰が予想したでしょうか・・・?

モンテスパン夫人の魅力に溺れきっていた王も、
彼女の嫉妬心やヒステリックな性格に、徐々にうんざりし嫌気がさしてきます
ルイは例によって、別の女性に興味がうつり始め、
1679年、フォンタンジュ公アンジェリークを新たに愛妾にします

20091122_733947_t

マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ

フォンタンジュ嬢は『まったく知性を感じさせない若くて美しい娘。』

とよく言われています。

20091123_733990_t

たしかに美しくて、そして可愛らしいです

フォンタンジュ嬢といえばヘアスタイル

img_0

17世紀末、貴婦人のあいだで大流行した、フォンタンジュ型ヘア・スタイルは、
フォンタンジュ嬢が流行らせたヘア・スタイルです

1680年のある日、
フォンタンジュ嬢は王様と馬でお出かけの途中、強い風にあって、せっかく結い上げたヘアスタイルが崩れてしまいます。
大急ぎで乱れた髪を高くまとめ、リボンを結んでなんとか格好をつけると、これが意外にも好評

「なんだ、似合うじゃないか」
と王様が言えば、お供の者たちも「本当に、なかなか斬新なスタイルで」と口をあわせます。
フォンタンジュ嬢自身も、このヘア・スタイルがすっかりお気に入りで大流行しました
ところが1681年、フォンタンジュ嬢が亡くなるのです。

そして、モンテスパン夫人が毒殺したという噂が流れました

モンテスパン夫人は早くから黒魔術に手を染めていたのです。
1670年代から、ライバルになりそうな女性たちにつぎつぎと毒を盛ってきたと言われています

モンテスパン夫人を語る上で、切っても切れないのが当時貴族達の裏世界でもてはやされていた黒ミサです。

中世の夜宴(サパト)は、古代のバッカス祭の復活のような形で、もっぱら田舎の野外で行われていたのですが、近代にはそれが都市の教会内部に侵入、黒ミサという名で呼ばれるようになりました。

貧しい民衆の開放的なお祭騒ぎが、時代とともに、だんだんと陰惨な、密室犯罪的な形に変化していったのだそうです。

黒ミサは普通教会であげられるミサの形式にのっとり、そこに恋の成就やライバルの不妊の言葉をのせるだけのものでしたが、

次第に怪しげな媚薬の販売や、鳥や山羊の生贄を使用した悪魔的な儀式へとエスカレートしていったのです

大規模な警察捜査による呪術師達の逮捕が幾度かありましたが、

顧客が有力な貴族達であったため、犯人の釈放や事件のもみ消しなどで、黒ミサのエスカレートは止まることはなかったといわれています。

モンテスパン夫人には、信じがたい逸話が残っています。

王の寵愛に陰りが見え始めた時期に彼女が行ったという黒ミサは、生きた赤ん坊が生贄にされるという凄惨なものでした

一糸まとわぬ姿のモンテスパン夫人は、黒い布におおわれた祭壇に横たわりました。

司祭は赤ん坊を彼女の上にかざし、呪文をとなえながらその赤ん坊の首にナイフが振りおろされると、赤ん坊の首ががくりと前に垂れ、傷口からほとばしり出る血しぶきが、モンテスパン夫人の身体や、聖杯のなかにしたたり落ちます。

血がほとばしって彼女の白い肌にしたたり落ちる間、彼女は性的快感に身を震わせたといいます。

聖杯の上で、赤ん坊はすっかり血がなくなるまでしぼりとられ、腹を切りさいて内臓を取り出します。

赤ん坊の血の入った聖杯をわたされた夫人は、それを一気に飲みほしたのでした

本当にこのようなことが行われたのかは、今となっては確証がありません。

ですが、このようなことは当時確かに行われていたようです。

モンテスパン夫人の子供たちの教育係を務めていたスカロン夫人(のちのマントノン候夫人)
母親のスキャンダルを子供たちから隠そうと必死でした。

一方でルイは、モンテスパン夫人への愛がまだ完全には冷めきらなかったのか?
ほったらかしにしてヒステリックな彼女にギャーギャー騒がれるのが面倒だったのか?
スキャンダルの後も毎日彼女のもとへ通っていたと言われています

宮廷内で傍若無人にふるまったり、王妃をないがしろにしたり、

身勝手でわがままのし放題を繰り返してきたモンテスパン夫人。

彼女は感情を抑制できず怒鳴り散らし、

王との間にできた子供も生みっぱなしで愛情を注がず放っておき、賭博に熱中している始末

a0130272_171252

彼女の子供たち教育は友人のスカロン未亡人に任されていました。

(のちにマントノン夫人と呼ばれることになる女性です。)

スカロン夫人はとても信心深く、神と子供たちのことにしか口にしないような色気のない女性当時のヴェルサイユには絶滅危惧種の慎ましやかな女性でした
子供たちが病気になった時も、つきっきりで看病するのはスカロン夫人でした。

また、4人目の出産と加齢でモンテスパン侯爵夫人は取り返しのつかないほど太り、かつての美貌は失われ、ビール樽のように太ってしまっていました
もう、地味なスカロン夫人が際立つほどに、モンテスパン侯夫人の魅力はなくなっていたのです・・・

20091120_733090

スカロン夫人(のちのマントノン候夫人)

Pierre_Mignard_-_Françoise_d'Aubigné,_marquise_de_Maintenon_(1694)

たしかにルイ14世の宮廷では異彩を放つ地味さですね。

ルイは次第にスカロン夫人に安らぎを覚え愛するようになり、愛妾にします。

スカロン夫人は爵位を与えられ、マントノン侯爵夫人と名乗るようになりました。
その時のモンテスパン夫人の嫉妬は凄まじいものだったと言われています

けれど、さすがにもう毒は使えません・・・
彼女の生活はますます荒れていき、ルイもいいかげんに愛想をつかし始めました。

1685年、ルイはこっそりマントノン夫人と結婚したと言われていて、
モンテスパン侯夫人は、子供たちがいますので、

事実上形だけ宮廷に置いてもらっているようなものだったのではないでしょうか?

王の寵愛を再び取り戻そうとモンテスパン侯夫人は、当時魔女と呼ばれ、黒魔術の他に堕胎や毒薬による毒殺を請け負っていた、ラ・ヴォワザンという女性の許を訪れていました。

ラヴォワザンは表向きは占い師でしたが、裏では、堕胎、毒薬の販売もしていました。

夫人は今度はライバル共々王まで亡き者にしようとラ・ヴォワザンに相談したのです。

毒薬をぬった嘆願書を王に送りつける方法を教えられました。

しかし実現前の1679年、ラ・ヴォワザンやその他360人もの黒ミサ参加者が逮捕されます。

事態の深刻さを知ったルイ14世は特別審問会を設置し、徹底的に真相の究明をさせました。

取調べが進むにつれ、ラ・ヴォワザンの顧客で黒ミサや毒殺に関与している有力貴族達や名立たる貴婦人達が多数いる事を知り、王は愕然としたのです

当時、フランスでは毒殺が流行しており、パリ警視総監のドーブレでさえ妻によって毒殺されていました。

占い師と看板を掲げてはいるが、実態は毒薬の販売や堕胎を生業としている店が、パリには多くある事が明らかになりました。

さらに、ヴォワザンは名前を明かそうとしなかったが、逮捕者の1人のギブール神父の証言により、1680年にはついにモンテスパン夫人の名前も出てきました。

黒ミサ事件は、ルイ14世の治世最大の醜聞となりました。

宮廷の有力者が何人も関与していたため、警察も本格的な捜査はできず、告訴されたのは110人ほどでした。

1680年2月20日にヴォワザンは火刑にされ、ギブール神父は終身刑にされました。

断罪された他の者も、死刑・終身刑・流刑を言い渡されたといいます。

モンテスパン侯夫人の破滅は自分の王政の破滅でもあると思い、ルイ14世は彼女の名前が特別審問会で公表されるのを恐れ特別審問会を中止します。

結果、147人が処刑を免れ、全ての書類も焼却されました。

これが太陽王ルイ14世時代の、世紀の毒殺事件の概要です。

かつてはモンテスパン侯夫人にあれほどまでに溺れきっていたルイ14世。

すでに嫉妬心やヒステリックな性格にうんざりし始め、嫌気がさしていましたが、

今回の事件で完全に愛想をつかしてしまうのです

ルイ14世の寵愛を失ったモンテスパン候夫人の部屋は、王の寝室から遠く離れた部屋に移されてしまいます。

しかし、なおもモンテスパン候夫人は宮廷に留まっていましたが、

ついに1686年に宮廷を出て、サン・ジョゼフ修道院に入ることを決意することになります。

ルイは感謝の気持ちを込めて・・・ということで父親をパリ市長にして
フランソワーズにも50万フランの年金を与えました。
しかし、これは「もう戻ってこないでね」という気持ちの表れだったみたいです

また、その際モンテスパン候夫人の気が変わらないようにと、王はその後すぐに彼女の部屋を別の者に与えたのだそう。

(どんだけ嫌われてるんだって感じ。かつては愛し合った人にこれだけ嫌われるっていうのも悲しすぎますよね・・・)

モンテスパン候夫人は媚薬と毒薬で宮廷を操ろうとしたのかも知れません。

しかし、そんなことがいつまでも続くものでもありません。

元々、そのようなことを考えること自体に無理がありました。

そして、彼女は宮廷にいた約20年の間、

『よくもまあこれだけ出来るな』

とむしろ感心してしまうほど敵ばかりをつくり続けてきました

しかし、それもルイ14世の寵愛あってのこと。

宮廷を追い出された彼女は、自分自身のしたことを省みる人ではなく、

再び宮廷に上がる日を夢見続けていたそうです。

しかし、自分の子供の結婚式でさえ宮廷に招かれることは無く、
自分の城に用意したルイの部屋に彼が訪れることもありませんでした

ラ・ボーメイユは、モンテスパン侯爵夫人をこのようにみています。

「はばかるところなく人の悲運をよろこんだ。」と。

サン・シモンは、どう見ていたでしょう?

「支配欲が強く、倣慢にして、人を侮る。この美貌の主は従臣にさえ自己本位にとらわれた。」

一方で、モンテスパン侯爵夫人は国民には大変人気があったらしいのです。

側で見ていなく無害だからでしょうが、支配欲が強いところは誇らしげに見え、

なんといってもその美貌が見る人をうっとりさせてしまうからなのでしょうね。

宮廷を追放されてから約20年後の1707年に彼女は亡くなります。

普通亡くなった後は、生前どんなひとでも大切に扱われると思いますが、彼女は違いました。

子供の中には嘆く者もありましたが、ルイは喪に服すことすら許さなかったそうです。

そして死後、彼女自身の遺言で内臓を壺にいれてどこかへ持っていくということになっていたのだそうですが、壺を実際に持っていく役になった男性はその遺言を知らされておらず、中身がなんなのかも知らなかったようなのです。

道中、臭うようになってきたため壺をあけた彼は驚いて、モンテスパン候夫人の内臓を道端にまき散らしてしまいます。それを近くで飼われていた豚が食べてしまったとか・・・

そのことを聞いた宮廷の人たちは、「あの女に内臓があったのか」と亡くなった人に対して悪口雑言だったとか。

それだけ嫌われていたのでしょうね

Louise6

モンテスパン候夫人の肖像画。

赤い布は、聖母マリアのイメージで描かれているのかもしれません・・・?

普通、顔が美しくスタイルもよく頭もよかったら、人生無敵と思えるほど幸せになれそうですよね?

皆さまもそう思われるのではないでしょうか?

でもモンテスパン夫人の場合はそのことに奢ってしまい、優しさや思いやり、気配り、温かさのようなものは一切持たなかった。

その結果、それが最後の最後で自分に跳ね返り、みじめな最後を遂げなくてはならない羽目に陥ってしまったようです。

常々思いますが因果応報って、やっぱりあると思うのです。

宮中で栄華を極めた彼女が、永遠に繁栄したいと考えてきちんと努力していれば、

多少の敵はいたとしても『敵しかいない』という状況には決してならないはずなのに・・・。

美貌の人もいつかは容色が必ず衰えてくる日がきます。

モンテスパン候夫人がルイ14世の寵愛がいつかはなくなるということを想像することができたなら、生まれ持った美貌だけに奢らず、内面の美しさにも磨きをかけるはずなのに、とても残念でなりません。

もっとも、モンテスパン候夫人は持って生まれた性格がかなり悪かったようなので、

そういう発想に至らなくて当然だったのかもしれませんが。

いかがでしたでしょうか?

モンテスパン候夫人の人生から学べることがたくさんありますね。

歴史は繰り返すといいますが、今を生きる私たち女性も、過去を生きた女性も、

人間の根っこのところは今も昔もなんら変わるところはないのです。

歴史を生きた美女たちの生き方から多くのものを学んで、私たちも美しく生きていきたいですね

関連記事

ディアーヌドポワティエ 19才年下の王を虜にし、美と愛に生きた美しき愛妾。シュノンソー城を舞台にした正妻カトリーヌドメディシスとの因縁の物語。

デュバリー夫人① 『べルサイユのばら』でお馴染みのルイ15世の愛妾。その性格や過去の人生、宮廷生活、マリーアントワネットや首飾り事件にまつわる因縁とは?

デュバリー夫人② ヴェルサイユ宮殿を追放された後の人生は?元フランス王の愛妾がフランス革命に翻弄され、断頭台(ギロチン)で処刑されてしまう悲劇の最期。

マリーアントワネット⑨ ポリニャック伯夫人 アントワネットを操り一族を繁栄させたしたたかな悪女。その美貌とランバル夫人との関係、運命の最期、「ベルばら」でもおなじみの娘の生涯は?

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

公開日:2016年4月5日